竜巻テディ
ずるずる、ぺたり。ずるぺたり。
自分がなにものか、わすれてしまったものが、突風の中をすすんでいく。ものの長い毛がアスファルトでこすれて、黒くよごれていく。
そのもの……クマのぬいぐるみは、自分でもわからないまま、坂の上にある二階建ての家に向かっていた。
その家には『あやめ』という、女の子が住んでいた。
野村あやめは十二歳で、五月生まれの女の子だ。
勉強も運動もそれなりにできて、クラブ活動ではリーダーシップをとる。そんなあやめは最近、二つ下の弟が、きらいだった。弟ばかり大人にほめられるので、ねたましかった。
弟の祐介は勉強はまずまずだが、運動はまるで駄目。クラスではおどおどしている。そして絵が大得意。祐介は、まるで写真みたいな絵をかくのだ。大人は祐介の絵を、必ずほめる。親もそれを誇らしく思っていた。
あやめは『祐介のサイノウノメなんて、つぶれちゃえ』と、心で願っていた。
今、祐介はお母さんと出かけている。祐介が頼まれた花の絵がかきあがったので、それを渡しに車で出かけたのだ。あやめだけ、家で留守番だ。
「あーあ、やってられない」
あやめはひとりごとを言って、肩にかかった髪を、指でくるくる巻いた。
今日は金曜日で、明日とあさっては小学校はお休み。そしてもうすぐクリスマスだというのに、気分がはずまなかった。
また祐介だけほめられたし、ひとりの留守番は嫌だった。あやめは、もしひとりの時に竜巻がきたらどうしよう……と、不安に思っていた。
三日前、あやめのいる町を、強い竜巻がおそった。屋根瓦がとぶほどの竜巻で、少数だが、けが人も出た。
今日も風が強く、窓ががたがた音を立てている。あやめは竜巻がおこってないか気になって、窓から外をのぞいた。そして、あるものに気づいた。
よごれたクマのぬいぐるみが、風の中、あやめの家へと続く坂道を、のぼっている。
あやめは目を見開いた。急いでスニーカーをはき、クマのぬいぐるみのところまで、まっすぐ走った。風の中でぬいぐるみを見つめた。ベージュ色の毛にうまった、青い瞳が光っている。
「テディ」
ずるぺたり、と歩くクマのぬいぐるみを、あやめはそっと抱きしめた。
「わたしの、テディ」
テディと呼ばれたクマのぬいぐるみは、口を動かさずに、声を出した。
「テディ? ……ソレガボクノナマエ?」
幼稚園の子のような、高い声だった。
「あなたはテディよ。わたしが五才のときから、いっしょだったぬいぐるみ」
テディはあやめが学校に行っている間に、『人形供養』に出されたぬいぐるみだった。
『人形供養』とはお寺や神社で行われる、人形やぬいぐるみの、お葬式だ。お経をあげて清めの火の中へ。人間のお葬式とそっくりに行われる。あやめにとって、テディはまだ死んでいなかったのに。
あやめはお湯でしめらせたタオルで、テディについたよごれをふいた。
「オモイダセナイ」
テディは頭をふって、温かいタオルをはらった。
「……ダイジナモノ、ドコカニワスレテキタ」
「大事なものって?」
「ウーン」
テディは首をひねった。首元のリボンが揺れる。
「……テディ、記憶喪失なんじゃない?」
「キオクソーシツ?」
あやめはテディに、『記憶喪失』についてくわしく話した。強く頭を打ったり、ショックな目にあうと、自分の名前や、これまでのことがわからなくなるらしい。
「早く思い出せるといいね」
あやめはテディの首元のリボンを結びなおすと、丸い耳をなでた。
「アリガトウ、アヤメ」
「ううん。おかえり、テディ」
あやめは大好きなテディが戻ってきて、話もできるようになったので、うれしかった。ずっとかわいがっていたからテディに奇跡がおきて、話せるようになったんだ。そう思った。
テディにちがうものが入ったとは、考えもしなかった。
だれかがあやめの部屋のドアを、ノックした。
「ねえちゃん、今、いい?」
弟の祐介だ。
あやめはテディを人形が並んでいる棚に置くと、むすっとした顔に戻って、ドアをあけた。
そこにはめがねをかけた、やせっぽっちの弟が立っていた。祐介は片手に、ピンク色の紙袋を持っている。
「なによ」
「これ」
あやめは祐介から紙袋を受けとった。中をのぞくと、ヒイラギに木の実と赤いリボンをあしらった、クリスマス用のコサージュが入っていた。
「かわいい」
「絵のお礼にもらったんだ。あげる」
「ふーん。どうも」
「おれは、そんなのいらないから」
『いらないから』を聞いて、あやめは眉をよせた。
祐介が首を伸ばし、あやめの後ろをのぞこうとした。
「部屋、勝手に見ないで」
「ねえちゃん、さっき、だれかと話してなかった?」
「だれとも話してないわよ。ひとりごと」
あやめはそう言うなり、部屋に入ってドアをしめた。もらったコサージュは紙袋のまま、机のひきだしに放りこんだ。
祐介はしばらくドアの前に立っていたようだが、やがて足音を立てて、自分の部屋に戻っていった。
「おまたせ」
あやめは小声でテディに話しかけて、両手で抱きあげた。
「ニンギョウ、イッパイ」
テディはあやめの手の中から、棚の人形たちを見おろした。
「アヤメ、ニンギョウスキ?」
「うん、かわいいでしょう」
「ウーン」
あやめはテディといっしょに、棚の西洋人形たちを見た。よごれたテディは捨てるように言われたが、ドレスを着た西洋人形は、おとがめなしだった。
「ニンギョウ、ミンナ、オコッテイナイ」
「そういう人形は、めずらしいわね」
「ワラッテモイナイ」
「そういえば……そうね」
西洋人形たちはどれも、テディの言うとおり、怒っても笑っても、泣いてもいなかった。そしてテディも、同じように無表情だった。
◇◇◇
あやめの家の夕ごはんは、ほとんど三人で食べている。お父さんは家に帰るのがおそいので、あやめと弟の祐介、そしてお母さんの三人。
テディが帰ってきた日の夕ごはんは、あやめの好物のハンバーグだった。
お母さんは「祐介の絵がどれだけよろこばれたか」を話していて、祐介はあいそ笑いを浮かべながら、あいづちを打っている。
あやめはハンバーグを食べながら、テディのことを考えていた。お母さんや祐介の話は聞いてなかった。
「お母さん、そんな話はいいから」
あやめはハンバーグを最後のひと口だけ残して、お母さんに話しかけた。
「テディ……わたしのクマのぬいぐるみ、どうしてすてちゃったの」
「またその話? あやめは四月から中学生だし、もういらないと思って」
「年は関係ないよ」
「それにすててないわ。人形供養に出したのよ」
「わたしにとっては、同じだよ」
あやめはテディを隠さないですむ計画を、考えた。テディが歩いて帰ってきたのではなく、自分で取り戻したことにすればいい。
「あのぬいぐるみは大事なものなの。わたし、神社の人に言って、返してもらうから」
「でも人形供養はもう……それにあの神社は今、竜巻被害で大変なんだから。こまかいことで連絡したら迷惑よ」
「こまかくなんかない!」
あやめはどなって、机をたたいた。
「やめてよ」
あやめの隣にいた祐介が、はしを置いた。
「お母さん。あのクマのぬいぐるみは、ねえちゃんのぬいぐるみじゃない。……ぼくと、ねえちゃんのぬいぐるみだったんだ」
「そうだったかしら」
「うん。だからぼくからもお願い。返してもらえない?」
「……じゃあ、いちおう神社に電話してみるわね」
けんか腰でない祐介が話に加わると、お母さんは素直に聞いた。
あやめは、祐介を横目で見た。
「ありがと。助かった」
「……ねえちゃん、おぼえてた? テディが、おれとねえちゃんのぬいぐるみだったこと」
「………」
「やっぱり、わすれてたな」
祐介はあやめを見なかった。夕ごはんのお皿をさげると、すぐ二階にあがっていった。
あやめはハンバーグの最後のひとくちを食べた。冷めていて、あまりおいしくなかった。お皿をさげて、自分の分だけ洗う。そこへお母さんがやってきた。
「今、神社に連絡したわ。――人形供養の日に竜巻がきたから、人形供養は延期したらしいの。ぬいぐるみや人形は全部、保管してあるそうよ」
◇◇◇
翌日の土曜日。あやめは地元に古くからある、神社の境内に入った。
中はひどいありさまだった。本殿の屋根や柱が、四日前の竜巻でこわれている。
地面では鬼瓦が、横になっていた。おそろしい顔の鬼瓦も、ツノとキバがとれて、ぼろぼろだった。あやめはかわいそうだと思った。
「タツマキコワイ。ツヨイオニモ、ヤラレテイル」
あやめのリュックにいるテディが、ひょっこり頭を出した。
「アヤメ、ドウシテボク、ツレテキタ?」
「うん? それは『いま、大事なぬいぐるみを見つけました』ってふりを、するためよ」
あやめはテディの頭を押して、リュックにもどした。
ほうきで掃除をしている神主さんを見つけ、あやめは声をかけた。
「すみません、お電話した野村です。母は仕事中なので、わたしだけ来ました。えっと……いそがしい時にごめんなさい。人形供養に出したぬいぐるみ、返してくれますか」
年老いた神主さんは、境内のすみにある自宅へと、あやめを案内した。客間には人形やぬいぐるみが入った段ボール箱が、おかれている。
あやめはそこで、段ボール箱からぬいぐるみを探すふりをした。そして神主さんが目を離したすきに、リュックからさっと、テディを取り出した。
「神主さん、ありました。わたしのぬいぐるみ!」
あやめは『いま、大事なぬいぐるみを見つけました』というふりをした。テディはぴくりとも動かず、ただのぬいぐるみのふりをした。
「そうかい、よかった」
神主さんはにこにこしていた。
あやめは本殿にお祈りしてから、帰ることにした。
あやめが小さいころから見ていた本殿は、屋根がこわれて、ブルーシートがかかっている。おさい銭箱も竜巻でこわれたようで、代わりにお菓子の缶が置かれていた。あやめは百円玉を入れた。
「こまったことに、さい銭どろぼうにもあいましてな。火事場どろぼうならぬ、竜巻どろぼうです」
神主さんは少しさみしそうに笑った。
あやめは鳥居をくぐったあと、神社に向かって、テディといっしょに手を合わせた。テディがぐるんと首をあげて、あやめを見た。
「アヤメ」
「なぁに、テディ」
「ムカシノコト、オモイダシテキタ」
「そうなの? よかった!」
あやめは声をはずませて、テディを抱きしめた。
リュックに入る時に「……タツマキ」とテディがぼやいたのは、あやめには聞こえなかった。
あやめは家に帰るとちゅうの公園で、祐介を見つけた。祐介はすべり台のそばにあるベンチに座って、スケッチをしている。祐介の足元には、だれかがわすれた野球のバットが、転がっていた。
あやめはスケッチに集中している祐介の、後ろに立った。
「どれどれ、なにかいてるの」
「うわ」
話しかけるまで、祐介はあやめに気づかなかった。おどろいて、持っていた鉛筆を落とした。
「いきなり話しかけないで。心臓とまるよ!」
「ないない。あんた、びびりすぎ」
あやめは祐介の隣に座った。スケッチブックを見せてもらった。そこにはすべり台の下に生えている、ヨモギのしげみが、黒い鉛筆だけでかかれている。
画用紙のヨモギも、実際のヨモギも、中心が茎ごと枯れていた。枯れていない葉は、ところどころ、虫に食べられている。
「なんだか、きたないヨモギね」
あやめはスケッチブックから目を離して、冬の公園を見回した。ブランコの裏には、ぴんと育ったヨモギのしげみがある。
「あっちのヨモギのほうがきれいなのに」
「ブランコ裏のヨモギなら、もうかいた」
祐介は『2B』の鉛筆で、虫に食われた葉を塗っていた。
「虫に食われているところなんて、かかなくてもよくない?」
「ありのままをかきたいんだ。おれはこういう部分も、かっこいいと思うし」
「へんな祐介」
「そうでもないさ。虫食いのない植物をかいた、ふすまの裏に……本当にかきたかった、虫食いのある植物をえがいた画家だって、いたんだから」
「ふすまの裏に? わざわざ?」
「うん。天才……いや、鬼才はもう、やることがちがうよね!」
好きな画家の話をする祐介は、いつもより声が大きかった。
「……あんた、この間プレゼントした絵に、同じことしてないでしょうね」
「してないしてない。だから、お礼ももらえたんだし」
「ああ、わたしにくれたコサージュ……」
「かわいいから、ねえちゃんが欲しがると思って」
「まぁ、うん」
祐介にもらったコサージュは、ひきだしに入れたままだった。
あやめはもういちど、祐介がかいたヨモギの絵を見た。
虫食い。冬枯れ。そして春に向けて、炎の形の葉を地表にひろげているさま……そのままの自然が、えがかれていた。
「そうね。この絵かっこいいかも」
あやめは祐介の絵を、久しぶりにほめた。祐介は顔を赤くして、自分のめがねのフレームをさわっていた。
祐介にあやまらなきゃ、とあやめは思った。
祐介の言うとおり、テディはお父さんが、あやめと祐介のふたりに買ってきたぬいぐるみだった。五才のあやめにとって、三才の祐介を言いくるめるのは、とても簡単だった。
――祐介は絵をかくのが好きでしょ。クマさんなんていらないでしょ?
――この子をわたしにくれないなら、もう遊んでやらないから。
……そんなことを言って、テディをひとりじめにした。それからだ。祐介が『かわいいもの』は『いらない』と、渡してくるようになったのは……。
「あのね祐介。テディ、返してもらったから」
これからはふたりのぬいぐるみだよ。あやめはそう言おうとして、ぎゅっと口を閉ざした。
リュックがあいていて、テディがいなかったからだ。
暗くなるまで探したが、テディはこの日、見つからなかった。
◇◇◇
翌日の日曜日。あやめは、朝からテディを探しにいくことにした。白いセーターにチェック柄のズボンをはいて、髪をひとつにまとめていると、祐介がやってきた。
「なんだか地味だよ。コサージュでもつけたら?」
祐介はどうも、プレゼントしたものをつけてほしいようだ。
あやめは、おしゃれする気分ではなかったが、祐介の言うとおりにした。セーターの胸元に、ヒイラギのコサージュをつける。とがったヒイラギを合わせると、白いセーターは雪野原のように見えた。
「いい感じだよ」
「ありがと。じゃあわたし、テディを探しに行ってくるね」
「おれも行くよ。ねえちゃんだけじゃ心配だ」
「そう。いいわよ」
あやめは祐介の手をひいて、家を出た。
家から神社までの道を、くまなく探したが、テディはいなかった。
「テディ」と呼んでも出てこない。
昼にさしかかろうというころ。あやめと祐介は、昨日の公園でひとやすみすることにした。あやめはブランコに座った。鎖の冷たさが、手袋をとおして伝わってくる。
「いったい、どこにいるんだろう」
「ねえちゃん、ほかに心あたりは?」
「心あたり……」
テディは動ける。リュックから落としても、自分で帰ってくるはず。それにリュックから落ちたらすぐ「アヤメ」と、呼んでくれそうだ。
テディは自分から、去っていったのではないだろうか?
あやめはブランコを揺らしながら、昨日のことをよく思い返してみた。
ムカシノコト、オモイダシテキタ――。
テディがいなくなる前に話していたことが、気になりだした。
「よう、祐介」
横から、男の子の声。見ると公園の入り口に、あやめの知らない男の子が、ふたり並んでいた。体の大きい男の子と、小柄な男の子。
体の大きい子はリュックを背おっていて、小柄な子は、おもちゃの入った紙袋を持っている。ふたりとも、お菓子を歩き食いしている。
そして体の大きい子の首には、ひもにつながれた黒い石のかけらが、かかっていた。
「祐介。休みの日は、女と遊んでるのか?」
こわばった祐介の横顔を見て、あやめはブランコを止めた。
「わたしは祐介の姉よ。今は、探し物を手伝わせているの」
男の子たちはにやにやしている。
「この子たち、クラスメイト?」
聞くと、祐介は小さくうなずいた。
あやめは体の大きい子の首にかかっている、黒い石のかけらを、じっと見つめた。見おぼえがある。
体の大きい子がアメ玉を食べながら、祐介に近づいた。小柄な子もついてくる。あやめはブランコから降りた。
「今日はいいけど、またな」
祐介の耳元でそう言うと、男の子たちは笑って公園を出ていった。
あやめは男の子ふたりから目を離さず、祐介の横に立った。
「祐介。あの子たちと、なにかあった?」
祐介はか細い声で答えた。
「一度だけ……お金、渡した」
「そう」
あやめは去っていくふたりに向かって、大きな声を出した。
「そこのばかな四年生! こっちに来なさい!」
男の子ふたりは、すぐに戻ってきた。
「だれがばかだ。上級生だからって、女が調子のるな」
「ばかは嫌? だったら、どろぼうって呼ぼうか?」
あやめが鼻で笑う。体の大きい子が、あやめの胸ぐらをつかんだ。小柄な子は、後ろから祐介をつかまえた。
「たくさん買い物しちゃって。どろぼうしたお金を使ったんでしょう」
「言いがかりだ!」
「ねえちゃ――」
「祐介はだまってて」
あやめは黒い石をぶらさげた体の大きい子を、ひややかににらんだ。
「今すぐ、神社から盗んだ物を返して。あと祐介のお金も返して。二度とこんなことしないのなら……そうすれば、親と警察には、言わないであげる」
「………」
「あんたたちでしょう。神社のおさい銭、盗んだの……」
体の大きい子と小柄な子が、顔を見合わせた。
「証拠がない。お金に名前は書いてませんよ」
小柄な子が口をとがらせた。
「そうね。お金には名前を書いてない。でも、そのぶらさげているもの」
あやめは黒い石を、指さした。
「それは神社に行けば、たぶん……」
あやめがなにか言おうとした、その時。
ひゅっと、そばで風を切る音がして、次に地響きがした。
体の大きい子があやめから手を離して、片耳をおさえた。
みんなはいっせいに地響きしたほうを見た。
金属バットと小さなクマのぬいぐるみが、ごろりと、転がっている。
クマのぬいぐるみは両手をついて立ち上がると、金属バットを持った。小さな体で金属バットをひきずって、こちらに近づいてくる。
テディだった。
◇◇◇
ずるずる。ずるずる。
金属バットを土の上でひきずりながら、テディは体の大きい子に近づいた。テディの青い両目に、おびえた子供たちの顔が、映りこんだ。
「テディ……」
あやめは息をのんだ。
「あ、うぁ……」
体の大きい子が白い息をはいて、あとずさった。バットがかすったのか、耳からは血がにじんでいる。
「ダイジナモノ、ワスレテナカッタ。トラレテタ」
ずるずる、ぺたり。テディの長い毛が、土でよごれていく。
「カエセ」
テディは野太い声を出した。
「トッタモノ、カエセ、コゾウ」
体の大きい子はリュックをおろし、中からきんちゃく袋を取り出した。そしてそれを、テディに乱暴に投げた。
それが盗まれたさい銭だと、あやめは気づいた。
テディは地面に落ちたきんちゃく袋をまたいで、男の子にまた一歩、近づいた。
「マダダ。カエセ」
テディは軽く身をかがめると、バッタのようにとび上がった。子供たちの頭をこえるほど高くとび、体の大きい子の足に体当たりをした。テディが金属バットごとぶつかったので、体の大きい子はうめいてうずくまった。すがるような目で、あやめを見る。
「た、たすけ……」
あやめはさけんだ。
「首にかかっているものを返しなさい。……それ、神社から盗んだ、鬼瓦のかけらでしょう!」
体の大きい子は首にかかった黒い石――鬼瓦のかけらを、テディに投げた。そして振り向かずに、逃げていった。
「ツノ」
テディは地面に落ちた、鬼瓦のかけらを見つめた。そして今度は、小柄な子へと、勢いよくふり向いた。
「マダタリナイ」
小柄な子がひ、と短い悲鳴をあげた。
「もうやめて!」
あやめはテディにかけよろうとした。
「ヨルナ」
あやめが近づくと、テディは後ろにとんで、大きく離れた。
小柄な子は、祐介をテディの方に押しやり、ブランコの裏へ逃げた。テディは小柄な子を追った。
あやめは祐介にかけよった。
「祐介!」
「ねえちゃん。なんだかおかしいよ」
祐介はふるえる手でめがねをかけ直し、テディたちを見た。
テディは野太い声でおどしているものの、男の子に近づこうとしなかった。小柄な子は、ブランコの裏で泣いている。
「テディは近づかない。ううん、近づけないみたい……」
あやめはブランコの裏で泣いている子と、その足元を見た。ヨモギが生えている。あやめは自分の胸元にある、クリスマス用のコサージュに手をやった。ヒイラギの葉がちくりと、ささった。
ヨモギとヒイラギ。それらの葉と神社の鬼瓦が、あやめの中で重なった。
「……祐介、ヨモギのそばに行きなさい。そうすればテディは来ない」
「ねえちゃん?」
「鬼は、ヨモギが火に見えて、怖がるから」
「テディが……鬼だって言うの?」
あやめは胸元にあるヒイラギの葉をにぎると、テディに近づいた。するとテディはまた、あやめから離れた。ヒイラギもヨモギと同じように、鬼が怖がる植物だった。葉のとげが、目にささるようで。
祐介はあやめの背中にかくれて、すべり台の下のヨモギへと走った。
あやめはテディににじりよりながら、小柄な子にさけんだ。
「あんたも持っているんでしょう――神社から盗んだものを。それを置いて、さっさと行って!」
小柄な子は泣きながら、ポケットから小銭とおさつ、そして黒い石……鬼瓦のかけらを取り出すと、テディに向かって投げた。おもちゃの入った紙袋も置いて、逃げていった。
「キバ」
青い目が、日光でぎらりと輝いた。テディは獲物をとらえる虫のようにすばやく、鬼瓦のかけらをつかんだ。
「テディは、鬼になったんだね」
祐介は金属バットを持ったままの、テディを見た。
テディは無表情のまま、太く響く声を出した。
「テディ、タダノニンギョウ。……オレガ、タツマキニマケテ、ヨワッテイルトキ。チカクニイタコイツニ、ノリウツッタ」
テディの体からゆらりと、黒い煙のようなものが出る。
「ソノカイガアッタ。ダイジナ、ツノトキバ、トリモドセタ」
「じゃあ……もう用はすんだじゃないか。……テディから、出ていけ」
祐介はヨモギのしげみから立ち上がり、テディに近づいた。
「テディはおれとねえちゃんの、大事なぬいぐるみだ。……それに、鬼にクマのぬいぐるみは、似合わないよ」
祐介は肩をいからせた。
「怒り顔、笑った顔、泣き顔……鬼はいつだって、はげしい顔を表現されてきたんだ。見る人まかせの、無表情のぬいぐるみなんて。気に入らないんじゃないの……」
「オイ、アヤメ」
テディがぐるんと首を回して、あやめを見た。バットは祐介に向けた。
「ネガイゴト、カナエテヤロウカ?」
「……え」
「アヤメ、オトウト、ネタンデタ。ココロデネガッテタ……」
「やめて。言わないで!」
「ユウスケ、ツブレロ」
テディはバットをふりあげると、祐介にとびかかった。あやめは目をつぶって耳をふさぎ、かん高い声でさけんだ。
「やめてやめて! 祐介に何もしないで! わたし、本気じゃなかった。ただわたしもちゃんと、見てもらいたかっただけなの……!」
「……ねえちゃん」
祐介の声が聞こえたので、あやめはうすく目を開けた。
バットは、祐介に当たっていなかった。かすったのか、めがねだけが地面に落ちていた。
あやめは祐介が無事だとわかると、その場にへたりこみ、わあわあと泣いた。
「わかってるよ。ねえちゃんには、いろいろな部分があるんだ」
祐介はあやめと、自分の後ろにあるヨモギを見た。枯れてむしばまれながらも、冬を超えようとしているヨモギを。
「……アヤメノ、ネタミノココロニ、ヨバレタ。ネタミ、ヒトノココロノ、オニ」
テディがバットを置いた。ベージュ色の毛のすきまから、黒い煙が出てくる。
「イタズラモオワリダ。カエル」
黒い煙がテディの体から、勢いよく噴き出した。煙からは、豪快な笑い声が聞こえてくる。テディの体はどさりと、地面に転がった。
黒い煙はテディを包み、その小さな体を浮かせた。そして泣いているあやめと、祐介の頭上へ、ゆっくり持ってきた。
ふたりが手をのばすと、テディの体はすとんと、そこに落ちてきた。煙はひときわけたたましく笑い、空に消えていった。
鬼瓦のかけらも、もう公園からなくなっていた。
師走が過ぎて、年が明けて、二月になり。
立春を過ぎたころ。修理がすすんでいると聞いたので、あやめは祐介と、ぬいぐるみのテディをつれて、神社に行った。
本殿の屋根には、ツノもキバも元通りになった、鬼瓦がいた。高いところからにらみをきかせている。
怒り顔の魔除けの鬼瓦が、あやめには、笑っているように見えた。