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侑記





 視界が霞んでいる。


 大きく息を吸うと、自分の呼吸音が耳元で唸る。


 寝ていた、というのが理解できるまでに少しかかった。頭が上手く回らない。そのままの体勢で腕を伸ばすと、反動で身体のあちこちが軋んだ。その痛さに呻きながらゆっくりと上体を起こし、大きく息を吐く。


 見慣れた会議室。ふだん使っている仕事場と同じ階だが、位置としては真反対の場所にあたる。ここは主に捜査情報の開示や捜査方針の決定をする時に使用されている場所だ。逆をいえば、それ以外の用事で使用することはほとんどない。用事がなければ、わざわざここまで来る奴はそういない。隠そうともしない周囲の視線から逃れるには最適な場所だった。冷房も自分で調節できる分、環境としても中々良い。


 後頭部をがりがりと掻く。寝ぐせのついた髪の感触が手の平から伝わってきた。


 目の前のプラスチックの長机には捜査資料が山と積まれている。自分の汚い字で書き込みされたコピー用紙。ファイルの類。そこら中に転がる空き缶。


 自分の袖口を見ると、赤ボールペンのインクがこびりついていた。洗濯が面倒だ。


 ガチャリ、と会議室の扉が開いた。顔を覗かせたのは、やはり部下だ。


「あ、寺尾さん。おはようござ、い、ます」


「あぁお前か。早いな」


 部下が何か言いたげな顔をしている。


「……………なんだ」


「い、いえ。別に」


「そうか」


「…………………………起き抜けのクマ」


「何か言ったか」


 ぼそっと言った部下の声が聞こえず単純に聞き返しただけなのだが、彼本人はちぎれんばかりに首を振る。何を言ったか問い詰めてみたいが、生憎今そんな気力は無い。


「また調べものですか?」


「あぁ。起きたら朝だった」


「もう十一時半です」


 寺尾さん、と盛大なため息をつく部下。


「応援要請のせいで手一杯だったのは申し訳ないと思ってますけど、寺尾さんが徹夜することないじゃないですか。いつか倒れますよ」


「へいへい」


 部下の気遣いに軽い返事を返す。たしかにここ数日あまり眠らない日が続いていた。転がっている空き缶は全て、眠気対策のコーヒーと栄養ドリンクだ。


 椅子から腰を浮かせながら、散らかった資料を片手で掴む。学生の頃はよく徹夜していたが、三十路過ぎてからは徹夜なんかするもんじゃない。そのことが身に染みて実感できた夜だった。乾いた眼と凝った肩。睡魔がずるずると頭の中で尾を引く。関節が何ヶ所か悲鳴をあげている。


「悪いが車のキーを貸してくれ。少し休みたい」


「むしろ寝てください。自分、やることやってから向かいますから。眠気覚ましの飲み物とか買わずにちゃんと寝ていてくださいね」


「おふくろか、お前は」


「寺尾さんがちゃんとしないからです」


 わざとらしくむすっとしながらも、どうぞ、と部下が鍵を握らせてくる。その時彼が反対の手に何かを握っているのが見えた。


「それ、何だ」


 指差すと、部下は困ったように笑い、手に握っていたものを目の高さまで掲げる。


 一本の缶コーヒー。加えて、俺の好みの銘柄だった。


「寺尾さん確かこのコーヒー好きでしたよね。寝起きの一杯にどうかなー、と思ったんですけど。今は飲まない方がいいですね」


「いや、すまん。もらっておく」


「ダメですよ。絶対飲むじゃないですか。熟睡できませんよ」


「仮眠なんだ。いいからくれ。もらえるものはもらう。気にするな」


「気にしますよっ。目が輝いてるじゃないですかっ。ちゃんと置いときますからっ」


 缶コーヒーに伸びる俺の腕を必死にかわしながら部下が喚く。捜査資料と共に机の上に並べられた缶コーヒーはどれも、すぐそこの自販機で売っているものだ。眠気対策には良いが、味があまり好きではない。対して部下が買ってきた方は、値段が高い代わりに味が良い。久々の好物は逃したくない。


 そこまで考えて何かが引っ掛かった。腕を思い切り遠ざけて抵抗している部下に尋ねる。


「お前、よく俺の好きな銘柄が分かったな」


「このまえ教えてもらいましたよ。お前が買ってきた奴は苦くて嫌いなんだ、って」


「俺は記憶にないが」


「え、そんなはず……、あっ」


 気を抜いた彼の隙を突いて奪取。呆れ顔の部下。


「もう、分かりましたよ。せめて仮眠の後に飲んでくださいね。絶対ですよ」


「あぁ」


「何か引き継ぐものとかありますか?」


「大方はやっておいた。前回のコピー用紙に目を通しておくだけでいい」


「了解です」


 寝ててくださいよ、と釘を刺す部下に適当に相槌を打ち、会議室を後にする。


 いつもと変わらない廊下を、部下のおかげで余分に上乗せされた疲れと共に歩いていく。


 すれ違う他部署の連中が今の俺のありさまを見て一瞬ぎょっと目を剥いたが、俺だと分かった途端に苦虫をつぶしたような表情を浮かべた。ただの自殺案件に未だにこだわっているのだから、当然の反応と言えばそうなのだが。


 彼らと視線を交えず、ただぼんやりと廊下の先を見つめる。


 白田侑季が死んで約一ヵ月が過ぎた。


 その期間はもちろん「連関作品」に費やしてきた期間でもある。


 目に見える収獲があったかと言えばそんなことはなく、単に聞き込みとコピー用紙の回収を続けただけの虚しい時間だった。言葉にすると短い「一ヵ月」がとても長く感じられた。


 どこで止まるか分からない「作品」という名のコピー用紙を追いかけ、結局やめられずにだらだらとここまで来てしまった気がする。実際そうだ。


 だが、中身はあったと思っている。


 部下が今回の応援要請で出払っていた六日間、これまでの聴取の内容とコピー用紙についてまとめていた。時間をかけた分、頭の整理は大体できた。


 白田本人の性格。人柄。予測方法。


 聴取した人物たちの発言。その時の彼らの行動。


 残った不可解な点の洗い出し。


 考え出した幾つかの仮説。


 絡まっていたものが少しずつほどけ、ようやく一つ一つをしっかりと考え込めるようになってきた。


 自動ドアをくぐると陽光が目を突いた。夜間に睡眠をとらないだけで、こうも光がまぶしく感じられるものなのか。


 駐車場に止めてあった部下の車に乗り込む。缶コーヒーをドリンクホルダーに突っ込んでから座席に体を預けると、疲れがどっと押し寄せた。筋肉の弛緩する感覚が心地よい。


 眠気に身を浸そうとしたところで、やらなければいけないことを思い出した。気が重いが仕方がない。睡魔を引きはがし、胸ポケットの携帯電話に手を伸ばす。


 今では少しだけ珍しくなった二つ折りの携帯。短縮ダイヤルの設定はまだ残っていた。


 「2」のボタンを長押し。急な案件が入っていなければ、コールは一回。


 この電話口の向こうに頭を下げる日は、もう来ないものだと思っていた。







 バタン、という音で意識が覚める。


 運転席側を見ると部下が車に乗り込み、エンジンをかけていた。こちらにちらりと視線を送った部下の顔が心なしか険しい。その顔のまま彼は後部座席へ手を伸ばした。ビニール袋を漁っているのか。ガサガサという音の後、スポーツドリンクを一本こちらに渡してきた。


「寺尾さん。もう九月半ばですけどまだ気温は高めなんです。車のエアコンも付けずに寝たら、熱中症になりますよ」


 そう言いながら部下がエアコンのつまみを最大まで捻る。ようやく自分が汗をかいていることに気が付いた。水分を吸収した重たいカッターシャツ。濡れた布地が肌に張り付く不快感。


「悪い」


 有難く受け取る間にも部下の注意は続く。


「今日は昼間でもそんなに高くならないみたいですけど、下手したら脱水症状です。捜査どころじゃないんですよ。疲れと眠気で、エアコンに気が回らなかったのかもですけど。水分摂ったら、もう少し横になっててくださいね」


「すまん」


 素直に告げると、部下もようやく肩の力を抜いた。


「……大丈夫ですか」


「あぁ」


 実際、目の奥の疲れは少しばかりとれたようだ。スポーツドリンクを口に含む。左手首に嵌めた腕時計は一時間と少しが経ったことを知らせていた。


「いくらか体力も戻ったしな」


 その言葉に部下がようやく苦笑いを浮かべる。車がゆっくりと発進し出した。勢いよく噴き出すエアコンの風が汗を乾かしていく。


「本当なら、七時間ぐらいは寝てほしいんですけど」


「そんな余裕があればいいんだがな」


「ですよね」


 そのまま車を走らせながら、部下が質問してきた。


「前回三原さんから預かったコピー用紙ですが、あの末尾に書かれた一節は『ごんぎつね』の書き出しなんですよね」


「まず間違いないだろうな」


 文末に書かれてきたこれまでの一節はすべて、かなり有名な小説や文学作品から引用してきたものだった。今回も例外ではないだろうと踏んで、印字してあった一節をインターネットの検索欄に打ち込んで調べたところ、案の定一発で判明した。


 ですが、と部下がハンドルを握ったまま、器用に左の人差し指を立てる。


「おかしな点が一ヵ所ありますよね。なぜ今回のコピー用紙にはヒントが書かれていないんでしょうか」


「あぁ、問題はそこだ」


 これまでの「連関作品」では「蜘蛛の糸」を模した糸や「檸檬」の書かれた絵について、きっちりと文面に提示されていた。男子大学生は「武林」教授の名前を口にし、教授も「嘘をつく子供」と関連させて白田遥希について語っていた。その台詞も文面に記述してあった。


 だが、今回は違う。


 三原から預かった用紙には「ごんぎつね」の一節は書かれているものの、それに関係したヒントが綴られていない。


 念のため「ごんぎつね」の話を最初から読み、キーワードとなりそうな単語を拾い上げ、コピー用紙とつきあわせてみた。だがやはり次の場所を暗示するような単語は書かれていなかった。


「自分たちが見落としているんでしょうか」


「その可能性は低いだろう。これまでのものは割と簡単だった。いきなり難解なものに変える必要がない」


「それじゃあ、ヒントを書くのを忘れた、とか?」


 あえてそれには返答しなかった。もし本当にそうなら、お手上げとしか言いようがない。そもそも、ここまで驚異的なまでの構想と予測を練っていた白田が、突然ヒントの提示を忘れるような単純な手違いを犯すとも思えなかった。三原から「ごんぎつね」の本が見つかった、との連絡も無い。


 ここまで周到な予測をしてきた白田。


 自身の家族や周囲の者を巻き込んでまで「作品」を作り上げてきた白田。


 いや、違うな。


 不意に、そう感じた。


 「白田」にも予測できていないことが、今起こり始めている。


 その表れは弟の遥希であり。三原の友人のミオであり。


 現在の状況そのものである。


「あの、どうしますか。一応いま運転してはいますが……」


 ハンドルを切りながら部下が苦笑する。車を出してみたものの行き先が無いことに内心困っているのだろう。思考を解いて車外を見ると、さっきから同じ場所をぐるぐると回っているようだった。


 部下が思いついたように尋ねてくる。


「そういえば、寺尾さんって白田の自宅に入りました?」


「お前と行っただろう、白田遥希に会いに」


「あっ、そっちじゃないです」


 部下が慌てて訂正する。


「白田個人のアパートの方です」


 一瞬、彼が何を言ったのか分からなかった。


 突然の情報に頭が付いて行かない。理解しようとするほど疑問が一気に膨らんでいった。不安定だった仮定がさらに揺らぐ。


「ちょっと待て。何の話だ」


「白田は大学への進学を期に、独り暮らしを始めていたみたいなんです。それで大学近くのアパートを借りていました。もちろん親御さんも了承してたみたいですけど」


 そこまで喋って、部下が苦笑する。


「寺尾さん、やっぱりアパート行けてないんですね」


「…………捜査資料の方には書いてなかったはずだが」


「あぁ、それはですね。一応鑑識も呼んで部屋の中を調べたんですが、特に変わった点は見当たらなくて。単なる自殺なので仕方ないんですけどね。だから、資料の方には一文だけしか書かれていなかったと思います」


 そう言われて入念に思い返してみると、確かに「白田侑季の部屋に於いて、特筆すべき点は無し」とかなんとかは書かれていた気がする。てっきり白田の実家の話だと思っていた。


 だが、それだけではない。不可解な点はまだ残っている。


「あと二つ聞かせてくれ」


「寺尾さん、その言い回し好きですよね」


「ほっとけ」


 もう一度頭の中で整理していく。


「その鑑識が入ったのはいつだ」


「たしか白田が亡くなった日の夜中です。最初に自分と寺尾さんが現場に行ったときに、現場の検証と並行してされたはずです。あの時寺尾さんは先に帰っちゃいましたけど、自分は情報収集も兼ねて行ってきました」


 確かにあの夜は先に戻った気がする。部下は一人で部屋に行っていたのか。


「もう一つ。白田の実家から大学まで、そう遠くないはずだが」


 白田本人の実家と大学は同じ市内にあり、比較的交通の便もいい。駅にして三つ分かそこらだ。わざわざ独り暮らしするほどの距離だろうか。


「そこはよく分からないんです。ただご両親の話では、白田がかなり説得したそうですよ。どうしても独り暮らしがしたい、と。経済的にもそこまで負担にならなかったために、彼らも許可したみたいです」


 もっとも、と部下が少し声を落とす。


「結果的にこんな事態になってしまったので、お二人とも、とても悔いていらっしゃいました」


 そのときのことを思い出したのか、部下の顔が一瞬翳った。


「『息子の選択は間違っているが、自分達にも非があるのだ』と」


 自然と姿勢を正した。言葉が胸に刺さる。


 当事者の言葉というのは、それ以外の者の言葉と明らかに違うのだな、と改めて実感する。伝え聞きの言葉にも彼らの苦悩が滲んでいた。


 昼を過ぎ始めた街中は音が少ない。車の窓ガラスも音を遮り、意外にも静かな街景色だった。聞こえるのは乗っている車が放つエンジン音のみ。点滅する信号。短いビルの影。照り返す光。


 気が付くと車内まで静まり返っていた。こちらまで重苦しくなっても仕方がない。


 こちらはこちらで、やるべきことをやるだけだ。


「おい」


「はい」


「とりあえず白田のアパートまで行く」


 意図を汲んだのか、部下の曇り顔が心なしか晴れる。


「了解しました。ここから二十分程度なので、また少し寝ていても大丈夫ですよ。汗もかいたでしょうし」


 いや、と首を横に振る。ドリンクホルダーに置いていたコーヒーを手に取る。車内の空気に熱せられて生温い。


 缶を手の中で転がしつつ、静かに軽く息を吸った。


「眠気はとれた。それより」


「はい?」


「お前、いつの間に白田の実家に行ったんだ」


 前方から視線を外さないまま、部下が首を傾げる。


「どういうことですか」


「白田の両親から話を聞いた、とさっき言っただろう。いつ聞いたんだ」


「あぁ、なるほど」


 それは、と苦笑いを浮かべる部下。


「ここ最近の自分、応援要請で居ないことが多かったじゃないですか。だから自分の出来る範囲でしようかな、と」


「そこまで考えすぎるな。若手の頃は色々とこき使われるんだ。気に病むな」


 それに、と言葉を続ける。


「あまり頻繁に白田の家に行かない方が良い」


「あ、そうですね。………あんまり良くは思われていないでしょうし」


 以前弟の遥希に会った時は、徹底的に拒絶された。癒えない傷を負う遺族にとって警察は、古傷を蒸し返す邪魔者だ。こちらとしても、そういうことは出来るだけ控えたい。特に今回は。


「白田家には何回行った」


「遥希くんに会った時と、その後にもう一回。もう自分は行かないと思いますが」


「なるべくそうしておけ」


 はい、と唇を引き締めた部下が不思議そうに聞いてくる。


「寺尾さん、心配してくれてるんですか?」


「だったら何だ」


「いや、あの、珍しい気がして、何だかすみませんですごめんなさい特に意味は」


「もういい」







 到着した白田のアパートは大学の目と鼻の先に位置していた。徒歩にして二、三分程度だろう。


 周囲にも、普通の住宅に溶け込むようにアパートやマンションが立ち並んでいる。時たま出入りしている人影を見るに、この辺りは学生がよく住んでいるようだ。


「ここ、かなり便利良いですね」


 不動産会社から借用した鍵を玄関扉に差し込みながら、部下がうらやましそうな声を上げる。見回してみれば確かに、近辺にはスーパーやコンビニ、大手牛丼チェーン店、薬局、郵便局、銀行もある。少し歩けば私鉄の駅があり、バスの停留所も狭い区間にいくつもあるため利用しやすい。学生が独り暮らしするには十分すぎるほどの環境だろう。


 白田が住んでいたという部屋は五階だった。アパートの廊下から見える景色もなかなか良い。手前に望める閑静な住宅街の向こうに、忙しない市の中心が垣間見える。


 白田の実家の周囲に似た、静かな光景だった。


「お前も大学の雰囲気が懐かしいんじゃないのか」


 そう返すと、部下が複雑そうな表情で振り返った。


「自分は大学行ってないんです。寺尾さんと一緒ですよ」


 そういえばそうだった。警察官採用試験の受験者の中で、高卒で受験する者が別段珍しい訳ではない。だが、給料や出世の点では大卒が有利になる部分もあるため、高卒受験者の数は決して多いとは言えない。最近は少子化の影響で大学進学者が増加しているのも理由の一つだ。


「俺が高卒者だというのはどうして分かった」


「そりゃあ、自分の上司となる人のことは少しぐらい聞いたりしますよ」


 ガチャリ、と鍵を捻った部下が恨めしそうにこちらに視線を送って来た。


「自分は寺尾さんのこと知ってるのに、寺尾さんはこっちの経歴覚えてないんですね」


 誤魔化すために、空咳を一つ。旗色が悪くなってきた。


「ほら、さっさと入るぞ」


「はぁぁい」


 玄関扉の取っ手に手を掛け、ゆっくりと手前に引く。扉の付け根が微かに軋んだ。


「言うまでもないことですが、部屋はそのままの状態で保存してあるので」


 部下の捕捉を背中で聞きながら靴を脱ぎ、部屋内の廊下へと踏み出す。


 「廊下」といっても、家族で暮らすマンションのような長い廊下ではない。キッチンスペースとも言える、短い縦長の通路のようなものだった。左手には扉が二枚、右手に簡易キッチンと冷蔵庫。通路の奥には、曇りガラスの嵌ったスライド式の引き戸。奥へ歩を進めながら左側の二枚の扉を開けると、中はそれぞれ浴室とトイレだった。


 引き戸をそっと押し開く。


 ワンルームの部屋を少しばかり眺め、軽く息を漏らした。


 細々とした物が置かれた勉強机に、白いキャスター付きの回転椅子。数冊の本とデジタル時計が置かれた、背の高いスチールラック。部屋の隅にベッド。フローリングの床。敷かれたカーペットの上の小さな簡易机。小型の掃除機。淡い水色の遮光カーテン。三十二インチのテレビ。クローゼット。それが部屋の全て。


 予想していた通り。


 色味も音も無い部屋だった。


「何度見てもシンプルな部屋ですね」


 後に続いた部下が、褒めているのか分からない感想を述べる。「シンプル」と表現しているあたりが気遣いなのだろう。言ってしまえば、殺風景にもほどがある部屋だった。


 大学生の独り暮らしならば、もう少し部屋に個人の性格が出そうなものだが、白田に関しては別だ。色々な意味で期待を裏切らないシンプルさだった。


 軽く息を吐き、両肩の力を抜く。


 自殺なのだから、鑑識のように痕跡探しをする必要はない。


 そう考えるものの、やはり染み付いた癖なのか、捜査視点で部屋を眺めてしまう自分がいる。ゴミ箱の中を確認し、家具のホコリの跡を目で追い、仕舞いには無いはずの血痕まで探す始末だ。職業病というモノは本当に恐ろしい。


 頭を振って気を取り直す。部屋を漠然と眺めてみた。


 殺風景な部屋の中で一番物が置かれているのは勉強机だった。簡易式の卓上ライト。薄いノートパソコン。本立てに支えられた教科書の類が数冊。それ以外はほとんど何も置かれていない。


 そこまで眺めて、少し引っ掛かった。カーテンを端に寄せて窓を開けている部下に尋ねる。


「パソコンは押収しなかったのか」


 その質問に部下が困ったように笑った。


「〝押収〟って言い方も変ですけど」


「……そうだな」


「鑑識の方いわく、『白田本人の指紋しか検出されず、データ改ざんの兆候も見られず、自殺の可能性も高いため、回収はしない』だそうです」


 もう一度、目の前のノートパソコンを見やる。表面に書かれたアルファベットのロゴが少し擦れているが、それほど傷も見られない。大事にしていたのだろう。


「電源は入るのか」


「もう充電は残ってないと思いますけど。あ、でも確か充電器がどこかに」


 ちょっとすいません、と部下が俺と机の間に割って入る。数ヵ所ある引き出しを開け閉めし、やがて黒いパソコン用充電器を取り出した。「この部屋に入った」と部下が言っていたことを思い出す。


 部下から渡された充電器を手近なコンセントに差し込むと、パソコン側面の橙色のランプが点灯した。五分もすれば使えるようになるだろう。


 パソコンの充電が回復するまで、机の引き出しを調べることにする。


 部下がパソコンの充電器を取り出していた一番下の引き出し。大学で使っていたものなのか、中は数多くの教科書で埋まっていた。教科書や日本文学の文献。様々なプリントやレジュメ。机の上に置かれていないところを見ると、既に使い終わった方の教材なのだろう。


 真ん中の引き出しにはパソコンの説明書と、未使用のコピー用紙の束が入っていた。厚紙に包まれたその束は半分ほど使われている。大学のレポートなどに使っていたのだろうか。


 一番上の引き出しには、レジ袋や紙袋やらが丁寧に収納されていた。近くのコンビニのもの。お土産用のもの。本屋のもの。案外几帳面な性格だったのかもしれない。


 引き出しに特に変わった点はない。視線を移すと、勉強机の横に据えられたスチールラックが目に入った。収められている分厚い数冊の本は、どれも大学で使っているような小難しそうな本ばかりだった。


 一応背表紙の題名を眺めていると、ある一冊に目がとまった。


 「完訳 グリム童話集」。


〝小さい頃に、弟によく寓話や童話集を読み聞かせていた。その時から海外文学史に興味が出始めた、と。そのような内容が書いてありました〟


 武林教授が語っていた白田侑季の思い出。


〝オレは、あいつなんか嫌いだ。誰の気持ちも考えてないお前らと一緒だ〟


 白田遥希が吐き出した兄への怒り。


 これまで聴取してきた人物達と、それに関する様々なことが思い出される。「嘘をつく子供」はイソップ寓話の為、この本に収録されてはいないはずだが。


 白田は、一体どんな気持ちでこの本を置いていたのだろうか。


 ふいにガサガサと何かを漁る音がした。引き出しを閉めながら見回すと、部下がクローゼットを確認している。


 後ろに立った気配を感じたのか、クローゼットの奥に頭を突っ込んでいた部下が腰をかがめたままこちらを振り返る。


「服の他に何かあるかと思ったんですけど、割と普通でした」


「あんまりクローゼットって感じがしないな」


「そうなんですよ」


 クローゼットと言っても、中に入ってるものは大きい段ボール箱や、季節ものの布団など、さながら押し入れのようだった。観音開きの扉を閉じながら、部下が立ちあがる。


「まぁこれだけシンプルな部屋なんだから、クローゼットの中だって綺麗なはずですよね」


 その時、急に玄関のベルが鳴った。続いて、刑事さんはいらっしゃいますか、という声が聞こえる。


「誰だ」


「あっ、多分不動産屋さんです。鍵を借りる時に、後で来ると言われたので」


 ちょっと見に行ってきます、と駆け出した部下が急に足を止める。


「寺尾さん、まだ見ていない場所ありますか?」


「あぁ。不動産屋には、もう少し待ってほしいと伝えてくれ」


「分かりました」


 そう言って、今度こそ部下は玄関へと向かった。不動産会社としても事後処理があるのだろう。警察がこの部屋の保存を一カ月近く延長しているのだ。その理由に関わっている身としては、少し気が重い。


 だがそれも、もうすぐ終わりにしなければならない。


 その為にも今は白田の部屋をしっかり見ておくことだ。


 目線を机の一点に据える。画面を開き、電源ボタンを押す。


 使い込まれたパソコンが穏やかに起動した。


 部下によって開けられた窓の向こうに、午後の風に霞む街が見えた。







 白田のアパートから再び元の会議室に戻り、捜査資料を広げていると、部下が取り乱した様子で駆け込んで来た。


「寺尾さんっ。何やったんですかっ」


「おれがやった前提で話すな」


「でも、絶対おかしいですよっ」


 乱れた息を整えるように大きく息を吸い、部下は噛み締めるように続きを言った。


「上の人たちに全く文句を言われませんでした」


「だろうな」


 呆気ない返答に、部下が何か言いたげにもがいている。


 ここの仕事場に帰った際、上に報告してくるよう部下に頼んでおいたのだ。「現場」に行くには上の許可が必要となり、またそこから戻った場合も当然報告の義務がある。面倒臭いが決まりは決まりだ。


 ただ、これまでほぼ独断で動いてきたため、今までのお咎めは数知れない。そろそろ強制的に捜査を打ち切りにすると、ついこの前に通達されたばかりだった。はずだった。


 部下がドン、と目の前の長机に手をつく。


「打ち切りどころか、あの人たち『一週間まで期間を延長する』とまで言ったんですよ。絶対おかしいです。寺尾さんが何かしたとしか思えません」


「いつもみたく、一喝されなくて良かったな。それでいいだろう」


「よくありませんっ」


 なかなか食い下がろうとする部下。最後まで聞いてやるか、と資料を広げていた手を一旦止めて腕を組み、部下に向き直る。


「何が不満なんだ」


「…………不満、じゃないです。むしろありがたいです。でも、何だか、」


「納得いかん」


「そうです。寺尾さんが何かしたんですよね。ちゃんと教えてください」


 息も荒く訴える部下。そろそろ言うか。あまり勿体ぶる事でもないし、ましてや隠し事でもない。


 頭の後ろをがりがりと掻きながら端的に言う。


「むかし世話になった上司に頭を下げたんだ」


「いつ掛け合ったんですか」


「今日車に乗り込んだ時に、電話で頼んだ」


 それを聞いても尚、部下は口を尖らせたままだ。


「その『むかし世話になった上司』の方は、上層部よりも上の人なんですか」


「詳しくは知らんが、噂じゃかなり上にいるらしい。うちの上層部にも顔が利くんだと」


「………コネですか」


「人聞き悪いこと言うな」


 部下はまだ何か言いたげな表情だが、少しは納得したようだ。それよりも、と話題を変える。


「白田の部屋に行ったが、見るべきものは無かったな」


 部下の顔を目の端で伺う。


「ですね。あっ、でもパソコンの方は」


「そっちは当たりだ」


 そう言いながら、持っていたUSBメモリを部下に差し出す。


「中に『作品』が入っていた」


 瞬時に、部下の目が真剣みを帯びたものへと変わった。


「『ごんぎつね』ですか」


「おそらくな」


 白田のパソコンの中に大したものは残っていなかった。大学の講義用に書かれたレポートがいくつかあった程度だ。が、それらに紛れる形で「作品」は見つかった。


「今から読むぞ」


「はい。あっ、パソコン持ってきますねっ」


 弾かれたように会議室を飛び出していく部下。重々しい扉がゆっくりと閉まった。廊下にこだまする彼の足音が微かに聞こえる。パソコンを置く場所を確保するため、机に散った資料と空き缶を端に寄せていく。


 ふいに、白田のアパートが思い起こされた。


 殺風景な部屋。窓から見えた街の景色。テレビ。数冊の本とスチールラック。引き出し。整理された数多くの袋。使い込まれた教科書。机。その上のパソコン。


 パソコンの中の講義用レポート。そして「ごんぎつね」。続きの「作品」。


 片付けていると、まだ中身の入っていたコーヒー缶があった。残りを一気に飲み干し、ため息を吐く。


 これまでの「作品」の元はどこにあるのだろう。


 パソコン内のどこを探しても、コピー用紙に印字されてきたこれまでの「作品」のデータが無かった。引き出しや本の中にも挟まれていない。


 印刷されているからには元のデータは存在しなくてはならない。何らかの事情でこれまで書き綴ったデータを消去する必要に迫られたのだとしても、何故今回の「ごんぎつね」のみ消去しなかったのか。その理由が見当たらない。


 自分達に見つけ出させるため意図的に残したのか。


 それとも別の理由があるのか。


 不可解な点が増えてしまった。一週間の期間延長に少しだけ安堵する。


 しかし、期間延長をさせてくれた元上司にはもう顔向けできないだろう。自分の身勝手な都合で、権力のある上司を使ったのだ。裏から圧力をかける行為は本来やってはならない。そんな頼みごとを電話一本で済ませた自分に嫌気がさす。


 電話の向こうで響いた、あの失望が滲んだ声は忘れられない。


 だが、絶対に開き直らない。


 先に進まなければ誰も報われはしない。


 再び扉の向こうで、廊下を駆ける足音が響いて来た。おそらく部下だろう。


 そろそろ終わりにするべきだ。そう感じた。


 白田を、俺を、部下を、そして、


 巻き込まれた人を。


 全て終わりにするべきだ。




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