06 『普通』
夜、風呂から上がり、我が家が宿泊している部屋に向かうと、真由姉が一人で問題集とにらめっこをしていた。
俺が入ってきたことにも気づかず、集中しているようだったので、声をかけずに敷かれた布団に静かに横たわる。
父さんと母さんは、叔父さんや叔母さんや祖父母と共に、まだお酒を飲みながら居間で寛いでいるようだ。
自宅で過ごす気楽な毎日とは違い、多少ではあるが気疲れがたまっていた俺は、少し早目に就寝することにしたのだ。
体調を崩したら元も子もない。
先週、鷹司との合同レッスンを寝不足による夏風邪で、キャンセルした前科がある俺だ。
疲れをためてはいけないことは、嫌というほど理解していた。
「新太、ちょっといい?」
突然呼ばれた姉の声に、俺はビクッとして起き上がった。
「明日、和くんと一緒に演奏するって言ってたけど――もしものことなんだけど――和くんが万が一、『やっぱり弾きたくない』って言ったら、そこは受け入れてあげて」
姉の言葉に、俺は首を傾げた。
「和くん、アンタには話してもいいって言ってたから伝えるんだけど――本当はね、ヴァイオリンを……辞めたがってるの」
俺は驚きのため、声が出せなかった。
「バスケットボールをしたいらしいんだけど、許可してもらえないんだって」
それは――指を怪我したらヴァイオリンを弾けなくなるから、当たり前だろう?
そう思って、俺は首を傾げた。
俺の抱いた疑問を察した姉が、身を乗り出してくる。
「あのね。アンタはヴァイオリンを弾くのが好きで、その為なら他の事を我慢するのは苦痛じゃないだろうけど――そうじゃない人も世の中にはいるの」
何となくだが、姉の言わんとしていることは分かった。
でも、その問題の根幹部分は、この時――理解できていなかったのだと思う。
「わたしもね、昔――ドッヂボール大会に出たかったんだけど、泣く泣く諦めたことがあるから、和くんの気持ちがなんとなく分かるっていうだけなんだけど――本当にやりたいことを諦めなくちゃいけないのって、結構大変なことなんだと思うの。それでも、わたしはヴァイオリンを弾くのが好きだったから、仕方ないなってその当時は納得できたけど……和くんは……」
姉の言葉から、和兄はヴァイオリンをそこまで好きではない、ということが伝わる。
「和くんは叔父さんを気遣って、なかなか辞めたいって言えないのよ。ほら、叔父さん、音楽が大好きだから」
どうして姉が、そんなことを知っているのだろう?
その疑問が、顔に出ていたようで、姉が言葉を付け足した。
「さっき、和くんの様子がおかしかったでしょ? 余計なことかなとも思ったんだけど、アンタがお風呂に入っている時に、ちょっと声をかけたの。そうしたら、話してくれたのよ。相談されたというか……」
ヴァイオリンを弾くのが好きではないのに、習っている人間がいるなんて、正直言って――思いもよらなかった。
「でもさ、習い事って、普通――やりたい事をするものだろう?」
姉が、うーんと唸る。
「アンタの言う『普通』が、どんな『普通』のことを言っているのか分からないけど。我が家の基準でいう『普通』と、他の家の『普通』って、全く違うものだと思うわよ?」
「『普通』が、違う?」
意味が、分からなかった。
俺は首を傾げたまま、姉を見つめる。
そんな俺の様子には気づくことなく、姉は遠い目をして喋り続ける。
「その家によって色々なことが違うもの。家族関係然り、経済然り――うちの基準が『普通』だと思ってるなら、そろそろ認識を改めた方がいいわよ。どちらかと言えば、うちは『特殊』――恵まれている方みたいだから」
姉は何を思い出しているのか、唇を尖らせて憤っているようにも見えた。
「真由姉? 何を怒っているんだ?」
姉はハッとしたように表情を見せると、ごめんごめん、と苦笑する。
「昔あった、ちょっと嫌なことを思い出しちゃったのよ。でも、その嫌なことがあったから、今のわたしがいるの。それも必要な経験だったし、今では感謝してるから――アンタは気にしなくていいのよ」
話が脱線しちゃったわね、と姉は笑う。
「話を戻すとね、みんなが皆、自分と同じ気持ちで生きている訳じゃないってことよ――自分と違う考えを持つ人の気持ちも、考えてあげられるようになるといいわね」
姉の言葉が引っ掛かり、俺は咄嗟に質問する。
「なんでそんなこと、言うんだよ?」
姉は人差し指で俺の額にをツンと押した。
「和くん、弾きたくないって遠回しに伝えていたでしょう? でも、叔父さんも楽しみにしているし、アンタも一緒に弾きたいって言うから、最後は……折れてくれたのよ? 気づかなかった?」
まったく、気づかなかった――いや、でも、叔父さんの言葉に気乗りしない様子を見せていた気はする。
『オレは弾くよりも聴くほうが好きだし、そんなに上手には弾けないから……』
あれは――謙遜ではなくて、和兄の本心だったということなのか?
演奏するのが好きな俺にとっては理解のできない、未知の考え方だった。
ヴァイオリンが好きじゃない?
演奏するのが好きじゃない?
その途端、鷹司のあの苦痛に歪んだ表情が思い出された。
(アイツも、苦しんでいる? ヴァイオリンが……好きじゃない? いや、でも――)
それは違う――アイツに限って、それは有り得ない。
あんなに完璧な音程で、一音一音を大切に弾いている人間が、ヴァイオリンを嫌いだとは思えない。
でも、自分以外の――他人の本当の気持ちが分からず、不安にもなった。自分の思う『普通』と、他者が思う『普通』に隔たりがあるかもしれないことを、今、初めて認識できたばかりなのだ。
姉に言われるまで、全く気が付かなかった。
そう――まさか、弾くことが嫌いな人間が、ヴァイオリンを習っているなんて、数分前の自分は露ほども思っていなかったのだから。
――和兄と弾けば、何か分かるのだろうか?
演奏に情熱を燃やすことのできない和兄は、どんな音を奏でるのだろう。
それを知るのは、少しだけ――怖かった。
鷹司晴夏のイラストを、シキバヤシコ様が贈ってくださいました。ありがとうございます(*´ェ`*)♡