10 絶対熱の『協奏曲』
呼吸すら忘れ、俺はその動画の演奏を食い入るように見つめた。
絶対に聴き洩らすまいと、瞬きもせずに鷹司の動きを注視する。
「これは……鷹司……晴夏? いや、誰だ? コイツは……っ」
これは、本当に、あの合同レッスンの時の鷹司と同一人物の演奏なのだろうか?
合同レッスン時のアイツの全てが、目に耳によみがえる。
――氷の礫のような正確な音色。
――どこか空虚な音の歪。
――無機質な調べの違和感。
そして――
干からびた景色が見え隠れした――心。
この動画の中の鷹司晴夏は、そのどれにも当てはまらない演奏を繰り広げている。
全てが真逆だった――何よりも、『氷の花』を彷彿とさせる凍える印象を残したアイツの姿は、この動画の中には欠片さえ残っていない。
「クソッ なんだよ、これは!」
まるで――火焔だ。
苛烈な炎を思わせる、激しく心を揺さぶられる音色が、アイツのヴァイオリンから弾きだされる。
この曲は、本来は高潔で厳粛な調べの曲だ。
けれど、これは――
まるで焦がれるように少女へと手を伸ばし、魂の交わりを希う音色は、何故に生みだされるのだろう。
レッスンの終わりに廊下で呼び止められた時、振り向きざまに見た鷹司の眼差しが脳裏を過る。
忘れたくても忘れられなかった、アイツの悲しみに満ちた瞳――懊悩の宿る双眸が俺の心を苛んでいたはずなのに。
けれど今、この映像の――アイツの眼の奥に見えるのは……。
触れることのできない絶対零度の『氷の花』は、対極に位置する熱を纏い、揺らめく『青い焔』へと生まれ変わっていた。
――絶対熱だ。
俺はゴクリと唾を飲み込む。
氷は溶けるだけでは飽き足らず、すべてを灰燼に帰すほどの――絶対熱の……灼熱の劫火へと変貌を遂げていたのだ。
『氷の花』に、何があったと言うのだろう?
あの日、アイツの音に感じた物足りなさは、微塵もない。
それどころか、これでは……今の俺では――アイツの足元にも及ばない。
完璧な音程どころではない。
彼が紡ぐのは、彩り溢れる情感豊かな音の塊だ。
その音の粒が熱を帯び、彼の愛器から次々と迸る。
「俺は、アイツの……アイツの、こんな演奏を……知らない……」
鷹司の隣には、魂を求め合う音色を織り成す少女の姿。
少女の演奏には、恐れも惑いも見当たらない。
鷹司の演奏をも呑み込む、凄みのある音色に、圧倒的な何かを――格の違いを見せつけられる。
本来であれば、俺がこの少女の位置に居たはずなのに――
鷹司だけでなく、彼女の演奏も聴きたいと願うのに、心を支配する感情に揺さぶられ、表面上のことしか理解できない。
この想いは、何なのだろう。
ただ只管、悔しいと思った。
ヤツの本気の音色を引き出したこの少女が、妬ましかった。
けれど、それと同時に――
「やだ、新太!? ちょっと、どうしたの? 何、泣いてるのよ?」
突然、姉の慌てた声が客間に響き、俺はハタと現実に引き戻された。
まるで彼らが演奏するチャペル内で鑑賞していたかのような臨場感が消え、ここが祖父母宅の客間だということを思い出す。
そして、我に返った俺は、姉の言葉を反芻した。
「……泣いて……?」
俺は咄嗟に自分の頬に触れる。
透明な雫が指先を濡らし、自分が泣いていたことに、今初めて気づいた。
後から後から、熱い想いが込み上げては目から溢れ、ポタリポタリと畳の上に零れ落ちる。
あの少女が妬ましかった。
――いや、……羨ましかったのだ。
アイツのあの苦しげな眼差しを、救ってくれたのは――この少女なのだろうか?
合同レッスンで聴いた、どこか味気なさを漂わせた鷹司の音色は、動画の何処にも見当たらなかった。
カラカラに乾いた調べ――無機質に並べ立てられた音の集まりが、いつの間にか霧散していた事実に驚きを隠せない。
この映像の中のアイツの演奏には、紛うことなき希望の光が見えた。
『音』を『楽』しむ――心から、奏でることを愛する様子が、この音色を耳にしただけで否応なく伝わったのだ。
「――良かった……」
何故、そう呟いたのか――自分の心が、分からなかった。
――鷹司の演奏に、今の自分では足元にも及ばないと愕然としたばかりなのに。
――彼の隣で爪弾く少女に、悔しいと――妬ましいと、そう思った筈なのに。
彼等の奏でる音色を聴いた俺は、何故か、ひどく――安心したのだ。





