03 謝罪の押し売り
重い気持ちで過ごす夏休みだ。
鷹司には謝ることができないまま、世間はお盆休みへと突入した。
…
お茶の時間だと呼ばれて居間に向かうと、ダイニングテーブルには姉の家庭教師の先生も一緒に座っていた。
今日は勉強の日だったのか――そう思って「こんにちは」と挨拶を交わす。
歳の離れた受験生の姉は、塾の夏期講習に家庭教師にと大学受験の勉強に追われる毎日を送っている。
最近、成績がメキメキと上がり、それは家庭教師の加山先生のおかげだと言っていたことを思い出す。
どうやら姉は、この加山先生に熱を上げているらしく、先生に良いところを見せたくて勉学に励み、それが成績上昇につながっているようだ。
加山良治先生は、物腰穏やかで礼儀正しく、男の俺から見てもかなりの美青年だ。その雰囲気から、母が密かに「爽やかクン」と呼んでいることを俺は知っている。
加山産婦人科という医院の息子さんで、現在はお姉さんが病院を継いでいる為、彼は音楽の道を選んだらしい。
医者を目指してほしかったご両親から、医学部合格を条件に音大への進学を許可され、音大も医大も現役合格した努力の人だと、母から話を聞いている。
頭脳明晰でヴァイオリンもピアノも上手で、この容姿。
『天は二物を与えず』なんて言葉を真っ向から否定するような才能溢れる男性――だが、それだけには留まらず、姉が好意を抱くのもナルホドと頷ける人格者なのだ。
「新太くん、こんにちは。元気がないみたいだけど、夏バテかな? 大丈夫かい?」
加山先生が心配そうに俺の顔を覗き込む。
俺がどう答えようかと悩み、言葉に詰まったところ、横に座る姉の真由が溜め息を落とした。
「最近、新太が辛気臭くて困っているんです。どうやらヴァイオリン教室の二重奏の相方クンと一悶着あったようで――」
「真由姉、なんで知ってるんだよ?」
皆まで言わせず、俺は姉を睨みつけた。
「アンタ、この前のレッスン、熱出して休んだでしょう? お相手のお祖母さまからお見舞いの連絡を頂いて、うちのお母さんと電話で話し込んでいたから、なんとなく話の内容は分かったのよ。アンタが暗くなってる原因は分かったけど、そんなに萎れているんじゃ、わたしだって心配にもなるわよ」
真由姉が人差し指で、俺の頭をツンと押した。
「――俺は、アイツに酷いことを言ったんだ。だから、先週、本当は謝りたくて、でも、レッスンを休んだから謝れなくて……早く……早く、謝りたかったのに……だから――」
まとまりのない言葉がポロポロと口から零れていく。
鷹司が見せた、あの表情が忘れられない。
泣いてしまうのではないかと思った、弱々しい眼差しが。
レッスンの時、あんなに貫禄を感じたアイツとは真逆の――
そのことを思い出して更に気分が沈みかけたところ、加山先生の声が俺を現実に呼び戻した。
「新太くんは早く謝りたかったんだね? でも、今の言い方だと、謝罪することだけを急いでいるように聞こえるけど、それはどうしてなのかな?」
何故、そんな質問をされるのか理解できずに、加山先生を見つめた。
どうして?
それは――
「謝って、早くすっきりしたいから」
思わずこぼれた俺の本音に、姉が「ふぅ〜ん」と呟いてから、アイスティーを一口飲み干した。
グラスをテーブルに置いた彼女は、俺に向き直ると姿勢を正してニッコリと笑う。
その笑顔の意味が分からずに、首を傾げた俺の脳天に、突然手刀が落ちてきた。
「痛ってーな! イキナリ何するんだよ。この、暴力JK!」
姉は右手をダランと垂らしながら何度も振って「この石頭め」とブツクサ言っている。
「新太、それは間違ってる。先週、その相方クンと会えなくて、アンタ……本当に良かったわよ。そんな気持ちで謝ったんじゃ、余計に拗れるだけだもの」
謝っているのに……拗れる?
普通、謝ったら――許してもらえるものだろう?
謝罪を受け入れてもらえると疑っていなかった俺には、姉の言っている言葉の意味がまったく分からなかった。
「傷つけられた側からしたら、謝ったからって、はいそうですか、って直ぐにすべてを無かったことにして……許せるわけないじゃない」
思いもよらない姉の科白に、心臓がドキリと跳ね上がる。
そんな俺の態度を知ってか知らずか、真由姉は少しの憤慨を滲ませながら言を継ぐ。
「許すも許さないも、決めるのは新太じゃないでしょう? 相手の少年よ。自分が楽になりたいからって『謝罪の押し売り』をしたら駄目。そんな気持ちで許してもらおうなんて――傲慢でしかないわ」
「傲慢……」
「そ! 相手を見下してるってこと! 加害者は謝れば、それで終わりだと思うかもしれない。だけど、被害者はね、謝られたからって、その場ですぐに許せるわけないじゃない。しかも、そんな上っ面だけの謝罪なんて、願い下げよ」
姉の語る言葉を少しでも理解しようと、沈黙して耳を傾ける。
「『謝ったから許せ』なんて、加害者側の横暴でしかないわ。謝られたら、どんなに苦しくても、どんなに悔しくても、許さなくちゃいけないと思っちゃうもの。それって、被害者を追い詰めるだけよ。もっと誠意のある謝罪の仕方を考えるべきだと思う。そう思わない?」
許してほしいと思うのは、謝罪を押し付けることにも繋がる?
でも、それなら――
「じゃあ、俺はどうやって謝ったらいいんだよ!? 俺だって酷いこと言われたんだぜ。『何故、正しい音で弾く努力をしないんだ?』って。俺だって……俺だって、アイツみたいに、正しい音で弾きたいのに!」
姉の目を真っ直ぐ見つめて、自分の胸の内を吐き出す。
「その相方クンは、どうだったの? もし、その子が正しい音程で演奏しているのなら、二重奏の相手にだって同じレベルを求めたくなるのは自然なことよ。だって、より良い演奏をしたいでしょう?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
より良い演奏――そうだ。
俺は、より研ぎ澄まされた演奏をしたかった筈だ。
だから、本当は、アイツと一緒に演奏できると分かった時、母さんに言われるまでもなく……とても――とても、嬉しかった。
「新太はね、その年齢だったら充分なレベルで弾いていると思うわ。でも、まだ正確な音程で弾けていないのも確か。悔しいと思えるだけの、見合った努力をしていたって、胸を張って言える?」
努力――しているつもりだった。
でも、あの時、鷹司に対して自分ができうる限りの「努力」をしていたと、声を大にして断言……できなかったのだ。
「『つもり』なら、誰にだってできるのよ」
そうだ。
あの時俺は、胸を張って、自分は間違いなく努力していると言い返せなかった。
それは、一音一音に集中し、絶対に間違えてなるものかという気迫のこもった練習を、してこなかったから。
全身全霊をかけた努力をしてこなかったことを、心が理解していたからだ。
「自分の気持ちに嘘はつけないもの。少しでも自分の心に甘えがあると、他の人には分からなくても……自分自身の心に罪悪感が生まれるのよ――違う?」
俺はその言葉に雷に打たれたような気持ちになった。
「じゃあさ、アンタが今、やるべき事は理解できた? 誠心誠意、その子に謝りたいなら、まずは――」
姉の言わんとしていることが分かり、俺は頷く。
「正しい音で弾く練習をして、その演奏をアイツに聴かせて……そこではじめて、謝罪する資格が手に入るってこと……だよな?」
項垂れた俺の頭を姉がグリグリと掻きまぜるように撫でた。
真由姉は、少なくとも俺より長く生きている。
きっと姉も、友人との間で、色々な経験をしてきているのだろう。
もしかしたら本当に、姉の言うとおりなのかもしれない。
俺は加山先生をチラリと見る。
とても優しい笑顔で、俺と姉のやり取りを黙って見守ってくれていた。
先生は、姉の向こうに誰かを重ねているのだろうか。
遠い昔を懐かしむような、眼差しをしているような気がしたのだ。
「加山先生?」
不思議に思って、俺がその名を呼ぶと、我に返った先生は苦笑する。
「いや……真由ちゃんの言動がね、僕の幼馴染の……昔の様子に似ていて、少し……懐かしくなったんだ」
寂しげな雰囲気が、どこか鷹司の様子と重なって見えたのは、何故だろう。