白の上
はじめて見た久美子の裸の体は、まだ充分に若さを残しており、潤いのある白い肌と反応が、僕を強く誘った。けれども僕は結局、久美子と最後まで交わることができなかった。僕の男の部分は、終始力なくうなだれたままだった。
久美子はベッドの上で僕を見つめながら、右手で僕の髪の毛をゆっくりと撫でた。
「ごめん、君のせいじゃないんだ」
僕がそう言うと、久美子は首を小さく横に振って「いいのよ」と言った。
「前の奥さんのこと、忘れられないの?」
久美子の目には、嫉妬や疑いの色はなかった。久美子はまるで透明の器のように、僕の答えを待っていた。
「いや、そういうんじゃない。僕が愛してるのは、今は君だけだ。だけど」
僕は脳裏に焼き付いた、知らない男に抱かれている妻の姿を思い出した。僕以外には決して見せないと思っていた顔で、妻は男の体に両腕を回していた。二十年以上も愛し、同じだけ愛されていると思い込んでいた妻だった。その衝撃は、僕の頭よりも、この体に強く焼きつけれられているようだった。
「僕は、君を抱けないかもしれない」
僕は頭を撫でていた久美子の手に、自分の手のひらを重ねて、胸元に持ってきて言った。
「君はそれでも、僕と結婚するというかい?」
久美子は右手の指を僕の指に絡ませながら、ええ、と答えた。
「だって、こんなにもあたたかいもの」
久美子が眠ると、僕は目を閉じて、静寂の中に久美子のかすかな寝息を聞いていた。
僕の父は、一代でそれなりに財をつくった人だったが、僕が離婚した直後に父も母も、立て続けに病気で死んでしまった。それから僕は勤めていた会社を辞めて、しばらくは広い屋敷で気ままに趣味の絵を描いて過ごすことにした。屋敷は山奥のやや辺鄙な所にあって、僕は週に一度、車で町に食べ物や生活用品を買いに出かけた。そのついでに、小さな絵の個展を見つけて立ち寄った際に出会ったのが、久美子だった。
久美子は三十六で、僕より十歳も若く、結婚の経験はなかった。久美子は子供向けの絵画教室で教えて生計を立てながら、今回やっとはじめて個展を開いたのだと言った。久美子は風景画家で、二十枚ほどの絵の中に、僕が住んでいる屋敷の絵があった。久美子の母と僕の母に交流があり、一度連れられて行った際に、屋敷をスケッチして描いたものだという。僕は自分のことを伝え、絵の指導を久美子に頼んでみた。久美子ははじめ渋っていたが、僕が強く頼むと、ついには折れて了承してくれた。
僕は週に一度、絵画教室の部屋に久美子と二人きりで、絵の指導を受けるようになった。そして描きかけの絵と食べ物で車をいっぱいにして屋敷に帰り、絵を完成させてはそれを持って翌週久美子の元に向かう、という生活をしばらく続けた。
やがて絵の指導以外にも、食事に行ったりどこかへ遊びに行ったりする回数が増えていった。屋敷にも何度か久美子を招待して、二人で絵を描いたりした。そして久美子が五度目に屋敷を訪れた日、その夜に、僕は久美子とはじめて裸で抱き合ったのだ。
久美子と結婚してから、僕は会社の元上司に誘われて人の足りていなかった部署に復職し、久美子は屋敷に住んで絵を描くようになった。僕は仕事から帰って、抱きしめた久美子の体からほのかな油絵具の匂いをかぐのが好きだった。思いの他仕事は忙しく、僕は次第に絵を描かなくなり、久美子は二回目の個展を開いた。
ある夜、仕事から帰って久美子と夕食を済ませた僕は、少し探し物をしていて、普段全く使っていない客人用の部屋のドアを開けた。電気をつけて部屋を見渡したが目的のものはなく、スイッチに再び手をかけた時、壁際に裏向きのキャンバスと、たたまれた木製のキャンバス立てがあるのに気付いた。恐らく久美子のものだろうが、アトリエとして使っている部屋は一階にある。僕は気になって、キャンバスを手に取りひっくり返してみた。
キャンバスには、ベッドに横たわる女の絵が描かれていた。絵はまだ荒い下書きの線の上に、絵の具が少しのった程度のものだった。女はベッドの中央でやや斜めに寝そべっており、首から上はベッドの縁からはみ出していた。女は首を持ち上げて、自分の腰の辺りを見ている。その筆の流れが久美子のものであり、そして描かれている女が久美子自身であることは、完成には程遠い段階の絵からでも、僕には分かった。
そして絵の中で久美子が広げた股のところで、男を描いたと思わしき下書きの線が消されている形跡があった。その男が僕なのか、それとも僕の知らない男であるのか、僕には分からなかった。
あの夜以来、僕は久美子を何度か抱こうとしたが、結果は同じだった。僕はそのたび久美子に謝ったが、久美子は僕の胸に口づけながら「わたし、幸せよ」と言ってただほほ笑んだ。
僕はすでに、信じていたものが嘘になってしまう瞬間を知ってしまっていた。僕はキャンバスをそのままに、電気を消して部屋から出た。
深夜、僕は久美子と共にベッドに入ったが、眠れないまま、窓から差し込む月の光に浮かび上がった久美子の寝顔を眺めていた。そして僕は、これまで僕に向けられた久美子の表情や言葉が、全部嘘であることを考えてみた。もしかすると久美子は、僕の相続した父の遺産のために、僕と結婚したのかもしれない。久美子は画家として決して成功しているとはいえず、生活に余裕はなく、歳も三十六になっていた。そんな久美子の目に僕がどう映ったのかを考えると、僕は久美子を責める気にはなれなかった。僕はすでに、久美子を愛してしまっていた。
久美子は最初から、僕のことを愛してなどいなかったかもしれない。しかし僕はこの絵に、それとはまた別の久美子の苛立ちが込められているかもしれないと感じていた。
妻は僕がいながら、他の男に抱かれることを望んだ。男が本能によって好きでもない女を抱きたいと思うように、妻が男を求めたというならば、久美子はそれと同じ感情を、このキャンバスにぶつけているのではないか。僕のいない屋敷のあの部屋で、男として役に立たない僕への感情を、恐らく誰にも見せないつもりで、静かに絵にしているのではないだろうか。僕はこの上なく情けない気持ちになって、そして隣に寝ている女が僕の何なのか、分からなくなってしまった。
その時、久美子がゆっくりと目を開いた。久美子は目をこすりながら「眠れないの?」と言った。
「久美子」
僕は久美子の名を呼んだ。
久美子は少し首をかしげてから、僕の目を見た。そして僕を抱き寄せ、軽く口づけした。
「言いたいことがあるんでしょう。言ってみて」
僕は意を決して、ベッドから起き出すと、久美子の手を引いてあの部屋に向かった。
電気をつけて振り返ると、久美子は少し驚いた顔をして、僕の手を強く握りながら言った。
「ごめんなさい。隠すつもりはなかったのよ。だけど」
「久美子」
僕は久美子の言葉を遮って言った。
「僕のことを愛していなくてもいい。それはいいんだよ、久美子。でも、ただ一つ、お願いだ。どうか僕には、本当のことを言って欲しい。本当のことを。僕は傷つくかもしれない。でも僕はもう、嘘で傷つくことだけは嫌なんだ」
僕は自分の目から、涙が流れているのに気付いた。息は苦しくないのに、まるで手のひらから砂が零れ落ちてゆくように、絶え間なく涙が頬を伝っていた。
久美子は僕の頭をそっと胸に抱き寄せると、耳元で優しく言った。
「愛しているわ。私はあなたを愛してるし、あなたと出会ってからずっと幸せなの。本当よ」
だけどあの絵は、と言おうとしたが、声は喉を力なく通り過ぎるだけで、勢いを増した涙が、さらに久美子の服を濡らすだけだった。
「でもあの絵は、どうしても描かずにはいられなかったの。どうしても」
久美子のその言葉を聞き、僕が声を上げて泣こうとすると、久美子が両腕に力を込めて、僕の顔をより強く胸に押し付けた。久美子は言葉を続けた。
「あなたが私を抱けなくても、それでも私は幸せだけど、だからこそああやってあなたと愛し合えたら、どんなに胸がいっぱいになるだろうって、考えただけで張り裂けそうな気持ちになるの。あの絵の男はあなたよ。私は、あなたに抱かれたいの」
久美子が腕を緩めて、僕は顔を上げた。久美子は微笑んでいた。僕は心の底から、久美子を抱きたいと思った。僕は部屋のベッドが、真新しいシーツで覆われているのに気付いた。使われないこの部屋のベッドには、普段シーツはかけられていないはずだった。久美子はベッドにシーツを敷いて、まさにその上で交わる僕たちを思い描きながら、それをキャンバスに現していたのだ。
僕はそのベッドに、今すぐ久美子を押し倒そうかと思った。しかしそれでも、僕は久美子と最後まで交わることのできないであろうことを、僕の体が教えてくれた。
「なぜ君は、僕を一度描いて消したんだい?」
僕は久美子に尋ねた。僕は落ち着いていて、涙も流れてはいなかった。
久美子は楽しそうに笑って答えた。
「一度じゃないわ。何度も描こうとしたのよ。でも、描けなかった。私を抱いてるあなたを、私は知らないもの」
僕は絵の中の、ベッドの縁から頭をはみ出させた久美子の姿を思い出した。絵はまだまだ輪郭ばかりで、久美子が何を見つめて、どんな表情をしているのか、僕は想像できず、そして知りたくなった。
僕は久美子から離れて、キャンバスの前に立った。久美子は部屋の花瓶の影から、魔法のように一本のクロッキーを取り出すと、僕の右手を取って、手のひらにそれを乗せた。
僕は黙って絵だけを見つめて、そこに久美子と交わる僕の姿を描きはじめた。
僕は夜ごと、少しずつ絵の中に自らの肉体を描き加えていった。絵の中の久美子の体も、僕が仕事でいない昼間の間に、同じだけの量の肉と肌を与えられていった。構図などを考える必要はなかった。そこに久美子がいるのだ。僕はただ、そこにいる久美子を抱けばよかった。僕も久美子も、人の裸の体を絵に描くことはほとんどなかったが、それもこの絵には関係がなかった。物体を目で見て、キャンバスに描くのではない。筆によって、僕と久美子はキャンバスの中で交わるのだ。
一週間、二週間と経つ内、交わりはより克明になっていった。僕の両腕は久美子の体をベッドに強く押し付け、久美子の足の指はシーツを強く握りしめていた。
しかし、二人の表情は共に、漠然としたままだった。目があり、鼻があり、口もあった。でもそれは、あくまで位置に過ぎなかった。それに、僕と久美子が繋がっているまさにその部分も、いまだ空白のままだった。
やがて、その時は来た。僕は漠然と空白の二点を除いて、自分の体も、またベッドのシーツにさえ、どこにもそれ以上描き加える箇所を見出すことができなくなっていた。それは僕の目から見て、久美子の体も同じだった。
僕が筆とパレットを手に呆然と立ち尽くしていると、部屋のドアが開いて、久美子が入って来た。はじめの夜以来、この絵を描いているときに、久美子がこの部屋に入って来ることは一度もなかった。
久美子は僕に歩み寄って、絵をじっと見つめてから、僕の方を向いて小さく頷いた。その瞬間、僕には全てが分かった気がした。
僕は筆の先に絵の具をつけると、ゆっくりと久美子の中に入っていった。僕のものは血管が浮き出、力強く隆起していた。久美子の脚に遮られ、繋がっている部分を見ることはできない。でも僕には、そして久美子には、僕がしっかりと久美子の中に入っていることが分かった。
突然、久美子が僕から筆とパレットをひったくると、自らの顔を描きはじめた。露わになった久美子の顔は、眉はぎゅっと持ちあがり、薄く開かれた唇からは、細く甘い吐息が漏れていた。今にも閉じてしまいそうな久美子の目の光は、二人の繋がっている部分へと真っすぐに向かっていた。
僕は新しい筆を取り出すと、久美子からパレットを奪い、自らの顔に筆を下ろした。僕の表情は意外にも、まるで激怒しているかのように荒々しいものだった。久美子とは対照的に、顔じゅうの筋肉が力み、歯を食いしばって、爛々とした眼光で久美子をねめつけていた。
僕と久美子は、無我夢中でパレットを奪い合って、絵の中に自らを完成させていった。そしてそれが出来上がった瞬間、僕と久美子は筆とパレットを放り投げ、勢いよくベッドに倒れ込んだ。
僕は、我を忘れて久美子を抱いた。経験したことのないような激しい口づけを交わし、背骨のきしむ音が聞こえるぐらい強く抱きしめ合った。全てが絵と同じだった。僕は隆起したものをもって、獣のように久美子を抱いていた。驚くことに、久美子は処女だった。しかし僕には、そのことについて気を配る余裕はなかった。久美子の体から、痛みよりも喜びが奥底より噴き出しているのを、僕は感じていた。
やがて僕が果てると、久美子は全身の力を抜いて、首をだらりとベッドの縁から垂らし、深く息を吐いた。
「君は、こうなることを知っていたのかい?」
僕の伸ばした右腕に頭を乗せ、静かに呼吸している久美子に向かって、僕は尋ねた。久美子の頭の向こうに、キャンバスの裏地がぼんやり見えていた。
「いいえ。私はただ、夢中だっただけよ。あなたに夢中だったし、あの絵にも、さっきあなたに抱かれている間も、ずっと。それだけなの」
「あんな絵は、もう描けないだろうね。僕も、君も」
僕はただ、思っていることを口にしていた。
「ええ、そうでしょうね。でも」
「でも?」
僕が呼びかけた時には、久美子の瞼と唇はすでにぴったり閉ざされていて、鼻から漏れる寝息が、久美子の髪をかすかに揺らしていた。
僕は目を閉じると、久美子と同じ眠りに身を任せた。




