第1話 私メリーさん。今自分の家の玄関にいるの。
グレイヴス邸の門番が、ホーポルク警察庁魔物調査課からの来訪者がいることを告げてきたのは、メリーさんごとメリー・サン・イセルダ・マーガレット・グレイヴス女公爵が朝食の牛シビレのポワレを召し上がっていたときだった。主戦闘魔法軍第一研究所付近で妙な殺人事件が起こり、その現場を見てもらいたいとのこと。
グレイヴス家はホーポルクのロンバーティア帝国直轄時代からの名門貴族であり、メリーさんの父親は生前一流の魔法大学で生命魔法を研究し続け、母親はその助手だった。二人は数年前魔法実験の事故で命を落とし、メリーさんは若くしてグレイヴス家当主になった。
両親と同じく生命魔法を研究しているメリーさんは、ある時ひょんなことから雪に閉ざされた知り合いの貴族の別荘で、「暗闇パズル死体消失密室殺人事件」を偶然別荘に居合わせた警察と共に解決したのをきっかけに、しばしば暇つぶし感覚で警察の調査に協力することになった。迷宮入りしそうな難事件にしか呼ばれないにかかわらず、メリーさんが携わった事件は必ず数日の間に解決するから、容姿端麗なメリーさんは警察庁では「ゴスロリ先生」というあだ名が付けられるほどの人気者になった。
しかしある日、メリーさんを馴れ馴れしく「ゴスロリ先生」と呼んだ警察官は、次の日の早朝に青白い顔で退職届を出し、同じ日に大真帝国に遁走したこともあって、面と向かってそのあだ名を口にする者はいない。
メリーさんがグレイヴス家の私兵でその警察官を脅かしたとか、メリーさん直々に何かの魔法をかけたとか噂が飛び交い、終いには「メリーさんをメリーさん以外の呼び名で呼ぶと呪われる」という怪談じみた噂にまで発展してしまった。
「朝食の邪魔ね。今出かける準備をしているから待ってって伝えて。」メリーさんは若い女性にしてはやや低い声で門番に指示した。指示を出した後、メリーさんは優雅なナイフ捌きで牛シビレのポワレを切り分け、その小さな内臓の塊を口に運んだ。
グレイヴス邸の玄関では、身長が2メートル以上ある大男が、背筋をピンと伸ばして直立不動のままで待機していた。警察庁警部長の制服をそつなく着こなし、ロングソードを背負っているその男は、魔物調査課課長補佐兼連絡担当官ヴィルヘルム・アーロンソンだ。丸みを帯びた親しみやすい顔をした好青年だが、平民の出でありながら異例の出世を果たしている彼は、警察庁内の羨望と嫉妬を一身に集めている。
この世界で言う「魔物」は、スライムやグリフォンのようなモンスターはもちろん、シルフ、オー クなど知性のある魔族も大括りで魔物に含まれる。魔物調査課とは、実質上都市国家であるホーポルク国境内の魔物による犯罪だけでなく、国家にとって貴重な資源である保護種魔物の密猟、違法売買などを取締る警察の部署だ。創設から百何十年しか経っていないホーポルク警察庁においても、他の部署よりさらに歴史が浅い。
「警部長、もう1時間も待ってるっすよ。もう現場行きましょうよ。」
グレイヴス邸の玄関でメリーさんを待っているもう一人の警察官、魔物調査課巡査部長メッサリオ・クロンデリアン・セイファード。その父親セバスチャン・マルカス・セイファードは一代で財を成し、大枚を叩いて男爵位を購入した人物だ。しかし母親のデロリス・セイファード夫人はこのセイファード家三男メッサリオを溺愛し、ボンボン息子に育て上げたため、セイファード男爵閣下は根性を叩き直すという理由でメッサリオを無理やり警察に入隊させた。
「今回の事件に関して、上からメリーさんの協力を要請しろとの達しが出ている。メリーさんが来なければ調査を始めることすら出来ないぞ。単なる殺人事件ではないということは十分説明したはずだ。」
「はいはい。」
何件もの事件の解決の鍵になったメリーさんは、警察庁から「魔法鑑識専門家」という肩書きを与えられている。そしてホーポルクのまた改正されていない古い法律では、伯爵以上の貴族は刑事事件を調査する権限及び一定の裁量権を持っている。
「ところでさ、あの噂、本当っすかね。メリーさんをメリーさん以外の呼び名で呼ぶと呪われるって。」
魔法が日常生活の一部であるこの世界では、呪われることだってあってもおかしくない。
「単なる噂に決まっている。ただし、メリーさん以外の呼び名で呼ぶと、ものすごく機嫌が悪くなるのは事実だ。」
「自分の家の玄関前で自分が噂されるのも、結構気分悪くなるけれども。」メリーさんのやや低い声が、ゲートの向こうから聞こえた。