05 タブレット
姉とヴァイオリンの特訓を続けて数日経過したある日、俺は自室で宿泊荷物の準備をしていた。
カレンダー通りに仕事をしていた父も明日からお盆休みに入るため、田舎の祖父母宅に帰省することになっているのだ。
姉が、たたんだ洗濯物を届けてくれたのでお礼を伝えていたところ、廊下から父の声が届いた。
「新太、いるか〜? 入るぞ」
「いるよ。どうぞ」
俺の返答を待って、父が部屋の中に入ってきた。
「ああ、真由もここにいたのか。丁度よかった。最近、新太が楽器の練習を特に頑張っているってお母さんから聞いてな。車の移動中は楽器の練習はできないだろう? 古いタブレットを渡すから、これで音楽を流して聴くのも練習になるんじゃないかと思ったんだよ。この休み中だけは、使って良いってことで、さっきお母さんとも話がついたところだ」
使用感のあるタブレットを手渡され、それを見つめる。
「真由が学校で使っている物より型は古いが、充分使える筈だから。新太に簡単に使い方を教えてやってくれ」
父から受け取ったタブレットを姉に手渡す。
「新太に教えればいいのね? 分かった。使うときのルールは約束しなくていいの? わたしが初めてタブレットを持った時は『お父さんとお母さんがログ確認をしても恥ずかしくないサイトだけ閲覧可』と『使用時間は夜の十時迄』だったよね? それでも、だいぶ緩かったけど」
姉の言葉に、父が笑う。
「あまり眼視搦めにしてもな。知らないことは知りたいと思うのが人間だ。新太も真由と同じルールで使ってくれればそれでいい。ただし、夏休みが明けたら、一度回収するぞ。そこは譲れない。約束できるか?」
俺は、一も二もなく頷いた。
「父さん、ありがとう。約束する」
俺は父に感謝の言葉を伝え、姉の手の中にあるタブレットを見つめた。
姉と相談して、まずは二重奏の動画を探し『お気に入り』に登録する。
弾き方を指導する動画や、発表会の動画、有名なバイオリニストの演奏動画が次々と画面上に現れた。
その演奏を見るたび聴くたび、俺の演奏に対するイメージが風船のように膨らんでいく。
こんなにたくさんの人が、色々な弾き方で楽しんでいるのかと感動すら覚えた。
完璧な音色。
少し外れた音色。
真剣な表情。
楽しげな表情。
笑顔弾ける演奏。
エネルギーに溢れた演奏。
厳かに奏でられる敬虔な演奏。
そのどれもが素晴らしいコンサートのようで、俺は夢中になって動画にのめり込んだ。
祖父母宅でも叔父さんにWi-Fiを繋いでもらい、時間があいたときは必ず動画を見るようにした。
今まで出会うことのなかった様々な音楽家の演奏する映像が、俺の中に降り積もっていく。未知の音色に触れる、とても心地の良い時間だった。
たくさんの音楽家の演奏を聴き、心の中にその音色を蓄積させていくと同時に、持参した楽器の練習も怠らなかった。
姉も約束通り、付きっきりで練習をみてくれた。
二つ年上の従兄・和哉もヴァイオリンを習っていたので、一緒に練習をしないかと誘ってみた。
けれど、彼は首を横に振る。
どうしてだろう――そう思ったけれど、和兄は話題をそらすように「そんなことより」と言って、俺の持つタブレットに興味を示した。
「休みの間だけ父さんが貸してくれたんだ。今は、色々な演奏家が弾いている『協奏曲』を聴き比べているところなんだ」
そう伝えてタブレットを起動し、動画のひとつの画像に触れて、演奏を流す。
「へぇ……すごいな。上手な人は、やっぱりたくさんいるんだな」
和兄は、画面を興味深そうに覗き込んだ。
「お? なんだ? お前たち、懐かしい曲だな」
父さんと叔父さんが、その音に誘われてやってきた。
二人は兄弟で、昔ヴァイオリンを習っていたと聞いている。
「和哉はこの前、第二ヴァイオリンの練習が終わったんだろう? 新太と一緒に弾いて遊んだらどうだ?」
叔父さんが、和兄に提案する。
俺は一緒に弾いてみたくて身を乗り出したが、和兄は何故かあまり乗り気ではないようだ。
「オレは弾くよりも聴くほうが好きだし、そんなに上手には弾けないから……」
俺よりもヴァイオリン歴の長い和兄だ。
謙遜しているのかな、と思った俺は、一度だけ合わせてみようと誘う。
「う〜ん……、一度だけだぞ。オレ、本当はさ……――」
そう言って、チラリと叔父さんを盗み見た和兄は、隠れるように少し俯くと、小さな溜め息を落とした。
「……ごめん、やっぱ、なんでもない! 一回だけだぞ。言っておくけど、オレ、本当に上手じゃないからな。新太、絶対、笑うなよ」
和兄はそう言って、渋々了承してくれた。