04 先生と、母と姉と、練習と
加山先生が帰路につくのを玄関先から見送る。
「先生に見ていただいてから、真由の成績も上がり調子で……本当になんとお礼を申し上げたらよいか――」
母の言葉に、加山先生は首を振る。
「いえ、僕はコツを教えているだけで、真由さんの努力があってこそなので――」
控え目に受け答えをする姿も、やはり好感が持てるな、と加山先生の姿を見つめる。
「先生、今日もありがとうございました。奥日光は明日からでしたよね? どうぞ、お気をつけて行っていらしてくださいね」
母が先生に伝えたので、反射的に俺は口を開いてしまう。
「旅行に行かれるんですか?」
事情を知る母に、あとから聞けばよかった――と気づいた時には、既に質問が口から飛び出していた。
「旅行と言えば……旅行と言えなくもないかな? ホテル主催のコンサートがあってね。毎年演奏会に参加しているんだ」
先生は笑いながら答えてくれた。
俺が「お気をつけて」と言おうとした瞬間、今度は姉が先生に声をかける。
「先生、火曜日の約束――忘れないでくださいよ? 戻ってきたら参考書探しを手伝ってくださいね」
真由姉がウキウキした声で、加山先生に確認をとっている。
「ちゃんと手帳にも予定を書いたからね。心配しなくても大丈夫。忘れないよ」
姉との会話を終えた加山先生は、再び俺の目を見つめた。
「新太くんもドッペルの――バッハの『協奏曲』の練習を頑張って」
「はい。ありがとうございます」
お礼を伝えると同時に、俺は鷹司のことを思い出す。
もしかしたら、表情が少し翳ってしまったかもしれないと、慌てて俯く。
それに気づいた加山先生が、まるで鼓舞するかのように俺の肩をトントンと叩いてくれた。
先生から激励されていることを感じて、俺はゆっくり顔を上げる。
視線の先には、真摯な光を宿す加山先生の双眸があった。
「新太くん、発表する時はね、上手に弾こうと力まずに、何も考えず――ただ無心で弾くんだ。弛まぬ練習を繰り返していれば、何があっても指は動く。不思議なことにね、気負わなければ、音も心も全てが揃った――至高の音色が生まれるんだよ」
先生の瞳を真っ直ぐ見つめ返す。
その言葉を噛み締めるように、俺は黙って頷いた。
加山先生が立ち去った後、母がウットリとした表情で息を洩らす。
「ホント、爽やか好青年ね〜。真由の成績もうなぎ上りだし、良い先生を紹介してもらったわ〜。ああ、お母さんがあと二十年若かったら!」
姉が残念なモノを見る目で、母を見つめた。
「夢見るのも大概にしてよね。お母さん」
姉のその態度に、母が楽しそうに笑う。
「冗談に決まってるでしょ。お母さんのヒーローはお父さんだもの。それにしても、真由は先生のこと、本当に大好きよね」
母の言葉が図星だったのか、姉は息を呑んで、少したじろいでいる。
「す……好きだけど! 多分、先生、好きな人がいると思うんだよね。だから、わたしは大学生になってから、先生のような彼氏をゲットするの。今のうちに沢山観察して、今後の彼氏探しの参考にするんだ」
姉は拳を握り締め、よし! とガッツポーズを作る。
「アンタ、ホントいい根性してるわね。さすが私の娘!」
母は拍手をして、姉の勇姿を讃える。
「お褒めの言葉をありがとう。それよりも! お宅の息子さんの精神をもっと鍛え上げて差し上げた方がよろしくってよ? お母さま?」
姉がそう言って俺を見ると、その動きに合わせて母は「ああ〜、そうだった。我が家の王子さまの問題があるんだった」と呻き声をあげながら俺を視界に入れる。
「な……なんだよ? 二人して」
少しムッとした表情を見せると、姉が俺の鼻先を摘んで軽く引っ張った。
「まったく、一丁前になっちゃって。ほら! 真由お姉さまが、ヴァイオリンの練習を見てあげるから、おいで! あ、お母さん、お盆中は、ちょっと集中して新太のコンチェルトの特訓するけど、受験勉強はしっかりするから安心してね」
姉の言葉に、母がキョトンとした顔になる。
「別に心配してないわよ? アンタは昔からやるって言ったらやり遂げる娘だったからね。でも、無理なく、よ? パンクしないように、息抜きもたまにはしなさいよ」
姉が母を見て、溜め息をつく。
「その物分かりの良さ。もっとこうさ〜、受験生の母親らしくピリピリしてても良いんじゃない?」
母は、うふふと笑って、両手を腰に当てる。
「まあ、お母さんがピリピリして、アンタが志望校に合格するなら、いくらでもするけど、そういう訳じゃないからねぇ。いい? 真由も将来の為に覚えときなさい。母親っていうのはね、どんっと構えて、鷹揚にしているのが一番なのよ」
「はぁ、ほんと、ドンッと構えすぎ〜!」
姉は茶化すように伝えると、二人で楽しそうにコロコロと笑う。
「は! そんなことよりも! 真由――新太のこと、よろしく頼むわよ。お母さん音楽のことはよく分からないから。同じ楽器を習っているアンタが頼りなのよ」
姉と母がタッグを組んで、勝手に話を決めて盛り上がりはじめる。
玩具にされた気分になる――が、この休み中、あの曲を完璧に仕上げるには、姉の手を借りるのが一番なのは間違いない。
「さて、我が家の王子さま! 早速、練習しよっか?」
「なんだよ、二人して、俺のことを王子さまって……」
辟易しながらも姉に従い、居間のピアノの横に設置された棚からヴァイオリンケースを取り出す。
演奏の準備を開始するため、チンレストをヴァイオリンに装着して、弓を手にとる。
ホースヘアーを適度に張ってから松脂を塗ると、姉がピアノの蓋を開けてAの音を鳴らす。姉はものの数秒で調弦を完了させると、俺の準備を待ってくれているようだ。
俺はまだチューナーを使わないと、正しい音に合わせることができない。
四本ある弦それぞれを、ひとつひとつ丁寧に整えていく。
「今日は徹底的にスケールの練習をしていこう?」
演奏をするのかと思ったら、姉に課されたのは、ひたすら音階のみを正しく弾く練習。
「指を押さえる位置はポジションによって決まっているでしょう? 音階が完璧になると、演奏中も正しい音程で弾きやすくなるから――ね! 何事も基礎が大切。はいっ 復唱〜!」
うんざりしながらも、姉の言葉を繰り返す。
「……何事も基礎が大切……」
時々休憩を挟みながら、俺はスケールをひたすら弾き続ける。
姉はずっと俺の音に耳を傾けて、音がズレると「そこチガウ」とすぐに指摘して、正しい音を弾いて聴かせてくれるので、俺はその音に共鳴させるようヴァイオリンを鳴らした。
今まで、一音一音を確かめつつ弾く音階は、退屈な練習だった。
正直にいうと、もっとも嫌いな練習だったのだ。
でも、正しい音を出せるようになると、楽器が勝手に歌うようになることに気づいた。
深く濃厚な音色がサウンドホールから生まれ、楽器が喜んでいるかのように煌めく音色を奏で始める。
まるでヴァイオリンと会話をしているような気持ちになり、俺はスケールの練習が楽しくなっていることに気づいた。
姉は、俺の様子をニコニコと太陽のように見守っている。
ああ、これならば――
完璧な音程で、鷹司の前でも演奏できるかもしれない。
次の合同レッスンでアイツに会った時、俺は胸を張って「努力している」と伝えるんだ。
そして――許されるならば、押しつけではない、本当の謝罪をしたい。
今やっと、心から――そう、思えた。
■お詫び■
自宅の停電騒ぎがあり、慌てて五話目の草稿部分が投稿されておりました。七分ほど上がっていたので、目にした方もいらしたら申し訳ございません。
ゆるっと書いてあるものだったので草稿と更新原稿は詳細が変わっております。
混乱させてしまい申し訳ありません。
停電が解消次第更新します。
この猛暑に、5000軒ほどが停電中(´;ω;`)
早く復旧してほしいです。