第1話 紅薔薇1
「婚約を……解消して下さい」
意を決して発した言葉。それはサラの心を映すかのように小さく震えた。
「どう……して……」
呆然と目を見開いた婚約者の口から、掠れた声が絞り出される。
その視線に耐えられず、サラは顔をうつむけた。目の奥が熱い。
「前世の記憶が、戻って……それで分かったんです。わたしはあなたの運命ではないって……」
もはやはっきりと震えの分かる声。
「だからわたし、あなたとは結婚できません」
伏せた瞳から、涙が一粒こぼれ落ちたーー。
*****
「まぁ、とっても可愛いマーガレット。ありがとうございます、オレール様」
婚約者から差し出されたピンク色の花束に、自然と笑みがこぼれた。
「残念、やっぱり分かっちゃったか。ピンク色は珍しいかと思ったんだけどね」
言葉のわりに残念そうな様子もなく、婚約者は柔らかに微笑む。
「それじゃあ、これは知ってる? ピンクのマーガレットの花言葉」
「確か……『真実の愛』」
言いながら、頬がじんわりと熱くなるのを感じる。
「正解」
婚約者は嬉しそうに頷くと、サラの右手を取り、チュッと音を立てて口付けた。そのまま流れるような動きでサラを応接セットへとエスコートする。
サラの屋敷に2つある応接室の内の、小さな方。
ほとんどサラ専用と化しているその応接室の壁紙は、薄いベージュ地に淡いピンク色のデイジーがデザインされたもの。椅子やテーブルは、壁紙の可愛らしい雰囲気に合わせ、明るい色合いのもので揃えている。いずれも父の商会で扱う商品の中から、サラ自身が選んだものだ。
その、サラのお気に入りの部屋で、サラが選んだ長椅子に、婚約者がゆったりと腰掛けている。
1年前にオレールと婚約して以来、毎週のように目にしてきた光景は、いつだってサラの胸を高鳴らせ、満ち足りた気持ちにさせた。
「今度こそはサラが知らない花を、といつも思うんだけどね。我が家の出入りの花屋はそろそろネタ切れだと嘆いてるよ。サラは本当に花に詳しいね」
「ふふ。と言っても、花の名前や花言葉を知っているくらいのものですけど」
「やっぱり前世の記憶なのかな?」
「そうだとすると、私の前世は花屋の売り子かもしれませんね」
サラは物心ついた頃から花の名前をよく知っていた。
誰に教えられたわけでもなく、調べたわけでもないのに、なぜか庭に咲く花の名前を全て知っていたのだ。
これはおそらくサラの前世に由来する知識なのだろう、というのがサラの家族や友人達の一致した見方だ。
人はその生を終えると、新たな命として生まれ変わる。
それが確固たる事実として認識されているのは、この国に、前世の記憶を持つ者が少なからず存在するからだ。
その数は、人口のおよそ1割と言われている。
ただし、前世の記憶を持つと言っても、その程度は人によって様々だ。裏付けが取れないような曖昧な記憶しか持たない者もいれば、名前から出自、細かな出来事に至るまで記憶している者もいる。
また、記憶が甦る時期も人それぞれで、物心ついたときにはすでに前世の記憶を持っていたという者もいれば、老齢になってから記憶が甦った例もあるという。
前世の記憶を持つ者はそれ自体珍しい存在だが、中でも、前世で専門的な知識や技術を持っていた者が、今世で幼くしてその記憶を取り戻した場合、貴重な人材として国に重用される場合がある。
そのようなこともあって、前世の記憶を持つ者ーー『記憶持ち』は、人々にとってちょっとした羨望の対象なのだった。
ではサラの前世の記憶はどうかと言うと、取り戻す時期こそ早かったものの、その内容は極めて中途半端なものだった。
前世の名前も住んでいた場所も、個人を特定できる情報は何一つ分からない。あるのは花の名前や花言葉についての知識のみで、花の栽培方法に関する見識やアレンジメントの技術があるわけでもない。『記憶持ち』の中では残念な部類に入るだろう。
サラが前世の記憶を活かすとすれば、それこそ花屋の売り子くらいしかないだろうけれど、サラには花屋で働く予定はない。
なぜならサラは、国一番と名高いブロンデル商会の一人娘で、2週間後にはマイエ子爵家嫡男オレールの妻となるのだから。
「花屋の売り子をするサラも可愛いだろうなぁ。……あ、そうだ。サラの一番好きな花って何?」
「そうですね……お花はどれも好きですけど、一番と言われると……」
サラは小さく首を傾げ、自室の様子を思い浮かべた。
小さな応接室と同じく優しい色合いでまとめられた室内のそこかしこに、様々なドライフラワーが飾られている。
窓辺に吊されたミモザ。ベッドサイドのラベンダー。飾り棚の上に所狭しと並ぶ花瓶には、紫陽花、カスミソウ、スイトピー……。
すべてオレールから贈られた花たちだ。
ぐるりと部屋を見渡したサラの意識は、鏡台の横で留まる。そこにあるのは、オレールから初めて贈られた花で作ったドライフラワー。花言葉は『あなたを愛しています』。
「……やっぱり赤い薔薇、です」
サラの答えに、オレールは目を細める。
そんな風に笑うときオレールの目尻に浮かぶ皺が、サラは好きだ。いつまでも見ていたい。指先でそっと触れて、そして口付けてみたい……。
密かにそんな想像をしたことが恥ずかしくて、サラは思わず赤面した。
「そうか。じゃあ、2週間後の結婚式の日、僕の奥さんに最初に贈る花束は真っ赤な薔薇にするよ。楽しみにしていて」
婚約者がさらりと発した「奥さん」の言葉に、サラの頬はますます熱を帯びる。奥さん。なんて素敵な響きだろう。
そんなサラを甘く見つめながら、オレールはサラの手を取った。
「さて、そろそろ出掛けようか、僕のお姫様。結婚前、最後のデートに」
もはや誤魔化しようもなく真っ赤に染まった顔を俯けて、サラは頷いた。