第11話 紫陽花3
前世の記憶を取り戻してから初めて臨む朝食の席。
緊張を胸にダイニングルームに赴くと、いつもそうであるように、ジルはすでに席についていた。
その横顔を目にした瞬間、サラの心臓がどくんと跳ねる。
サラの入室に気付いたジルが、ゆっくりと顔を振り向けた。
「おはようございます、サラお嬢さん」
ジルの穏やかな微笑みが、真っ直ぐサラに向けられる。
サラの心臓がもう一度跳ねた。
ああ、やっぱりジャンだ。
その根拠を説明することはできない。けれど理屈ではなく感覚的なもので、サラはそう確信する。
「おはようございます、ジル」
平静を装っていつもと同じ朝の挨拶を返し、サラはジルの向かいの席に腰を下ろした。
「もうお身体は大丈夫なのですか?」
「ええ。ジルにも心配をかけました」
「いえ、安心致しました」
ジルと当たり障りのない会話を続けるサラの鼓動は相変わらず速い。
いつも通りに、いつも通りに。
そう思うけれど、今まで自分はどんな顔でジルと話していただろうか。
考えれば考えるほど、表情はぎこちなくなるようだった。
ジルに対し、これまでにない緊張感を抱いている。
それは否定できない。
でもこれは恋ではない、とサラは思い、そう思えたことに安堵した。
サラが恐れていたのは、ジルと直に顔を合わせた途端に、ジルに恋い焦がれる気持ちが湧き起こりはしないか、ということだった。
サラの中のエリーズが、ジャンの生まれ変わりであるジルを求めるのではないか、と。
けれど、そうはならなかった。
サラが今ジルに感じている気持ちを一言で現すことは難しいけれど、少なくともエリーズがジャンに抱いていた気持ちとは違う。
それに、サラがオレールに感じている気持ちとも違う。
だからこれは、恋ではないはずだ。
自分に言い聞かせるように、サラは胸の内で繰り返した。
*
「サラ、身体の方はもう大丈夫なのか?」
「はい、もう何ともありません。ご心配をおかけしました、お父様」
安心させるように微笑めば、父アルマンはその厳めしい顔をわずかにゆるめた。
「オレール殿のお父上からも、お前を案ずる手紙を頂いている。結婚式はもう10日後だが、予定どおりでいいのかと……」
「もちろん。大丈夫です」
そう答えれば、父は安堵の表情で頷いた。
無理もない。結婚式とそれに続く結婚披露パーティーの準備はすでに整っているのだ。今になって延期や中止ということになれば、多数の招待客をはじめ、関係者への影響はあまりにも大きい。
それが分からないサラではないから「大丈夫」と即答したが、内心ではそう答えることに躊躇いがないわけではなかった。
ちらりと、向かいの席のジルに目をやる。
家族として朝食の席についているジルだが、一歩引いたところがあり、アルマンとサラの会話に自ら口を挟むことはない。相槌を打ちながら聞き役に回るのが常だった。
今もジルは、いつも通りの柔和な表情で、サラとアルマンの話に耳を傾けている。
サラの目には、ジルはアルマンと同じく安堵しているように見えた。
少なくとも、サラとオレールの結婚式が予定どおり執り行われることを残念がる様子は見えなかった。
話題はいつのまにか、昨年からブロンデル商会が力を入れている壁紙の新作の話に移っていた。
仕事が絡む話題となれば、アルマンと主に話をするのはジルの役割となる。
父とジルの会話に相槌を打ちながら、あるいはフォークを口に運びながら、サラは密かにジルを観察する。
少し癖のある茶色の髪に、同じく茶色の瞳。ジャンと同じだ。
背が高いところもジャンと似ている。
そこまで考えて、サラは自分自身に呆れた。
生まれ変わっても、前世と似た容姿になるわけではない。そのことを身をもって知っているはずなのに。
というのも、サラとエリーズの外見は全く似ていないのだ。
白金の髪に青い瞳といういかにも貴族らしいエリーズに対し、サラは髪も瞳も平凡な茶色だ。
小柄なところだけは共通しているが、サラとエリーズではまとう雰囲気も全然違うように思う。
エリーズは美しい少女だったとサラ自身でも思うが、病的で儚い美しさだった。サラにはエリーズのような美しさはないが、健康的な輝きがある。
ジャンとジルも、髪と瞳の色や体型に似たところはあるが、受ける印象はずいぶん違う。
ジャンは日に焼けた素朴な青年だったが、ジルには知的で洗練された雰囲気があるのだ。
一方で、内面はどうだろうか。
穏やかな人。
それがサラのジルに対する印象だ。
そしてそれはジャンにも通じるように思う。
花はどうだろうか。
ジャンがそうであったように、ジルも花に詳しいのだろうか――。
そんな風に、サラは朝食の間中、ジルの中にジャンを探していた。
ほとんど無自覚に。
*
普段とは違う心持ちで朝食を終え、いつものようにすぐに部屋に戻らず庭園に出たのは、深い考えがあってのことではなかった。
ただ、何かに誘われるように、無性に花に囲まれたい気持ちになったのだ。
庭園に敷かれた小道の入口に立ち、ぼんやりと薔薇の甘い香りに身を委ねているときだった。
「サラお嬢さん」
背後から不意打ちのように掛けられた声に、サラはビクリと肩を震わせた。
低く落ち着いた声の主は、振り返らずとも分かっていた。
いったん静まっていた鼓動が再び騒ぎ出す。
「ジル……」
振り返った先には、思ったとおりの人物が立っていた。
「驚かせてすみません。少しお話させて頂いても?」
不思議と、サラの中に断るという選択肢はなかった。
緊張の面持ちで頷けば、ジルがすっと手を差し出す。
わずかな躊躇いの後、サラはジルの手を取った。