第二話
歩美は天井を見つめていた。
ウツで眠れない夜を数え切れないほど経験してきたが、今夜は違った、高揚して眠れないのだ。
歩美は今日の出来事を思い返した。
―― 彼の歌を聴いて大泣きし、病的なほど興奮した。たぶん発作が起きたのだろう。最近はなかったが、入院中は結構あったのだ。パニック障害を伴うウツだった。
感情が落ち着いてきて、周りを意識できるようになると、私と彼は、いつの間にか抱き合っていたようだ。公衆の面前で、バカップルのように。その上、彼は私の背中をさすりながら、なぜか私よりも大声で泣いていた。
私は恥ずかしくて、彼をはねのけて逃げ出した。
地面に押し倒されて、彼も正気に戻ったのだろう、ギターを抱えて私の後を追いかけてくる。
広場の端まで来たとき、私は捕まってしまった。彼は、ゴメン、ゴメンと言いながら私を引き止めた。幸い、周りにもう人はいなかった。
私は全力で走って息が上がってしまったので、近くあったベンチに座り込んだ。彼はベンチの前まで来て、膝に手をやり、中腰のまま肩で息をしていた。
息が治まってきた私は、彼の方を見た。ギターの弦が一本切れていた。
私は首筋の汗をハンカチでぬぐい、その手でギターを指差した。彼もそれに気づいて、切れた弦の先をつまんで、あれーと言って笑った。その仕草があまりに子供っぽくて、私も思わず笑ってしまった。笑いが治まると、今度は、あーあと言って、切れた弦を私に見せつけ、さらに笑わせた。
先程まで大声で泣き合っていた二人が、今は、ギターの弦が切れたといって、無邪気に笑っていた。
警戒心が解けた私は座り直して、ベンチの横を空けた。それを見て彼は、軽く手を上げ、どうもと言って隣に座った。
夏の陽射しは少し傾きかけ、ベンチの周りまでビルの影が伸びていた。広場の中心、二人が抱き合っていた辺りは、もう何事も無かった様に人が行き来していた。
「あなた、ギター下手ね」私は、いじわるを言った。
「オレはボーカル担当だからさ、普段は弾かないんだ」
彼はマイクを持つような仕草をした。
「メンバー、どうしたの。この前、一緒にいた」
「みんな仕事あるからね。おとといは久しぶりに集まったんだ」
「社会人なの、大学生かと思った」
特に彼は若く見えた。
「二十四だよ、オレは消防士なんだ。非番なんで、単独ライブやってたんだ」
切れた弦をギターから外しながら彼が言った。
「二十四、私と同じ歳だ。年下かと思った」
「いやいや、そっちこそ年下かと思ったよ」
「もうオバアちゃんだよ、わたし」
彼はこちらを向き、私の顔をのぞき込み、首を左右に振った。
それから、
「道生っていいます。ストリート・ライブって書くんだ。きみは?」
「私は、歩美。ウォーキング・ビューティよ」
人に冗談を言うのは久しぶりだった。
「うわぁ、オレよりカッコいい! ウォーキング・ビューティ!」
二人で顔を見合わせて笑った。
「暑い中走ったら、のど渇いたね。お茶でも飲もうか」道生が誘った。
「いいけど、少しだけね」正直、発作を起こした後で、かなり疲れていた。
二人で近くの喫茶店に入った。冷房が効いていて、気持ちが良かった。
私はカウンター席を選んだ。人と向き合って話すのは、まだ苦痛だった。




