23 晴夏と新太
鷹司からの思いもよらぬ謝罪に動揺した俺は、両目から零れそうになる熱を必死でこらえ、ポツリポツリと本音を洩らす。
「俺は……最初、お前に馬鹿にされたと勘違いして、苦し紛れに……お前を傷つけるようなことを言ったんだ。だから、俺──」
本当は、もっと早く謝ろうと思っていた。
けれど、それは本当の謝罪ではないと姉から注意を受け、どうしたら誠意ある対応になるのか、自分なりに考えた。
「だから……鷹司に注意されたことを──俺が正しい音程で弾けるようになったら──そうしたら……はじめて謝れるって思って──」
鷹司に会えずにいた数週間。
自分の心に生まれ、考え続けた幾多の想いが交錯する。
鷹司の言葉に感じた、反発。
謝罪を押し付けようとした、逃げ。
姉からの数々の助言に対する、驚きと気づき。
相手の気持ちを慮ることの、大切さ。
鷹司にしっかりと謝罪したいのに、上手い言葉がみつからない。
焦りを覚えたその時、目の前から鷹司の息を呑む音が聞こえた。
「同じ──」
彼の小さな呟きに、俯いていた俺は顔を反射的に上げる。
鷹司は目を見開き、俺と視線が交わった途端、少しはにかんだ様子で──目を細めた。
「僕も同じ気持ちで……君に謝りたいと、思っていた。それには、君に指摘されたところを直さないと、またお互いを傷つけるだけだと思って……──そうか……須藤も、同じ気持ち……だったのか──」
鷹司はホッとしたような顔を見せると、徐々に口角を上げていく。
それは、今まで目にしたことのない、鷹司の柔らかな微笑み。
その変わりゆく様に、内心、俺は眼を見張る。
彼の表情が満面の笑顔へと変わるにつれ、その場に穏やかな空気が広がっていく。
──鷹司は、『氷の花』なんかじゃない。
その笑顔は、まるで『常春の楽園』──春の訪れに、『氷』で覆われた大地が緩み、緑が芽吹き、色とりどりの花が咲き乱れる。
彼自身を知ろうとしなければ、気づくことのできなかった──鷹司の本当の姿。
彼の心からの笑顔に、俺も自然と頬が緩む。
──そして、俺は、鷹司に対して、頭を下げた。
やっと言える。
「鷹司、本当にごめん。あの時は、酷いことを言って、申し訳なかった」
待ち望んだ瞬間が、今、訪れたのだ。
鷹司は、俺の謝罪を受け入れてくれた。
そのことが、とても嬉しかった。
「鷹司──ありがとう」
俺の言葉に、彼は少し躊躇いながら、口にする。
「晴夏──晴夏だ。僕の苗字は長いから、呼びづらいだろう。だから──晴夏でいい」
鷹司は、俺に右手を差し出している。
仲違いをしていた二人。
これでやっと、蟠りなく、演奏に集中できる。
ここから、本当の意味での、練習がはじまるんだ。
俺は差し伸べられたその手をとり、しっかりと握りしめる。
「晴夏──俺は、新太だ。俺のことも、新太でいい」
鷹司──いや、晴夏は、何故か少しだけ驚いた表情を一瞬だけ見せ、その後、嬉しそうに微笑んだ。
「分かった──新太。そうだ。言い忘れていたことがある──先生の前で弾いた君の曲想は、とても心地良くて、楽しかった」
晴夏の言葉に喜びを覚え、彼の掌を握りしめていた手に力がこもる。
「リサイタルまで、よろしくな。俺は、晴夏と一緒に、心を重ねた『協奏曲』を弾きたい」
俺が言い終わったところで、晴夏のバッグから振動音が届いた。
「話の途中で、すまない。母が迎えに到着したようだ。僕は先に失礼するよ。ああ、そうだ──今は新太もまだ夏休みなんだろう? 今度、自主練習をしよう。日程確認をして、近いうちに祖母から連絡を入れてもらう」
俺は首肯し、晴夏は榎本先生宅の玄関扉を開けようとドアノブに手を掛けた。
出ていくのかと思っていた晴夏は、何故か動きを止め、こちらを振り返る。
どうしたのだろう?
彼の様子をうかがっていた俺の両目を見つめ、晴夏は唐突に語った。
「僕が目指すのは、音の高み──この手でいつか『天上の音色』を奏でるのが、今の僕の目標だ」
何故、晴夏がそんなことを言ったのか理由が分からず、俺は首を傾げる。
そんな俺の様子を確認した彼は、玄関扉を開けた。
「君になら話しても、大丈夫だと、思ったんだ」
そんな言葉を残して、彼は帰路へついた。
──『天上の音色』?
先ほど、晴夏が俺への謝罪の時にも口にした言葉だ。
以前、聞いたことがあるけれど、どこで耳にしたのか?
いくら考えても、結局、何も思い出せなかった。
…
鷹司晴夏が玄関から出ていったのとほぼ同時に、姉が練習室から退出し、廊下に現れた。
「ちゃんと謝れたんだ? 良かったね」
俺の表情を見ただけで、姉は全てを察したのだろう。
彼女は太陽のような笑顔で、俺に笑いかけた。
俺は小さく頷き、彼女に向かって微笑む。
清々しい気持ちとは、こういうことを指すのかもしれない。
…
姉と榎本先生宅の玄関を潜って外へ出ると、晴夏の乗り込んだ車が今まさに発進するところだった。
車内には晴夏とドライバーしか見えなかったので、運転しているのが母親なのだろう。
その女性の横顔をどこかで見たことがあるような気がした。もしかしたら、晴夏に似ているため、そう感じたのかもしれない。
車が走り去るのを見送り、駅までの道のりを歩くため、敷地内から公道へ一歩踏み出す。
けれど、隣りを歩くはずの姉の姿が見えない。
不思議に思って、俺は後ろに視線を移した。
「真由姉?」
姉は微動だにせず、口元に手を当てている。
「嘘──やだ、ちょっと。新太、今の、見た?」
何を言っているのか分からずに、俺は眉間に皺を寄せた。
見た?
──何をだ?
俺が見たのは──
「アイツの母親のこと? 確かに若くて、スッゲー美人だったかも」
でも、そんなに驚くようなことか?
「母親!? え? だって、あれ──あの女の人……いや、見間違い?」
何を言わんとしているのか皆目見当もつかず、姉の次の言葉を待つ。
姉は目を擦りながら、俺に問いかけた。
「──柊紅子……ピアニストの柊紅子さん……だったよね?」
柊紅子──俺でも知っている、日本が誇る世界的なピアニスト。
先日、視聴した動画の中、加山先生参加のピアノトリオの譜めくりに登場し、観客を騒然とさせた──件の美女だ。





