08 向き、不向き
和哉とバスケットコートで話をし、『協奏曲』の合奏をしたその日の夕方――俺は送り火の準備を手伝うことになった。
提灯に小さな蝋燭を立て、それを持ってご先祖様の魂を此岸から彼岸に送るのだ。
幼い頃には触れさせてもらえなかった提灯を、和哉も俺も持たせてもらえるようになったのはいつのことだったか。
送り火と迎え火の双方で、家長の祖父と叔父は風呂に入り、身を浄めてから先祖の魂と触れる必要があるらしい。
盆棚には、最後の晩餐ということで、祖母達が作った精進料理が供えてある。
先ほどまで、祖母と叔母と母の三人が分担して、送り火前の準備で大忙しだったようだ。
里帰りをしている、目には見えない先祖の魂を背負うため、家族で順番に盆棚に背を向ける。
「後ろを振り向いちゃダメよ。ご先祖様が落っこちてしまうからね」
祖母がそう言いながら、玄関から出て行く。
女性は玄関から、男性は縁側から出るのが慣しのようで、お盆の迎え火と送り火の時だけは縁側からの出入りが許される。
旧道の国道沿いまで移動すると、父と祖父、それから叔父が藁に火を焚べる準備をしていた。
火のついた藁を手に持った祖父が、それらを旧道の国道沿いに等間隔で置いていく。
周囲を見渡すと、遠く離れた橋の上からも煙が細く立ち昇っている。
この時間帯に送り火をする家庭も多いのだろう。
毎年のこととは言え、送り火を終えると田舎での滞在期間は終わり、翌日には自宅に戻ることになっている。
それを何年も繰り返しているため、この黄昏時の儀式は少し物寂しい気持ちになる。
和哉は天に向かって伸びる煙を見上げ、姉は須藤家の墓のある方角をじっと見つめている。
「目には見えないけど、ついついお墓の方を見ちゃうのよね。ご先祖様の魂は、あそこに帰るのかなって。明日、お墓参りに行った時に、久々の実家は楽しかったですか? って聞かないとだ」
姉がそう言ってから、俺と和哉の肩を叩いて「戻ろっか?」と帰宅を促す。
祖父達は、火の後始末をしてから戻るとのことで、俺はその間に風呂に入って汗を流すことにした。
夜は、姉と共に荷物の整理だ。
父は祖父と叔父と共に酒を飲み、母と祖母と叔母は台所で片付けをしながら楽しそうに話をしている。
洗ってもらった洗濯物や、祖父母や叔父叔母からいただいたお土産を整理し、自分のバッグにしまっていく。
姉弟二人で黙々と荷詰めをしていたのだが、ふと和哉とバスケットコートで話をした内容を姉に伝えておこうと思い、口を開いた。
和哉との会話をかいつまんで伝えた後、疑問に思っていた言葉が口からこぼれる。
「『超えられない何か』って、何だろう?」
まだ、そういった壁にぶち当たったことのない俺には、はっきりとした事は分からない。
行き詰まるほどの練習をしてこなかった自分を恥ずかしく思いつつも、もしかしたら、『あの感覚』のことを言っているのかもしれない、と思い当たる節があったので、思い切って姉に質問してみたのだ。
「『超えられない何か』――か。わたしね、大抵のことは努力で何とかなるって思っているけど、そういう『見えない壁』みたいなものは、確かにあるのかもしれないわね――努力って、出来る分野と出来ない分野が、人によって、それぞれ違うのかなって最近思うんだ。和くんは……バスケットにかける情熱と同じだけの熱量を、ヴァイオリンに掛けたのかもしれないけど、実らなかったのかもしれないわね」
それは今朝、俺も和哉からバスケットボールを教えてもらった時に感じたことだった。
――俺には、バスケットは向いていない。
何となく働いた、直感のようなものだ。
もしかしたら血の滲むような努力をすれば乗り越えることができるのかもしれないけれど、それはきっと、ヴァイオリンに注ぐ努力よりも、何倍も何十倍も、もしかしたら何百倍もの努力が必要になるのかもしれないな、と思った。
和哉が言っていた『超えられない何か』というのは、俺が感じたその感覚のことなのかもしれないと姉に伝えると、姉は「何となく、分かるかも」と頷いていた。
「『向き、不向き』っていうのかな? わたしは今まで自分を騙し騙し、なんとか力業で乗り越えてきたけど――何故か簡単にできちゃうこともあれば、かなり努力しないとできない物もあるじゃない? その中で和くんは、自分が楽しみながら上達もできる『向いている』ことを見つけられたのかもしれないわね――ちょっと……羨ましいかも」
姉が珍しく自分の気持ちを話すので、俺は黙って耳を傾ける。
「自分が努力してきたことを、他の誰かがあっという間に追い越して行くこともあるし、その反対だってある。そうなった時に、腐って諦めるのか、それでも前進するのか、また別の道を選ぶのか、そういう選択によって人生って変わって行くんだろうなって、最近思うようになったんだ」
姉は、今まで自分が選んできた道の分岐点でも思い出しているのだろうか、遠い目をしているような気がした。
そう言えば、真由姉は今、進路という大きな岐路の上に立っているのだった。
「真由姉――えーと……その……」
姉の受験勉強最後の追い込みの夏――その貴重な時間を俺のために使ってくれている事実に思い至り、感謝の気持ちを伝えたくなった。
けれど、面と向かって言うのが照れ臭くて、口ごもる。
姉は何故かちょっと悪戯っぽい笑顔で、俺の顔をニマニマと見つめている。
多分、俺が言おうとしていること察しているのだろう。
照れ隠しに、眉間に皺が寄ってしまったが、俺は意を決して言葉を伝える。
「真由姉、俺の為に、貴重な時間を使ってくれて、その……ありがとう」
姉は「はい、大変よくできました!」と言ってから、俺の頭を撫でて立ち上がり、風呂に向かうための着替えを手に持った。
「あ! 真由姉! あともうひとつ!」
俺は姉を呼び止め、確かめたかったことをもう一つ質問した。
和哉と共に奏でた『協奏曲』で感じた気持ちだ。
多分、和哉は俺と姉のために『優しい嘘』をついてくれたんだと思うと伝えると、姉は「そっか、よく分かったね」と言って笑った。
姉は和哉の心の内も、気遣いも、全てお見通しだったのかもしれない。
「今夜は、お父さんもお母さんも、お盆最後の晩酌で、寝るのは遅くなるだろうし。後で和くんを誘って、音楽の動画を一緒に見てみようか? 和くん、音楽を聴くのは本当に好きみたいだから、最後はみんなで――ね。わたしがお風呂に入っている間に声をかけておいて」
「わかった」
俺は元気に返事をして姉を見送り、自室にて夏休みの宿題をしていた和兄に声をかけた。
和哉は一も二もなく賛成し、後で俺たちの滞在している部屋にやってくることを約束してくれた。
…
俺は鞄の中から、タブレットを取り出す。
電源を入れ、お気に入りに登録してある動画の中から、前もってオススメ映像を選んでおこうと準備を開始した。
この時の俺は、まだ――知らない。
鷹司晴夏が奏でる『協奏曲』の動画を見つけ、衝撃を受けることになる未来を。
まったく、知る由も――なかったのだ。