初恋の結末
幼い頃より王太子妃になるべく育てられたアリストア。感情を表に出さないように教育され美しい立ち振舞いを意識していた。常に監視され王妃として相応しいか採点される毎日。周囲が眉を顰めるほど厳しい教育でもアリストアに不満は一つもない。いつも隣には最愛の婚約者のエドウィンがいた。アリストアの婚約者は優しく誠実、二人には特別な絆があるはずだった。
「どんな時も君が信じてくれるなら絶対帰ってくるから」
「エド様を信じております。エド様の帰る場所をお守りして」
エドウィンがアリストアの頬に口づけるとはにかんだ笑みを浮かべる。アリストアが感情を表に出すのはエドウィンの前だけ。出会った時から一度も喧嘩はない。手を取り合って同じ道を歩いていくだろうとアリストアは信じていた。
隣国との戦争が始まり、出陣するエドウィンの背中を見送り三カ月。
勝利と無事を祈りながら公務に励むアリストア。エドウィンが行方不明という報せも動揺を隠して凛とした表情で受け取った。
「どうかご無事で。エド様」
時間ができると神殿に行き、アリストアはずっと祈っていた。アリストアの願いが届き、3か月後に勝利と共にエドウィンは帰国した。
エドウィンの隣には美女がいたがアリストアは無事な姿に泣きたい気持ちを我慢して微笑んだ。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
いつもは視線を合わせで微笑むエドウィンが気まずそうな顔をしていた。
アリストアは無事に帰国しただけで満足だった。
エドウィンが連れ帰った美女は伝承の世界の先見の巫女。襲われていたエドウィンを助け、奇策を提案し勝利に導いた女神。王国に繁栄をもたらすという先見の巫女は兵達の支持を集めていた。賓客としてもてなされる美女は表情豊かで優しく王宮でも人々の心を掴んでいく。厳しく冷たいアリストアとは正反対と…。
アリストアは先見の巫女とエドウィンが惹かれ合っているのに気付いても口を挟むことはなかった。美しい笑みを浮かべて自分にできることを、戦後処理に駆け回っていた。
祝賀会の日、アリストアは初めてエドウィンのエスコートなく一人で会場に足を運ぶ。
「アリー、僕達の道は別れた」
「エド様の望みのままに」
数刻前にアリストアは王家からの先見の巫女を正妃に、自身を側妃として迎えるという命令を微笑んで受け入れた。先見の力がある女軍師は平民の生まれであり公務をする妃が必要だった。ずっと妃教育を受けていたアリストアほど適任はいなかった。アリストアは国のため、エドウィンのための最善を心に刺さった小さい棘には気付かないフリをして受け入れた。
会場で寄り添う二人や自身への好奇な視線を気付かないフリをして美しい笑みを浮かべる。二人を祝福し、戦の立役者達に感謝を告げてダンスを踊る。これからさらに変わっていく自分の環境。それでもアリストアは大丈夫と前を向く。最愛の人の隣にいる未来は変わらない。幼い頃の約束がある。アリストアはエドウィンとの深い絆を信じている。
戦争が終わり一月が経つ頃、アリストアはエドウィンに庭園のお気に入りの場所に招待された。
帰国して初めての私的な逢瀬に心が弾むアリストアは温和な笑みではなく真顔のエドウィンに驚きながらも席に座った。目の前に置かれたお茶に手をつけ言葉を待つ。エドウィンが真顔の時は大事な話がある時と知っていた。
「君は国に不幸をもたらす。命を捧げてくれないか」
「え?失礼しました。理由を教えていただけませんか?」
「巫女姫が予言した。決して外れない」
アリストアは国のために必要なら命を差し出す覚悟はできていた。妃としてエドウィンに相応しくあるためにずっと努力してきた。未来の正妃に選ばれても妃教育を放棄し、使用人のお手伝いをしている巫女の代わりに公務をこなして、これからも励むことも呑み込んだ。アリストアの心の小さな棘が深くのめりこんでいく。ずっと努力してきたものが不確かな予言というもので壊されていく。穏やかな顔で死を命じる婚約者への確固たる信頼も愛情も崩れていく。信じていたエドウィンとの絆はまやかしだったと残酷な事実に気付いた。冷たい瞳で自分を見る最愛の婚約者に切り捨てられた動揺を隠して微笑んでいた。それでもカラカラに乾いた喉から何も音を出せなかった。
アリストアとエドウィンの逢瀬を見ていた男が口を挟んだ。
「エド、殺すなら俺が引き受ける。罪もないアリストアを断罪すれば不満が出るだろう。監視してやるよ。うちの領地は王都から遠い。戦勝の証にアリストアを俺が望めばうまく収まる」
エドウィンの異母兄にあたり、敵国の王の首を取ったディアス。乱暴者の問題児であるが戦での功績により辺境伯に任命されたばかりの王子。
アリストアは自分の意思とは関係なく進んでいくやりとりを静かに眺めていた。数刻前に死を命じられ、次は婚約者の変更。王家の命令は絶対である。そして自分が巫女の暗殺を目論んでいると疑われていることに衝撃を受けた。エドウィンに私情で人を殺すような女と思われていたことに。深くのめりこんでいく棘はアリストアの心髄に達した。
アリストアは一言も話していないのにエドウィンにエスコートされ謁見の間に連れて行かれた。国王へディアスが説明する声を聞き思考する余裕はなかった。ただただ耳から音が流れていく。
国王は愛息子の強い希望でも先見の巫女の予言とはいえ品行方正で国のために駆け回っている幼少から知っている罪のない少女を殺すのは気が引けた。優秀なアリストアはディアスのフォローにも丁度よく、女に興味のない息子が興味を持ったならとアリストアとディアスの婚約を決めた。アリストアの生家は王家に忠実なので何も言わない。娘の命よりも名誉、家の繁栄が優先だった。王の命令を受け、頭は回らなくても体は勝手に動いた。礼をして笑みを浮かべて命令を受ける。
巫女の暗殺を目論んでいると疑われているアリストアは監視役であり婚約者のディアスの邸に連れて行かれた。細身で背筋を伸ばして行儀よく座るエドウィンと違い大柄で足を組んで偉そうに座っているディアス。
「アリストア、怒れ」
「はい?」
「俺は寛大だ。うちでまで猫を被られたら迷惑だ」
穏やかに話しかけるエドウィンと違い偉そうな命令。怒れといわれても怒りなんて感情は幼い頃に捨てたものである。
「怒りもわかないのか?妃の椅子を奪われ、あげく死を命じられ、婚約者を代えられ」
「国のために命を捧げるのが務めですから」
「その笑顔もやめろ。目障りだ。邸では自由にしていいが外には出るな」
「かしこまりました」
苛立ちを隠さず部屋を出て行くディアスをアリストアは礼をして見送った。与えられた部屋は王宮の自室によく似ていた。バルコニーに出ると広がるのは見慣れない庭。アリストアは思考を放棄した。感情を殺すことは得意だった。バルコニーの椅子で眠るアリストアをベッドまで運んでくれた存在には気付かない。
翌日からディアスは監視のためにアリストアを常に隣に置いていた。馬に乗れないアリストアに呆れながら抱き上げてディアスの前に乗せてゆっくりと走らせた。会議も同席させ寝室以外は全て行動を共にしていた。アリストアができることがあればと手伝いを申し出ると驚いた顔を向けられる。書類を渡され、不備の多さに驚きながら修正するとニカっと笑い頭を撫でるディアスに驚きを隠して微笑んだ。ディアスの嫌そうな顔を見て、笑うなと言われたことを思い出して淑やかな顔を作った。ディアスの言葉は耳を通りすぎず、頭の中に残ることに気付いたのはしばらく経ってからのことだった。
*****
「アリー、泣かないで。お母様はお空の上から見てるわ」
アリストアの母親は5歳の時に亡くなった。愛する妻を亡くした夫は仕事にのめり込んでいく。母親を亡くし悲しみにくれる娘の存在に気付かずに。邸で忘れられているアリストアに気付いたのは婚約者の顔を見に来たエドウィン。庭で膝を抱えてうずくまるアリストアを抱きかかえて、王宮に連れ帰りずっと傍にいた。
「僕が傍にいるよ。大丈夫だよ」
エドウィンが抱きしめるとアリストアの瞳から涙が流れた。母親が亡くなり、父と使用人達もおかしくなった。アリストアの大好きだった温かい笑顔が溢れていたうちは、張り詰めた空気に支配され怖い顔ばかりになった。公爵夫人が自然死ではない疑いで緊迫した空気に支配されていたことは幼いアリストアは知らなかった。妻の死を受け入れない公爵は妻によく似たアリストアを遠ざけていた。
エドウィンの願いでアリストアが妃教育という名目のもと王宮で暮らし始めた日だった。時が流れて、アリストアの傷が癒えてもエドウィンと寄り添いながら過ごす姿は王宮では見慣れた光景でありディアスの目にも映っていた。
正妃の一人息子のエドウィンは溺愛されていた。エドウィンの代替品として育てられている妾の子供の一人のディアス。
自分と違い全てを持っている弟。一心に慕ってくれる婚約者に信頼できる臣下。武よりも文を学ぶことを優先され願えば全てが叶えられる唯一の王子。
隣国との戦争が始まり指揮を任されたのはディアスだった。正義感に駆られた異母弟が過保護な妃の反対を押し切り出陣してきた時は呆れていた。初陣もしていない甘い弟が敵兵に情けをかけたため、戦況を乱していた。ディアスはエドウィンを無事に帰国させることが最優先と命令を受けていた。危険な最前線から外して配置しても甘さを見抜かれおびき出され行方不明になった弟に苛立ちを隠して貴重な兵を捜索に回した。エドウィンさえ余計なことをしなければ戦の終わりが見えていた。
「ディアス様、殿下が見つかりました!!」
左腕に包帯を巻いたエドウィンが女剣士に腕を抱かれて発見された時は斬りたくなった。そして軍議に女剣士を参加させ王太子の権限で無茶な策を命じる。ディアスは奇策を使わなくても勝利は見えていた。エドウィンの捜索ゆえに総攻撃を仕掛けられず睨み合いを続けていただけだった。
先見の巫女なんて不確かなものをディアスは信じていない。諜報部隊の情報だけで十分であり、不確かな情報を信じて預けられた命を無駄にすることはできなかった。出陣する時に常に見送りに現れる少女と無事な帰還と命を無駄にしないことを約束した。全ての命を慈しむように育てられた少女から向けられる言葉は本物だった。代替品を王族として扱うたった一人の未来の国母に。
命令に従わないエドウィンの奇策は本人と精鋭の護衛に任せて、別の策を展開した。
先見の巫女の情報通りに敵が動き出し、教えられた部屋に隠れた王を見つけても、ディアスにも予想できたことだった。戦場を知らない武から遠ざけられたエドウィンと違いディアスは何度も戦や小競り合いに駆り出され鍛え上げられていた。王の首を落として、剣を掲げて勝利を宣言する。エドウィン達は奇策が成功したと思い込み喜んでいる。手柄はディアスと部下のものという事実は変わらないのでわざわざ勘違いと訂正はいれない。甘い異母弟に振り回された兵達を労い、帰還の準備を進めた。
王太子に気に入られたい若い兵達がエドウィンと先見の巫女を褒めたたえている姿を冷めた視線で眺めながら。
帰国すると青空の下で美しい笑みを浮かべるアリストアが礼をして出迎えた。
ディアスや兵達を労い、エドウィンを見つけ口元が緩むのを慌てて引き締め美しい笑顔で挨拶に行く。エドウィンはアリストアへの後ろめたさから素っ気なく言葉を伝えて国王のもとに隣にいる先見の巫女を連れて立ち去る。アリストアは追いかけることはせずに、兵達のもてなしに回った。
先見の巫女は王国に繁栄をもたらすという言い伝えをエドウィンは信じていた。それ以上に華奢で頼りない妹のようなアリストアとは正反対の鍛え抜かれた豊満な体を持ち、表情豊かで頼りがいのある年上の美女に夢中になっていた。
窮地を救われ、優しく介抱され、戦地に戻る自分を頼りないから守ってあげると美しく微笑む美女はエドウィンの側にいないタイプだった。そして戦地に戻る前夜にふっくらとした唇を重ねられ、知った世界は別世界だった。
国王は先見の巫女の存在に半信半疑でも妃に迎えたいという息子の二度目の必死な願いを無視できなかった。アリストアを側妃として迎えればお飾りの王妃でもいいかと受け入れた。
先見の巫女の力が本物だと知り見る目が変わるまで時間はかからなかった。妾に生まれた子の性別も、嵐がくることも。王家が先見の巫女の力に欲を覚えた時に、アリストアが嫌がらせをしていると噂が回った。
アリストアは巫女の接待に夢中なエドウィンの代わりに戦後処理に駆け回っていた。アリストアは巫女の存在を受け入れられない貴族に声を掛けられても美しく微笑みながら返す言葉は同じ。冷血女が捨てられたと陰口を言われても。
「陛下の命です。私に不満はありません」
エドウィンと先見の巫女が抱き合う姿を見ても、唇を結んで微笑みを浮かべて方向転換するアリストアをディアスは眺めていた。ディアスにはエドウィンとアリストアに深い絆があるように見えていた。恋人に夢中になりアリストアの死を望むエドウィンを見て、笑みを浮かべて動かないアリストアを放っておけなかった。現実主義のディアスには女剣士でもある先見の巫女を武術の心得のない華奢なアリストアが殺せる方法は思いつかない。ずっと国のために駆け回る少女が不幸をもたらすようにも見えない。国のために剣を握るディアスの出陣も帰陣も必ず出迎えに立つ穢れを知らない美しい少女。空の下で美しい少女の言葉を聞き、戦の終わりを実感する。薄汚れた姿を見ても、怯えず微笑む少女の瞳の揺れに気付かず、恋に溺れて勘違いする異母弟の言葉を遮り口を挟んだ。
戦争が始まる前は多くの令嬢達に羨望の眼差しを受けていた少女がバルコニーの椅子に丸くなって眠る顔はあどけない。遊びもしないで常に勉強ばかりしていた年下の少女。母親を失い、父親に避けられ、正妃の椅子を奪われ、婚約者に死を命じられ、大事にしていたものに置いて行かれるのに常に笑みを浮かべる少女。ディアスがそっと抱き上げると羽のような軽さの少女の閉じられた瞳から一筋の涙が零れた。
多くの物を持っているようで何も持たない少女が必死に積み上げ、掴んだものがこぼれ落ちた。それに怒ることも悲しむこともできない少女。ディアスよりも不幸な少女がこれ以上不幸に襲われなければいいと思いながら頬の涙を拭って寝顔を眺めていた。
翌朝、食事を終えたディアスはアリストアに命じる。王宮からアリストアの荷物は全て運ばれていた。
「アリストア、出かける。乗馬服に」
「乗馬服ですか?持ってませんが」
ディアスはエドウィンが乗馬が苦手だったことを思い出す。アリストアを抱き上げて馬に乗せると目を丸くする。相乗りしてゆっくりと馬をすすめると自然にこぼれた笑みに目を奪われた。
妃教育は完璧でも辺境領で生きていくために必要なすべを教えることにした。ディアスはいつ王家に放逐されてもいいように侍女の母に教育を受けていた。
ディアスは小柄なアリストアのために子馬を用意した。アリストアは初めて見る小さな馬に一瞬だけ目を丸くして、すぐに淑やかな顔に戻った。
「小さい馬ですが、私が乗っても潰れませんか?」
「俺が乗っても潰れない」
「お可哀想、いえ、よろしくお願いします」
大柄なディアスに潰される馬を想像したアリストアは首を横に振り、馬を助けるために恐る恐る背に乗った。びくともしない馬に驚きながらディアスの指導を受ける。
ディアスは度胸の据わっているアリストアに感心しながら指導をする。異母弟よりも運動神経が良いアリストアは筋も良く、すぐに馬をのりこなした。夕方には楽しそうに馬と駆け回る姿は見慣れている美しい笑みよりも魅力的だった。
翌日、内務を共にすると一瞬眉を顰めてから淑やかな顔をする。
「ディアス様、こちらは不備が」
「やるか?」
「お任せください」
ディアスにとってアリストアの素の表情探しが楽しくなり、家臣達も一緒だった。突然主が連れ帰った王太子の婚約者に驚きながらも、事情を話すと快く迎え入れた。
「ディアス様!!なんて命令を出したんですか!!」
しばらくしてディアスはシワシワの顔で目を吊り上げている侍女に詰め寄られた。
「お嬢様に目障りだから笑うなと命じるとは。微笑まれてからいけないと反省されているのでお聞きすると――――――」
ディアスは年老いた侍女の長い説教を受けながら猫被りをやめろと言った命令を勘違いされているのに気付いたが無意識に笑っているならいいかと放置を決めた。庭園で侍女とともに花を摘み無邪気に笑う少女の猫は少なくなっているのは明らかだった。
****
エドウィンはアリストアがいなくなったため公務に追われていた。
いつも隣で作業を共にするアリストアがいない。妃に迎える予定の巫女は教養がないため任せられなかった。燃えるような恋心が冷めはじめると心地よい存在が恋しくてたまらなくなる。アリストアの顔が見たくなりディアスの邸を訪問すると留守だった。邸を出ると兄の馬を見つける。
馬で競争しているディアスの隣にいる少女に目を見張る。
「負けました」
「上出来だ。寛大な俺は勝利は譲らないが賭けは譲ってやろう」
「魚釣りをしてもよろしいですか?」
「明日は雨だ。明後日だな」
「ありがとうございます。塩焼きというものを」
「動く魚に触れるのか」
「イメージトレーニングはばっちりです」
アリストアが楽しそうに話す相手をエドウィン以外は知らなかった。アリストアは侍女にさえも一線を引いていた。馬から降りて転ぶアリストアの腰をディアスが支える姿に胸が痛んだ。
「馬を頼む。先に戻ってろ」
「かしこまりました」
エドウィンに気付いたディアスはアリストアに馬を預けて遠ざけた。表情豊かになった婚約者に近づけたくなかった。
「先触れなしとは急用か?」
「いえ、お元気かと」
「元気だ。それだけか?」
「アリストアがどうしているかと」
「お前の婚約者に失礼だからやめろ。元婚約者に会いにくるなんて不誠実だろう。監視しておくから心配すんな。俺達は社交も免除されているから王都に近づかない。巫女に手を出すこともない。じゃあな」
ディアスは言いたいことがありそうなエドウィンに気付かないフリをして足を進めた。
アリストアは自然豊かな和やかな場所で優しい使用人達と言葉は悪くても行動は優しいディアスとの時間に砕けた心の代わりに小さな光を見つけた。人を信じることが怖く、空っぽになった冷えた心は小さい光のおかげで少しずつ温かくなっていた。そして初恋は終わりを遂げ、アリストアの中から最愛の人は消えた。
「お嬢様、嫌なことは教えてください。坊ちゃんが迷惑なら追い出して差し上げます」
「ディアス様にご迷惑はかけられません。私の監視というお役目のお邪魔にならないように」
「とんでもないです。坊ちゃんはお嬢様が来てから楽しそうです。お嬢様のおかげで仕事も楽になったと」
「お役に立てればありがたいことです」
アリストアは亡き祖母を思い出す皺のある手で世話をしてくれる侍女に微笑む。心は砕けても自分の立場をわかっていた。ディアスが優しさで保護してくれたことも。自分よりもエドウィンの不誠実に怒っていることも。
バタンと乱暴に扉を開け入ってきたディアスは人払いをした。
二人っきりになるとアリストアの正面に立ち、ゆっくりと口を開いた。
「アリストア、自分で選べ。俺の妻になるかエドウィンのもとに戻るか?」
「ディアス様?」
真顔のディアスにアリストアが首を傾げる。
「自分がどうしたいか教えろ」
「私は愛人をお迎えしても構いませんよ。形ばかりの妻」
「違う。お前の気持ちを聞いている。俺はお前を気に入っているから妻になるなら迎え入れる。今ならエドのもとに戻すこともできる」
アリストアは消したエドウィンのことを考えるのを放棄していた。ディアスが与えてくれた世界は刺激的で優しく王宮で過ごすのと比べられないほど楽しかった。エドウィンにとって自分は必要がないのに傍に戻ることはできない。なにより必要性を感じなかった。アリストアにとって優しいディアスの提案は考えるまでもなく答えは決まっていた。
「私とエド様の道は別れました。私にとっては砕けたものですが、エド様にとっては存在しないもの。恋に溺れた愚かな私は勘違いしておりました。ディアス様のご迷惑でないならお傍に置いていただければありがたいと存じます」
迷いのない瞳にディアスは笑った。弟の欲しい物を自分が持てるとは思わなかった。アリストアを求めるエドウィンに手を出されない方法が一つだけあった。
「ずっと側にはいられない。それでも必ずお前のところに帰ってきてやる」
アリストアはエドウィンとは正反対のディアスの強い瞳を見返した。ディアスはエドウィンとは正反対。守られることはなく戦いしか求められない王子。王族なのに、何も持たない王子がいつも国を守ってくれていた。これからも戦になれば駆り出される戦好きと誤解されているディアスの問いにアリストアは頷いた。規模が小さくてもディアスの帰りを待ち、優しい場所を守る方法を知っていた。
ディアスは強さを持つ瞳で見返すアリストアに唇を重ねた。驚いて目を大きく見開いた顔に笑いながら押し倒す。
「ディアス様!?順番が」
「問題ない。社交を免除されてる俺達はな。嫌なら拒め」
アリストアは笑うディアスの言葉に抵抗をやめた。自分の意思を聞いた上でいらない自分を求めてくれる存在に救われていた。ディアスがアリストアに意思を聞かなかったのは婚約者になった時だけ。あとは大事なことは全て聞いてくれた。社交を免除されているが社交界に戻りたいか。王都に行きたいか。うちに帰りたいか―――。どんな言葉も認識でき、冷たい心があたたかくなり始めた日から些細な問いかけがアリストアは嬉しかった。父親にも王家にも初恋の人にとっても価値のない自分がディアスの望むものを捧げられることも。乱暴な言葉と違いゆっくりと動く手は優しく、怖いことも嫌なことも何もなかった。
二人の関係が大きく変わった日。
***
ディアスはエドウィンが訪問した日に弟がいずれ望むことが読めた。それでも気付いていない鈍感な弟に答えは教えなかった。アリストアを見つめる瞳が変わっていることも。
これ以上全てを手に入れていた男に振り回されるのはごめんだった。そして自分の隣にいる少女が巻き込まれるのも。淑やかさはなくとも、天真爛漫な少女をディアスも家臣も気に入っていた。
腕の中で眠る少女を眺め、長い髪を弄ぶ。少しずつ色んな感情を覚えていく少女に愛しさを覚えても口に出さない。目を開ければ信頼の籠った瞳を向けられるのもくすぐったい。知識は豊富なのに生活力皆無で世間知らずなアリストアの育成をディアスは楽しんでいた。異母弟が動き出した時には全て後の祭りと嘲笑いながら。
常に共にいる戦上手の元王子ディアスと美しく華奢なアリストアの姿は有名である。共に何度も戦場を駆け回ったディアスの部下達は怪しい巫女よりも主君の寵姫の味方である。
ディアスは王都の情報をアリストアの耳に入れないように手を回した。
先見の巫女が国を出て行き、エドウィンの妃の椅子が空座になったことも。
ディアスの予想より時間がかかったのは、嬉しい誤算。戦場と違い平穏な日々に刺激を求める巫女が満足できないこと、頼りない恋人の周りは優秀な男に囲まれ、自分の存在意義を見出だせないことも。戦場ゆえに結ばれた二人の相性が合わないのは明らかで戦場での恋をよく知るディアスには結末も読めていた。燃えるような兵の恋の結末を。
「楽しいお手紙ですか?」
「父上からの呼び出し」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「戦はしばらくない。お前を残していけばうるさいからな」
「戦場ではお役に立てませんわ」
「留守番だ」
ディアスが渡さない物をアリストアは目にしない。求められたことしかやらないが、ディアスには充分だった。くしゃりと髪を撫でると笑うアリストアに家臣達から物足りない視線を受けて頬に口づけを落とす。はにかんだ笑みを浮かべるアリストアの可愛らしさに骨抜きになっている家臣に任せて出立する。
ディアスは自分とアリストアへの召喚状を持ち一人で王宮を訪問した。国王夫妻とエドウィンの顔を見て、呼び出しの理由がわかった。
「アリストアはどうした?」
「申し訳ありません。アリストアは体調が優れず休ませております。しばらくは安静に」
ディアスの言葉にエドウィンは常に体調管理も完璧だったアリストアに心配そうな顔をする。
「それこそ王宮に」
「長い移動に酔ってしまいますので。母子ともに健やかとはいえ無理をさせたくありません」
「母子!?婚姻前に」
「エドには言われたくない。お前も手を出しただろう。もうよろしいですか?」
心配そうな顔を一変させ怒りを露にするエドウィンにディアスは笑う。国王夫妻は一つの策を手放した。
エドウィンの希望でアリストアを婚約者に戻そうとしたが妊婦であればできなかった。
巫女のアリストアが国に不幸をもたらすという予言は当たっていた。
幼い頃から寄り添った婚約者に不幸にするという予言だけで命を捧げるように命じたことが噂になっていた。感情を顔に出さない冷たい印象のアリストアだが優しい少女と知る者も多かった。美しく凛と振舞う姿に憧れる者も多く、なんの非もないアリストアへの仕打ちは何一つ認められるものではなかった。
社交界から姿を消したアリストアは問題のある王子に引き取られた。社交上手のアリストアが上手く取り入り新たな婚約者の庇護下に入り、大事にされているのは運が良かっただけである。
エドウィンは強引に迎えた新たな婚約者と半年で婚約破棄。エドウィンは王族として信用がなくなり婚約者になりたいと望む者は誰一人いなかった。
エドウィンは臣下の信頼を失い、王太子の地位は取り上げられ、王族達による王位争いが始まった。
国でも特に力を持つ公爵家出身のアリストアを妻にしたディアスだけは辞退を表明した。国王は有力候補の辞退に驚く。
「アリストアの意見は」
「王家に命を捧げた時に妃を目指したアリストアは死んだそうです。若気の至りなのでもう無かったことに。王位争いには中立。俺達は不干渉の立ち位置を望みます」
「え?」
ディアスはエドウィンの傘下に入らないことも表明した。アリストアはディアスに全てを委ねていた。ディアスの妻のついでに王妃ならと笑い、ディアスの方針に従う準備を整え、エドウィンからの誘いの手紙もディアスに渡していた。
エドウィンはアリストアとの絆を信じていた。アリストアは自分に味方をしてくれると思っていたのでディアスの言葉を受け入れられず、面会させてほしいと頼んだ。
「ディアス様、お帰りなさいませ。あら?殿下。ごきげんよう」
「アリー?」
「恐れながら誤解されますので愛称はおやめください。殿下に振舞える料理はありませんが―」
アリストアは連絡もなく王子を連れ帰った夫に抗議の視線を送る。エドウィンは自分に向けられた視線が全てディアスに注がれていることに気付いた。ディアスが宥めるようにアリストアの頭をくしゃりと撫でると微笑む頬に口づけをおくる。
王家にとっていらないもの扱いを受けた二人。その分お互いを大事にすることにした。ディアスは呆然としているエドウィンを心の中で嘲笑う。冷たい現実を知らない甘い世界の住民は初めて手に入らない存在を知る。王宮で飼い殺される予定のディアスが領地を与えられ美しい妻をもらうきっかけをくれた異母弟に感謝する。常に冷静に判断するという大事な教えを習得できていなかったエドウィン。ようやく大事なものに気付いた時はすでに手遅れ。妹のように慈しんだ少女が美しく成長し、子供を抱いている。かつて恋した人より美しく見えた。エドウィンに芽生えた心は許されないもの。アリストアからエドウィンに向けられる視線に親しみは一切なく、一人の男の新たな恋の結末は見えていた。
「僕達に絆はなかったのか。僕だけは」
「エド、間違えるな。先に壊したのはお前だ。お前は加害者でアリストアが被害者」
ディアスは都合のいい思考の持ち主に冷たく伝えた。恋に狂って年下の少女に死を望んだことを忘れている異母弟に。
エドウィンは異母兄の言葉に自分が先に手を離したことにようやく気付いた。巫女への恋心はアリストアへの想いに上書きされ、エドウィンの世界から巫女は消えた。
恋人と最愛の人との別れを通して成長しても、新たな恋を見つけることはできなかった。
王太子に返り咲き、国王に即位してもエドウィンの心は満たされない。
反してアリストアは初恋の人とは正反対の夫のもとで満たされた生活を送る。
鈍感な夫はとうの昔に初恋の少女に囚われていたことに気付いてない。広い王宮でアリストアを見かけるのは意識しないとできないこと。無自覚なディアスだけが初恋を叶えたと気付くものはいなかった。
恋多き巫女の予言は的中していた。
数多の男を落とした策略家の巫女との恋に夢中になりエドウィンの世界の花を失った。巫女を消すのはアリストアの存在。
巫女は新たな恋を求めて旅立った。そして旅立った一番の理由が豪華だが自由に食べられず、腹持ちしない王宮料理が気に入らなかったからと知る者はいなかった。
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