02 言葉の刃
年に一度。
俺の通うヴァイオリンスタジオでは大規模なリサイタルが開かれる。
今年は個人発表に加えて、俺は鷹司晴夏と共にバッハの『ふたつのヴァイオリンのための協奏曲』を演奏することになった。
俺がファーストヴァイオリン、鷹司がセカンドヴァイオリンということで、事前に渡された楽譜を練習し、今日の合同レッスンに臨んだ。
…
鷹司は演奏を終え、先生にお辞儀をしてレッスンのお礼を伝えている。
動作のすべてが美しく、さすが大企業の御曹司という洗練された態度だ。
先生の前でも堂々とした様子を見せる鷹司――コイツには、きっと、怖いものなんてないのだろう――そう思わせる何かがあった。
それにしても――と先程の彼の演奏を思い出す。
正しい音程で奏でられた澄んだ調べ──けれど、カラカラに乾いた音色のように聴こえたことが、気にかかったのだ。
アイツの心の奥に、色褪せた灰色の景色が見えたような気がしたのは、何故なのだろう?
その理由を探すため、物思いに耽っていた俺は、先生からの呼びかけによって、唐突に現実へと呼び戻された。
「新太くん、聞いているかな?」
鷹司の音の謎に囚われていた俺は、慌てて姿勢を正し、首肯する。
「今日はお互いの演奏で感じたことを一度考えて、合奏は次回にしましょう」
先生からの言葉を受け、鷹司と横に並んで腰を折る。
「分かりました。来週改めて、よろしくお願いします。ありがとうございました」
…
「須藤……新太」
レッスンスタジオから親が待つ廊下に出た途端、鷹司から呼び止められた。
フルネームで呼ばれたことに驚いて振り返ると、凛とすましたアイツの顔が間近にあって、俺は慌てて一歩後ずさる。
女のようにも見えるその顔が、俺の心を落ち着かなくさせたのだ。
「鷹司か? 何か用事でも?」
慌てている心を隠すように、努めて穏やかに確認を入れる。
鷹司の声も表情も感情を伴わず、どんな意図で呼び止められたのか、俺にはまったく分からなかった。
少し考えるような素振りを見せた鷹司は、何の前触れもなく俺に質問を投げかけた――それもかなり不躾な内容の。
「須藤、君は何故、正しい音でヴァイオリンを弾こうと、努力をしないんだ?」
鷹司の問いに、音を数カ所外してしまった先程の演奏が蘇る。
正しい音程で奏でる。
それは俺が今、最も目標とするところだ。
努力?
努力なら……していると思う。
けれど、その努力が技術に追いついていないのも、また確か。
そんなこと、百も承知している。
俺に比べたら、鷹司の音程は驚くほど正確で、本当に素晴らしいと思う。
けれど、面と向かってそんなことを問われるとは思いもよらず、眉間に皺が寄ってしまう。
馬鹿にされたような気持ちになって、胸の中が騒ついた。
指摘された内容が事実だったこともあり、反論もできずに悔しさと恥ずかしさで俺は顔を歪ませる。
苦し紛れ、だったのかもしれない。
次の瞬間、俺は鷹司に向かって『言葉の刃』を放ってしまう。
それは先ほどのレッスンで感じた、彼の演奏に足りない欠落した箇所――まるで味気のない、乾いた景色をみているような気分になった、歪な音色。
音程は、俺の求める完璧さで生み出されていた筈なのに、彼の爪弾く音色には何かが欠けていた。
俺は、その大きな欠点をアイツに向かって突き立てた。
「鷹司、確かにお前の演奏は正確だ。だけど――心が無い。お前こそ、何故気持ちを込めて弾かないんだ!?」
恥ずかしさを隠すように睨みつけながら、自分のちっぽけなプライドを守るために――俺はアイツの心を傷つける言葉を、思わず浴びせてしまったのだ。
もしかしたら、意図的に、中傷する言葉を選んでいたのかもしれない。
そのことに気づいたのは、鷹司が一瞬だけ、その秀麗な面に感情を宿した時だった。
――しまった、と思った。
感情に任せて投げつけたその言葉は、きっと彼を深く傷つけたに違いない。
ずっと無表情だったアイツが、唯一俺に見せた心は――絶望にも似た、悲しみだった。
…
その日、帰宅してからも、鷹司の顔が忘れられなかった。
人を惹きつけてやまない綺麗な顔が、愁いの表情に変わったあの瞬間。それが脳裏から離れず、この後しばらくの間、俺を苛むことになる。
鷹司は何故、あんなにも苦しんでいるように見えたのだろう。
まるで地の底を彷徨い、独り佇んでいるように見えたアイツの眼差し──それを思い出すたび、俺は平常心を保つことができなかった。
すべてを持ち合わせているかのように見えたアイツの姿は、全てまやかしだったのだろうか。
…
それから数日間。
夜もなかなか寝付けないほど、鷹司の顔が、事ある毎にチラついた。
このままではいけないと、翌週の合同練習で必ず謝罪をすると心に決める。
けれど、連日の寝不足により夏風邪をひいてしまった俺は発熱し、レッスンはキャンセルとなった。
来週から音楽スタジオはお盆休みに入るため、しばらくアイツには会えない。
――早く謝りたかった。謝ってしまいたかった。
多分、それは、本当の謝罪ではなく、自分が一刻も早く楽になりたいがため。
謝罪をし、あの遣り取り自体を、なかったことにしたかったのだと思う。
それは、後日、姉から指摘されるまで気づけなかった、俺のズルい『逃げ』だった。





