07 超えられない『何か』
昨夜は早くに就寝したこともあって、早朝に目覚めた俺は、素早く身支度を整えると祖父母宅の前庭に出た。
東京とは違う、清々しい空気を肺に吸い込み、空に向かって伸びをする。
広い庭には多種多様な植物が植えられ、祖母が育てる色とりどりの花が目を楽しませてくれた。
訪れる季節によって、咲いている花は違うので全ての名前は分からないけれど、目の前には大きな向日葵が数本シュッと天に向かって咲き、軒下に垂らされたネットには朝顔の蔓が絡み、緑のカーテンを作っている。
祖母が世話をしている花園の先には、祖父が趣味で耕した畑が広がる。
収穫作業を手伝い、もぎたての胡瓜やプチトマトをその場で齧った時は、その甘さに驚いた記憶が新しい。
トウモロコシもそろそろ食べ頃だと言っていたから、もしかしたら今日あたり食卓に上るのかもしれない。
畑の先には旧道となった国道が通り、その向こうには川が流れ、その川を見下ろすように山が連なっている。
その山の高台に聳える、大きな櫓のような建物が目に入った。
時々、祖父の車でその櫓のある公園に連れて行ってもらい、人のいない時間、青空の下で姉と和兄と一緒にヴァイオリンを弾いて遊んだことを思い出す。
とても楽しくて、キラキラと輝く、宝物のような時間だったのに――
昨夜、真由姉から聞いた和兄の本心を思い出し、気持ちが沈む。
「あれ? 新太、おはよう。一人で何してるんだ?」
物思いに耽っていたところを唐突に名を呼ばれ、驚いて振り返る。
そこには、バスケットボールを大事そうに抱える和兄が立っていた。
こんな朝早くに、何処へ行くのだろうか?
疑問を抱いた俺の表情を読んだのか、和哉が俺を誘う。
「近くの公園に今から行くんだ。早朝だとバスケットコートが空いているから、シュートの練習をたくさんできるんだぜ。お前も来いよ。朝食前に戻れば大丈夫だから」
俺は頷き、和哉と共に祖父母宅の裏手に向かって歩き出す。
バスケットコートのある公園は、五分ほど歩いた場所にあった。
以前来た時は遊具だけが目に入り、コートは無かったように記憶していたけれど定かではない。
和哉はボールをドリブルすると、そのまま持ち上げてシュートを決める。
流れるような動きとジャンプ力の高さに、俺は目を見開いた。
「すごい!」
感嘆の声が、思わず口から洩れた。
和哉は「へへっ」と嬉しそうに笑う。
「昨日さ、真由姉に話したんだけど――ヴァイオリンのこと……聞いてるか?」
和哉はこちらを見ず、ボールを大きくバウンドさせながら問う。
「聞いた。ヴァイオリンを辞めたいんだって――」
俺の言葉を受けて、和哉はその場からシュートの体勢に入る。
頭頂から放ったそのボールは、ゴールポストの中に綺麗に吸い込まれ、地面に落ちると大きく跳ねた。
「お前も真由姉も……ヴァイオリン弾くの、大好きだもんな」
和哉のその言葉に、俺は恐る恐る質問をする。
「和兄は、ヴァイオリンが嫌いに……なったのか?」
和哉は少しだけ躊躇いを見せ、暫く何事かを考えてから、静かに首を左右に振った。
「オレ――ヴァイオリンのことを……嫌いになった訳じゃ、ないんだ」
ポツリポツリと和兄が語る言葉に耳を傾け、相槌を打ちながらその先を促す。
「本当は辞めたいのかどうかもわからない。でも、ヴァイオリンをしているからバスケができないって言われて、どちらか一つしか選べないなら、やっぱりバスケを選びたいって思ったんだ。楽器よりも、もっと熱中できるものを、見つけただけだ」
俺は和哉の言葉に安堵する。
自分が好きな事柄を、否定されたら――と不安に身構えていた心が、少しだけ軽くなった。
「真由姉が練習している音が綺麗だなと思って習い始めたけど、聴くのと弾くのでは意味が違ってさ――オレはやっぱり、聴く方が好きみたいだ」
だからお前と一緒に動画を見るのはスッゲー楽しかった、と満面の笑みを見せる。
そうして、少し考えるような素振りを見せた和哉は、俺に向かって静かに語ってくれた。
「あとな――どんなに努力しても『超えられない何か』があって、結局行き詰まったっていうのも大きいんだ。オレの後から習い始めたお前は、もうドッペルのファーストを弾いているけど、俺はやっとセカンドが終わったとこだ。いつの間にか抜かされていたのは、正直言うとショックだった。多分――向いていなかったんだと思う」
俺はなんと言っていいのか分からなかった。
地面の一点を見つめながら語っていた和哉は、パッと顔を上げるとゴールポストを真っ直ぐ見据える。
「でも、バスケは違った。『超えられない何か』は無くて、努力すれば努力するほど上達していくんだ。だから、本当に楽しくて、やっぱりバスケを選びたいって思ったんだ――昨夜、真由姉に相談してから、改めてそう確信した。だから、今度、父さんと母さんに、正直な気持ちを話してみようと思うんだ」
和哉はボールを拾い上げると、俺に向かって手渡した。
「お前もシュートの練習、してみるか?」
そう言って、そのボールを貸してくれた。
和哉から渡されたボールは、ずっしりと重く、そして大きかった。
よく見ると、傷や細かな汚れが付いている。
毎朝の練習で付着した、彼の練習履歴なのかもしれない。
見様見真似で、和哉のようにドリブルをしてみたけれど、案の定うまくいかない。
シュートも勿論、ゴールポストにかすりもしなかった。
少し離れた位置から止まってシュートをする方法を教えてもらい、何度も練習をして、やっと一度だけゴールすることができた。
バスケットボールもヴァイオリンも、一朝一夕で手にはいる技術ではない。
和哉はきっと、バスケットボールを心から楽しんで、水を得た魚のように上達している途中なのだろう。
そして、ひとつ分かったことがある。
どうやら俺はバスケットボールに――向いていないようだ。
…
家に戻って朝食を摂り、その後、和哉と一緒に『協奏曲』を弾いた。
和哉は『嫌いになったわけではない』と言っていたけれど、本当はヴァイオリンを弾くことが――好きではなくなっていたのかもしれない。
『自分と違う考えを持つ人間の気持ちも、考えてあげられるようになるといいわね』
昨夜の姉の言葉が、耳の奥で蘇った。
ああ、和兄は――ヴァイオリンを好きな俺と姉のために、気遣って『嫌いになったわけではない』と、そう言ってくれたのだろうか?
好きなものを否定されることは、とても辛い――もしかしたら和哉は、そのことを既に理解しているから、慮った言葉を選んで、話してくれたのかもしれない。
どんなに努力をしても上達に繫がらず、『超えられない何か』と戦うのは、きっと苦しいことなのだろう。
望んでも望んでも、手に入らないと気づいた時、人はどんな気持ちになるのだろうか。
幸か不幸か――俺にはまだ、その気持ちがわからない。
俺に対して、その思いを吐露してくれた和哉は、きっと自分の弱ささえも認められる、強い人間なのだと思う。
和哉がその心の内を語った時の苦しそうな瞳が、アイツの眼差しと重なった。
もしかしたら、アイツは――鷹司は、何かを求めて足掻いている最中なのかもしれない。
鷹司が苦しんでいるものの正体が、『超えられない何か』だとしたら、それは一体何なのだろう。
もしアイツが俺の放った言葉で、和哉のようにヴァイオリンから離れてしまったら?
そんな考えが頭の中を過り、不安な気持ちに苛まれる。
けれど、俺は首を振って、その考えと苦しさを追い払った。
俺がやるべきことは、胸を痛めることでも、不安に苛まれることでもない。
今、俺ができることは、たったひとつ。
限界を超えるほどの努力をして、アイツに――鷹司晴夏に、認めてもらうことなんだ。
例えこの先、『超えられない何か』に出逢う未来が待っていたとしても、俺は負けずに立ち向かっていきたい。