09 改良と変遷の歴史
姉が風呂から上がり、しばらくすると和哉も二階にある自室から一階の客間へと降りてきた。
大人達は居間にて、お盆滞在最後の晩酌を楽しんでいるようだ。
俺はお気に入りに登録しておいた動画の中でも、特に好きな演奏動画を再生する。
姉と和哉と、ここの音色が好きだ、とか、この弾き方が格好良い、と自由な意見を交換していたところ、和哉が突然「ちょっと一時停止できるか」と画面を食い入るように見つめた。
「あれ? やっぱりそうだ。なあ、新太、この弓って、ちょっと普通のヴァイオリンの弓と違うよな?」
和哉が、ある動画を見て、目敏く何かに気づいたようだ。
俺は一時停止した画面を確認して、その弓の形状の違和感に気づく。
「あ! 本当だ。気づかなかったけど、弓の形が……確かにちょっと違う」
和哉に言われるまで気づかなかったけれど、よく見ると弓全体の雰囲気が通常のものとは異なっている。
俺が普段使用している弓は、スティック部分がカーブを描き、その中心部分が馬毛寄りにしなりを見せているのだが、その動画の弓は違った。
姉も「どれどれ?」と言って、覗き込む。
その画像に映る弓の長さは、よく目にする物に比べると幾分短く、そのためカーブがあまり見られない不思議な形をしていたのだ。
「ああ、これ――バロックボウよ」
「バロックボウ?」
「バロックボウ」
和哉と二人で声を揃えて姉に問う。
「そう。今、一般的に使われているモダンボウじゃなくて、バッハとかヴィヴァルディの時代に使われていた弓は、元々はこういう形状だったんだって。この動画は、その時代の音色を再現しているんでしょうね。ほら、一緒に演奏しているのもピアノじゃなくてハープシコードだし」
姉の言葉に、弦楽器の後ろに見えるピアノに似た楽器を確かめる。
ピアノに似ているけれど、演奏会で使うグランドピアノではない。
そう言えば、再生中に、どの楽器から生み出されているのだろうと、疑問に思った繊細な音色があった。
もしかしたら、このハープシコードのものだったのかもしれない。
ヴァイオリンに耳を澄ませていたので、その他の楽器の音色まで気が回っていなかったようだ。
姉の説明を聞いた俺は、素直な感想を洩らす。
「楽器も弓も、時代によって形が変わるのは、改良の歴史なんだろうけど……でも、こうやって、昔の弓の形で奏でられる音を聴くのも、良いもんだな」
俺の言葉を耳にした和哉が、静かに頷いた。
「移り変わりの……改良の歴史か。あのさ、もし、俺の――須藤和哉の歴史っていうのがあるとしたらさ、大人になった時に今を振り返ると、ヴァイオリンからバスケに移り変わるかもしれない……大切な節目になるんだよな」
俺と姉は、和哉の言葉に黙って耳を傾けた。
「バスケを頑張って、自分に自信を持てた時――いつかまた、ヴァイオリンを弾きたいと思える日がくるかな……でさ、今を思い出した時に、懐かしい、こんなこともあったな、って――俺が改良されるために必要だった変遷の歴史なんだって、胸を張って言えるようになったらいいなって――そう、思うんだ」
その科白に、俺と真由姉は和哉を見つめた。
「真由姉に相談して、新太とも話しができて本当に良かった! 二人のおかげで……オレ、父さんと母さんに話す決心もついたよ。ありがとう。結果は絶対連絡するからさ。良い報告、待っててくれよな」
和哉は俺たち姉弟としっかり視線を合わせると清々しい笑顔を見せ、「よし!」と掛け声をかけて勢いよく立ち上がる。
「オレ、そろそろ寝るわ。明日もバスケの早朝練習をしたいからさ。動画楽しかった。サンキュ!」
和哉は両手を天井に向け、伸びをすると、「おやすみ」と言いながら二階の自室へ帰っていった。
…
和哉が部屋に戻った後、姉は「喉乾いたでしょう? 冷たい水を持ってくるわね」と、部屋から出て行った。
俺は姉が戻ってくるまで、新しい演奏動画を探してみようと、タブレットの電源を再び入れる。
お気に入りに登録してあった動画は、かなり聴き込んだものばかり。
そろそろ、新しい奏者が弾く『協奏曲』をプレイリストに追加しようと思っての行動だった。
動画サイトで曲名を検索にかけると、ここ数日の間にアップロードされた物なのだろうか、今まで現れたことのない映像リストが数件ピックアップされたので、俺は心を躍らせる。
さて、どれを鑑賞しよう。そう思って画面をスクロールさせた俺は――その指を止めた。
その中のひとつ――突然、この目に飛び込んできたサムネイル画像に意識が吸い寄せられたのだ。
その理由は、すぐに判明する。
「これって……」
息を呑んだ。
喉からヒュッという音が洩れる。
アイツが――鷹司晴夏が、見知らぬ少女と並んでヴァイオリンを構えている写真。
その画像を見つけたのは、本当に偶然のこと。
俺は何故、こんなにも衝撃を受けているのだろう。
自分の心に生まれた感情の正体が、分からなかった。
動画のタイトルは、『ふたつのヴァイオリンのための協奏曲』(編集:星川リゾート映像部『クラシックの夕べ』最終日、昼の部より)――
アップロードされた日付は、昨日。
この動画を見たいような、見たくないような。
アイツが誰かと奏でる『協奏曲』を――聴きたいような、聴きたくないような。
そんな複雑な気持ちを抱えながら――
俺は、
震える指先で、
そのサムネイルに、
ゆっくりと――触れた。