15 『太陽』と『月』 前編
俺の話をひと通り聞いた加山先生は、紅茶に口をつけたあと静かに語り出す。
「君たちが『クラシックの夕べ』の動画を見ていたことにも驚いたけれど、そうか……新太くんが謝罪したいと言っていた相手が、まさか晴夏くんだったとは……」
俺は逸る気持ちを抑えて、先生の言葉に耳を傾ける。
「僕が彼等に知り合ったのはまだ先週のことでね――晴夏くんが一緒にドッペルを合奏していた女の子がいただろう? あの子の親類と昔馴染みなんだよ。今回『天球』に滞在した時に色々とあって――そこで出会ったのが晴夏くんなんだ」
『天球』――星川リゾートが経営している宿泊施設のひとつで、中禅寺湖畔に佇む老舗ホテルらしい。
そのホテルでは例年、全国的なお盆シーズンにあたる八月の一週間に『クラシックの夕べ』という演奏会を開催していることを、加山先生が教えてくれた。
高名な演奏家や音楽を専攻する将来有望な学生も招待され、施設内にあるチャペルにて、本格的なコンサートが開かれるようだ。
最終日には誰でも参加できる演奏会もあり、地産料理も振る舞われて賑やかなお祭りが催されるとのこと。
「高名と言えば、ピアニストの柊紅子さんが参加されてましたよね。加山先生のピアノトリオの譜めくりに彼女が現れたときは、心臓が止まるかと思いました」
俺が鷹司の演奏に囚われている間、姉は『クラシックの夕べ』の演目をかなり聴き込んでいた。
加山先生の動画も真由姉が見つけたものだ。
姉と一緒にその演奏を視聴中、有名な女性ピアニストが譜めくりに現れたことで、動画の中の観客席同様、二人してかなり驚き、顔を見合わせた時間を思い出す。
「柊さんの弾いた『木枯らしのエチュード』も良かったけど、速弾きの『リベルタンゴ』が本当に素敵で、一緒に弾いていた男の人――確か今『チェロ王子』って言われて噂になっていますよね……――チェロってあんなに素敵な音色なんだってドキドキしちゃいました」
姉の言葉に、加山先生が苦笑する。
「真由ちゃんまで知っているとはね。『チェロ王子』か……葛城も大変だな――ああ……その『チェロ王子』が、あの女の子の親類で、僕の昔からの友人なんだ」
「え? そうなんですか!? あの女の子って一体……――いや、その話は……新太の質問の後にします」
俺の顔を横から覗き込むようにして、姉は俺に聞きたいことを質問しろと促した。
耳の奥に蘇るのは、合同レッスンで聴いた鷹司の音色。
「鷹司は――三週間前の合同練習の時までは、あんな演奏をしていなかった――」
音だけは正確で、けれど、どこか乾いた音色を紡いでいたアイツ。
「でも、あの動画の『協奏曲』は違った。音程の正確さだけでなく、音色に気持ちが宿って、まるで生まれ変わったような演奏になっていたんです」
目に浮かぶのは、アイツの『氷の花』のような風情。
「いつもの彼は、物静かで冷たい『氷』のような雰囲気だったのに、あの演奏だけは違った。まるで『氷』の対極にある『炎』のように見えた」
加山先生も姉も、取り留めのない俺の言葉を黙って聞いてくれる。
俺は空になったプリン皿を見つめていた目を、加山先生に向けた。
「先生は、鷹司の演奏が変わった、その理由を知っていますか?」
真摯な眼差しで問いかけた瞬間、先生の手が俺の眉間に伸ばされる。
「新太くん、ここに皺が寄っているよ。飲み物を飲んで、一旦落ち着こうか? そんなに緊張せずに、少しリラックスしよう」
ティーカップを手にした先生は、ゆっくりと紅茶を喉に流し込んでから、俺の目を見て微笑んだ。
俺はしっかりと頷いてから、先生に倣い、冷たい水を口に含む。
自分では気づかなかったけれど、喉はカラカラに乾燥していたようで、先生が言うように相当緊張していたことが分かった。
安堵の息をついてから座り直すと、先生は再び言葉を紡ぎ始める。
「残念ながら、君が聴いたという『氷』のような晴夏くんの演奏を、僕は知らないんだ。彼に出会って、その演奏を耳にした時、そう言った冷たさというものを感じたことはなかった。そうだな……晴夏くんの演奏を何かで例えるならば――『月』のようだと、僕は感じたよ」
「月?」
俺は首を傾げて先生の双眸を見つめた。
「そう――『太陽』に照らされて、初めて輝くことを知った『月』だ」
先生の指す『太陽』というのは、あの少女のことなのだろうか。
あの少女の演奏が陽光となって、暗い宇宙に浮かぶ『月』を――鷹司を照らしたと、先生は言っているのかもしれない。
「彼等の練習を聴いて感じた……僕の所感でしかないんだけどね」
真由姉が、先生の言葉を拾って質問する。
「先生は、あの子たちの練習風景をずっと見ていた……ということですか?」
「ああ――一緒に演奏会に参加した僕の幼馴染が、彼等のピアノ伴奏を急遽引き受けることになってね。三人の練習を毎日のように傍で見学していたよ」
そういえば、鷹司達の『協奏曲』演奏後、加山先生が花束を渡していた伴奏者は女性だった。西洋人形のような、どこか透き通った雰囲気を持つ、とても綺麗な女の人の姿が脳裏を過る。
以前、真由姉の言動に似ていると、先生が懐かしそうに話してくれた幼馴染とは、あの人のことなのかもしれない。
俺がそんなことを考えている間に、先生は姉との会話を進めていた。
「晴夏くんと一緒に演奏していた女の子――真珠ちゃんと言うんだけれどね。あの子の演奏を、君達も聴いたんだね。彼女は天賦の才の持ち主だ。音楽家になるべくして生まれてきたと言っても過言ではない。その彼女に導かれるようにして、晴夏くんの演奏は日に日に研ぎ澄まされていった。その様は圧巻としか言いようがなかったよ」
姉が戸惑ったような表情を見せる。
「導く? つまり、その真珠ちゃんが、晴夏くんの指導をしたっていうことですか? 一緒にいた加山先生ではなく?」
加山先生は少し困ったような仕草で、顎に拳を軽く当てた。
「僕は一介の学生だからね。彼等のような神がかった演奏をする奏者に対して、指導することはできないよ。どちらかと言うと、彼等の音楽に対する真摯な姿を目の当たりにして、音に向き合う気持ちを鍛え直してもらった側だ」
先生でさえも、彼等の演奏を神がかっていると感じていた事実に俺は目を見張り、姉に視線を移した。
姉はストローを指先で弄りながら、感想を洩らす。
「弾くのが上手な子は、やっぱり教えるのも上手なのかな。すごいな……世界が違う」
その科白を聞いた加山先生は、何故か首を横に振った。
「優れた演奏家が、必ずしも優れた指導者になるとは限らないよ。でも、真珠ちゃんは、的確な指示出しで晴夏くんを掬い上げ、彼の良い部分を見つけては伸ばしていった。彼等は言葉ではなく演奏で会話をし、あの『協奏曲』を創り上げ――」
そこで先生は言葉を止め、そして一息で鷹司のあの日の演奏で感じた想いを口にのせた。
「――あの舞台で鷹司晴夏は『音楽家』になった。僕はね、あのコンサートで、ひとりの少年が生まれ変わる貴重な瞬間に立ち会えたんだ。その事実に、感動で震える思いだったよ」
加山先生はその時のことを思い出しているのだろうか、口角を上げ、とても温かな光を宿した眼差しで微笑んでいた。





