透記
車のドアを開けた途端に外の熱気が押し寄せてきた。降りる動作のついでに、ぐっと背を反らすと、凝り固まった筋肉が程良く伸びる。最近デスクワークや外出捜査が多いせいか、体のそこかしこが痛んだ。三十代も後半に差し掛かって来たが、歳だとはまだ言いたくない。
運転席のドアを閉めた部下も同じ体勢で背筋を伸ばしていた。額には既に汗が浮かんでいる。
「ちゃんと睡眠取ってるか」
「それはこっちが言いたいです。寺尾さんこそ、仮眠すらしてないですよね」
「まあな」
そういう部下の目の下にもうっすらクマが浮かんでいる。どちらも同じくらいに疲れ切っていた。連日連夜の聞き込みと調査で精神的にもかなりきている。
助手席側のドリンクホルダーに無造作に突っ込まれた刺激の強いガムを、一つ部下に渡し、自分でも一つ噛む。突き抜ける舌の痺れとともに、目の奥の淀みが緩和されていく。息を吸う喉の熱が奪われ冷えた。
校舎の脇にある来客用の駐車場は静かだった。停車してある車は、自分たちが乗って来た車以外には一台のみ。淡いブルーをした小型の軽自動車。見た目からしておそらく中古品だ。今回事情を聴く相手が乗っているものだろうか。
奥歯でガムを噛み締めながら、目の前にそびえる校舎を見上げた。
市立本街高校。県内の高等学校の中では中堅クラスの学校だ。生徒数もそれなりで、特に目立った行事も無い。ごく普通の高校だと言える。
十数年前に建て替え工事をしたらしく、校舎にはまだ新築建材の匂いがうっすらと残っていた。少し離れたこの駐車場にもその匂いが届いている。
外観はかなり大胆に改装されていた。窓の大きさは校舎の外から見ても、通常の学校のものより倍近く大きいのが見て取れる。外壁をわざわざ打ちっぱなしのコンクリートにしている辺り、近代的な外装を目指していたのだろう。校舎の改装でこれだけ費用をかけているのは、市立にしては珍しい。
視線を上へと沿わせていく。
ここは、亡くなった白田侑季の母校だ。
車内に置いているティッシュを取り、奥歯で噛んでいたガムを出す。車内のゴミ箱に投げ入れるついでに、冷房対策として羽織っていた上着を助手席に放った。九月に入って尚熱を振り撒く陽射し。灼けたアスファルトから立ち上る陽炎。雲一つない空。どこかで喚いている蝉。滴る汗。これからの聴取を考えてネクタイを緩めることはしなかったが、いっそ第一ボタンも外してしまいたい程の暑さだった。
部下の方を向き、事務室へと続くドアを顎で示す。
「行くか」
「はい」
後を追って来た部下が改めて捕捉を入れる。
「今日の訪問については事前に連絡を通しておきました。事務員さんに言えば、手続きなしで入れるそうです」
「待ち合わせは」
えーと、と部下が手帳を確認する。
「三年三組です」
これから会うのは白田侑季の高校時代の同級生だ。高三の時にクラスメイトだったらしい。
二日前、白田遥希との一件の後に渡されるはずだった絵本が部下宛に届いた。遥希に経緯を聴いたらしい父親からだった。厚めの茶封筒の中では、硬い表紙の薄い絵本が一冊、使われた名残を漂わせていた。所々欠けたページの角。インクの掠れ具合。端々の落書き。
それをパラパラとめくっていると、不自然なほど丁寧に書かれた文字があった。誰かの名前のようだったが、該当人物がすぐに見つかる訳もなく。結局その人物を探し出すのに二日もかかってしまった。
事務に訪問の趣旨を伝え、案内されるままにエレベーターに乗り込む。自分の高校時代にエレベーターなんてなかった、と時代の移り変わりを感じているうちに目的の階に到着。
案内役の事務員に礼を言い、教室扉の上に掲げてある札を頼りに廊下を歩いて行く。今日が休日なだけあって、校舎内に音は無い。遠くの体育館から聞こえる運動部特有の喧騒だけが、独特の反響をもって耳に届く。
「ここです」
いち早く目当ての教室を発見した部下が声を掛けてきた。
重たい引き戸に手を掛け、ゆっくりとスライドさせる。
扉の隙間から粉っぽいチョークの匂いと木製の勉強机の香りが溢れ、鼻先をくすぐった。
整然と並んだ机。教室後方の掲示板。掃除用具入れ。少し汚れた床。懐かしい教室の雰囲気は、いつになっても変わらないのかもしれない。事前に空調を効かせていたようで教室内は涼やかだ。先程見えた大きな窓からは、午後の空気に浸る町が見渡せた。
そんな教室の中に人影が一つあった。こちらの会釈につられ、目が合った相手も軽く頭を下げた。
「刑事さんですよね」
「はい。三原千秋さんですね」
問われた彼女が小さく、えぇ、と頷く。白田が遺した「嘘をつく子供」の絵本。ページの端に書かれていた同級生の名前。今回の相手は彼女で正解だろう。
白田侑季と同年代のはずだが、顔立ちのせいか妙に幼く見える。体格もわりと小柄だ。まだ高校生だと言っても通じるかもしれない。白いブラウスに紺のロングスカートと、服装はシンプルだが、長い黒髪を後ろで束ねている部分のみ大人に近づいている雰囲気があった。
「本日はご協力ありがとうございます」
「いえ。私こそ、途中で日取りを変えてしまってすみませんでした」
「大丈夫ですよ。休日なので目立たなくて済みますし。どうぞ掛けてください」
ポケットから手帳を取り出しながら、部下が近くの椅子に座るよう彼女に勧める。当たり障りのない会話からの導入。物腰の柔らかい部下の役目だ。警察学校を卒業してからまだ二年と少ししか経っていないらしい。本人に言ったことはないが、彼の努力には他の部下たちに勝るものがある。
自分も傍にあった椅子に腰を落ち着ける。ふと三原の方を見やると、不安げな表情で俯いていた。
「あの。刑事さん」
「何ですか」
「この聞き込みって、どれくらいで終わりますか」
「大丈夫ですよ。十分程度で終わらせますから」
説明した部下の言葉に彼女は、そうですかとだけ言った。が、先程と表情は大して変わらず、まだ迷っている様子だ。
見かねた部下が何気ない風で尋ねる。
「この後に何かご予定があるんですか」
いえ、と呟く彼女。それからまた少し逡巡の色を見せた後にようやく切り出した。
「すみません。……友達が外で待ってるんです」
「友達、ですか?」
途端に部下の顔が曇る。彼女が焦って説明を始めた。
「あの。本当は今日、その友達と会う約束をしてたんです。でも今日ぐらいしか刑事さんたちとの都合が合わなくて。だから彼女との予定は断ったんです。そうしたら、じゃあ、あたしも学校行くって言い出して、聞かなくて、それで」
彼女がそこまでまくしたてた時、見計らったかのように教室の扉が勢いよく開いた。振り返ると、今どきの女子高生とも呼べそうな派手な女性が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。三原の表情が凍り付く。
「ちょっ、ミオっ」
「ちーちゃん、ここに居たのぉ。探してたのにぃ」
「私、待っててって言ったよ。ちゃんと」
「もうだめ、もうむり、もうげんかいぃ。ねぇ、まだ終わんないの?」
目の前にいる刑事たちを気に留めるそぶりもなく、彼女はつかつかと教室に入り、三原に抱きついた。腕や耳に着けた貴金属がじゃらじゃらと揺れる。髪の毛は明るい栗色だった。おそらく三原と同級生なのだろうが、あまりにも身軽な服装と場違いな雰囲気が、三原とは違う意味で妙に幼く見えてしまう。外を走って来たのか、汗の滲んだ額を腕で拭っている。
「あたしずっと待ってたのに、ちーちゃんなかなか帰ってこないし」
「五分も経ってないけど」
半ば呆れたように頭を抱える三原。
「だって今日土曜日だから、ほとんど誰もいないんだもん。部活も休みだったし」
「私それ言った。それでも一緒に来たいって言ったのミオの方でしょ」
「あははっ。ごめんって。ちーちゃんがいないと、あたしすることなくてさ」
三原の冷静な反論を気にも留めず、ミオと呼ばれたその女性は快活にしゃべり続ける。
「ちーちゃん、どこの教室か言ってくれなかったでしょ。あたし校舎ん中探し回ったんだよ。この格好だと先生にバレたらまずいしさ。もう色んな意味で汗だく。ねぇ早く帰ろうよ」
「すぐ終わるから、ね?」
三原の視線に気付いた彼女がようやくこちらを向いた。「まだいたの?」という顔のまま、部下と俺を交互に見比べている。そして、部下の方に視線を留めた。
しばし動きを止めたミオを見て、三原がすかさず彼女の手首を掴む。
「すみません、刑事さん。少し抜けます」
「え、ちょっと、ちーちゃん、待って」
「ほらミオ、外で説明したげるから」
「ねぇ、ちーちゃ、ちょ、話聞いてよぉ」
「いいから行くよ、ほら」
有無を言わさずミオを廊下に連れ出す。三原が振り返って頭を下げ、教室の扉を閉める。
がらんとした無音だけが後に残されていた。
三原が謝罪しながら教室に戻ってきたのは、ミオを連れ出してから十分ほど後のことだった。本当に申し訳なさそうな表情で何度も謝るので、こちらの方が申し訳なくなってくる。
さすがに聞いてもいいだろう、と口を開いた。部下はまだ呆然としている。
「今のは、同級生か?」
三原がしおれた様子で、そうですと答えた。
「あの子、いつもあんな感じで。あんまり場の空気が読める方じゃないんですけど、とってもいい子なんです。明るいけど、その場の空気はお構いなしに話し掛けて来て、些細なことは二の次なんです」
そこまで言って、彼女は気付いたように目の前で手を振った。
「あの、別に嫌いってわけじゃないんです。むしろ親友みたいな感じなんです。向こうはどうか知りませんが」
三原が窓外の景色に視線を投じた。暖かく、だがどこか古傷を見つめるような三原の瞳の奥が、ガラスに薄く反射する。
「何かに悩んでいても全然気にしないように振る舞って、心のどこかで傷付いて。だからこそ、誰かに明るくできるんだと思います。だからこそ、他人の傷を笑顔で軽くしてくれるんです」
とてもいい人なんです。
彼女は、最後をそう締めた。他人には分からない深い絆が、三原とミオの間には結ばれている気がした。
何かから覚めたように彼女は話を戻した。
「すみません。私違うこと話してばっかり。白田くんの話ですよね」
その言葉で、部下もようやく我に返った。どこか焦り気味に質問を始める。
「えっと。白田侑季さんは、三原さんと同級生でしたよね」
「そうです。高校三年の時に、同じクラスでした」
「彼と話したことはありますか」
「いえ、多分ありません。話の流れで呼び掛けたりしたことはあるかもしれませんが、会話はしたことないと思います。彼は元々クラスの中で発言するような人じゃなかったので。休憩時間も独りでいた気がします。だから、彼についてはあまり詳しくは知らないんです」
そうですか、と相槌を打つ部下の隣で、小さく肩を落とした。
白田は高校時代においても自らの痕跡を残さなかったらしい。これでは、彼の家族にもう一度話を聞くしか、白田の人物像を掴む方法がないのかもしれない。だがそんなことをしては、白田遥希の時の二の舞だ。もうああいうのは勘弁したい。
そもそも、彼の人物像について調べる事が何にどうつながるのか、自分の中でもあまり理解できていない。大事なことなのだというのは分かり始めたが、このまま代わり映えのない証言が続くなら、この数週間続けて来た捜査自体が意味を失ってしまう。白田の死の理由すら不明なまま捜査を終えなくてはならないのか。
策は次々と消えていく。
証言は変わらない。
情報も得られない。
上からの指示を無視するのもそろそろ限界だ。
先が見えないこの案件に、徒労感だけがのしかかる。
部下も憂鬱そうに顔を歪めていた。
「他に、彼と会話をしている人は見かけませんでしたか」
三原が記憶をさらう仕草をするが、すぐに、すみませんと頭を下げた。
「誰かが白田くんの話をしているのも聞いたことないです。クラスのみんなも、ノリが悪いやつ、ぐらいの印象しか持っていなかったと思います」
何度も聞いたような内容。大学でも高校でも、白田は白田だ。
誰とも関わりを持たない。繋がりを作らない。自分を表に出さない。存在を薄めて印象を消す、陰のような人物。
果てしなく続くような現状に心のどこかでうんざりしている自分がいる。
頭で考えているよりも、精神の限界が近いのかもしれない。
不意に、隣の部下が何かを考えるような表情を見せた。しばらく黙った後、彼が言った。
「白田さんは、高校時代どんな人でしたか」
突然の質問に眉根が寄ったのが自分でも分かった。
「おい。いまは違うだろ」
今回は、三原と白田の関係性について調べるのだ。白田が彼女にコピー用紙を託したことは、彼女の名前が白田の絵本に書かれた名前と一致した時点でほぼ確定している。まだ「作品」については触れていないが、白田との思い出よりも先にそちらを訊き出すべきだ。捜査の順序自体が間違っている。下手に突いて黙られる前に、欲しい情報を訊き出すのが先決だ。
それでも部下は涼しい顔を崩さず言い切った。
「そうですね。興味本位ですよ」
「だったら先に」
「でもこのままじゃ埒が明きません。少しでも白田について何かしら知った方が良いはずです」
「それはそうだが」
そう反論する間にも、部下は三原に質問を重ねる。
「何でもいいんです。見た感じだけでも、どんな人でしたか」
最初は三原も突然のことに戸惑っている様子だったが、途中からそうですね、と思い返す様子を見せ始めた。
「見た感じは、おとなしい、ですかね」
その言葉に微妙に引っ掛かった。
「根暗、じゃないのか?」
「多分違うと思います。根暗っていうと、なんかこう、陰気な感じがしませんか? いつも独りだとか、地味な反発をしたりだとか。私はそんな感じでしたけど、白田くんはそういうような雰囲気じゃなくて、もっと薄いんです」
「薄い、ね」
「はい。透明とまでは言いませんが、どこか薄い印象がありました」
三原の言葉と自分の中のイメージとが若干異なる。だが言われてみれば、とも感じた。自殺を選択する人は軽度のうつ状態にある、と聞いたことがあったからか、白田に対して暗いイメージをはめ込んでいたのかもしれない。
少なくとも三原の話を聞く限り、高校時代の白田は陰気とは違うようだ。
「でもやっぱり、周りの人達と喋るところは見たことないですね。さっきも言いましたけど、白田くんはずっと独りでいましたし、自分の席からあまり動かなかったと思います」
「白田さんは独りで何をしてたんですか?」
首を傾げた部下に、三原は頭を横に振った。
「特に何も。大体は机に伏して寝ているか、本を読んでいるかでした」
机で寝る、というのは自分も高校時代によくやっていた。休憩時間中に寝ておかなければ授業中に睡魔に襲われ、教師に当てられる確率は高くなる。そういう工夫をしていた割に、授業中は教師の怒号で起こされた記憶しかない。どうしてこんな思い出ばかりなんだろうか。自分でも不思議だ。
「……寺尾さん?」
「何だ」
「えっと、顔を顰めすぎじゃないですかね。ちょっと怖いですよ」
「……何でもない。気にするな」
はぁ、と曖昧に頷くもまだ何か言いたげな部下。大きく空咳をしてやると、なぜか慌てふためきながら三原への質問を再開した。そんなに怖いか。
「お話を聞く限りでは、白田さんはかなり孤立していたように感じますが」
部下の言葉に三原の表情が少し翳る。
「そうですね。クラスメイトほぼ全員が彼と関わるのを煩わしく感じていたのは事実だと思います。声を掛ければ返答はしてくれるみたいなんですけど、それ以上会話を続けようとしないらしくて」
「じゃあ、本当に誰とも付き合いはなかったワケか」
「えぇ。それに、はたから見ていても、彼がわざとそういう態度を取っているのが分かるんです。腫れもの扱いとかいじめとかではないですが、誰も関わろうとはしませんでした」
「白田さんは部活にも所属していなかったんでしょうか」
「はい。帰りのホームルームの後、真っ先に正門を出て行くのを見たことがあります。部活も入っていなかったはずなので、クラスメイト以外の人間関係も無いと言っていいと思います」
三原が、一瞬腕時計を気にした。自分の時計で確認すると、自分達がここに来て四十分が経過しようとしていた。話が長引いていて忘れていたが、外でまだミオが待っているはずだ。教室内の物体に長い影が添えられる。
三原の行動を察した部下が開いていた手帳をぱたんと閉じた。
「これくらいにしましょうか。今日はご足労頂いてすみませんでした」
「いえ。ほとんど中身のない話で……、すみません」
「そんなことないですよ。貴重なお話ありがとうございました」
緩やかな空気と共に解散の雰囲気に成りだした二人。ちょっと待て。
「申し訳ないが三原さん、白田から預かったコピー用紙についてなんだが」
きょとんとした顔の三原。「コピー用紙……、コピー用紙……」と質問を咀嚼しながら、慌てて近くに置いていたトートバッグをあさり始めた。忘れられては困る。コピー用紙も大事な物だ。
三原が何度も頭を下げながら、どうぞ、とコピー用紙の束を渡してきた。部下が受け取って目を通し始める。
その間に幾つか聞いておく。
「これはいつ頃渡されたんですか」
「卒業式の日です。手書きのメモ用紙と一緒に、私の机の中に入っていました。メモの方は無くしてしまったんですが、コピー用紙は渡された枚数ちゃんとあると思います」
「渡された後、彼とこれについて話したことは」
三原が静かに首を振る。
「ありません。詳しい部分までは覚えていませんが、失くしたメモの方に書いてあったんです」
三原が軽く目を閉じて暗唱する。
その時は自然と分かる。それまで黙って過ごしてください。
「書かれていた〝その時〟は、多分刑事さんたちが来る事だったんだと思います。あの時は不安もありましたし、何より話し掛けたことのない白田くんからメモが来たので、どうしようかと。色々迷いましたが、とりあえず何か起こるまで〝黙って〟いようと決めていたんです」
「そうしているうちに白田が亡くなったと」
えぇ、と三原は薄く目を伏せた。
「正直ショックでした。繋がりは無くても、一緒のクラスに居た縁はありますから」
そう言いつつ、三原が寂しげに笑う。
「こういうの自分勝手ですね」
何となく三原の言いたいことは分かる。
自ら関係を繋がなかったくせに。周囲と同じように黙って遠くから見ていたくせに。今更友達のように寂しがるのはおこがましい行為なのではないか。そう言いたいのだろう。
だが、出会った時点で縁は出来るのだ。ショックを感じるのは別におかしいことじゃない。
どこかで会うだけで。
どこかで言葉を聞くだけで。
縁はいとも容易く結ばれる。
そして結ばれた縁は決して切れない。それを嫌だと感じる者もいるが、泣こうが喚こうがその事実は変わらない。どうしたって結われるものなのだ。
今まで捜査してきて、それが身をもって理解できる。唐突に用紙を頼まれた男子大学生、授業の感想が心の隅に引っ掛かっている教授、兄の死に囚われた弟。そして、数年間共に居て繋がらなかった三原。
誰もが白田の事を知らないようで知っているし、知っているようで知らない。それでも断ち切れない糸を抱えたままだ。
出会った瞬間から切れない糸が結ばれてしまう。解こうにも解けないからこそ、色んな意味で「痛い」のだ。それを否定することは心のどこかが許しはしない。
「あ、用紙、読み終わりましたよ」
沈黙を破って部下がコピー用紙を渡してきた。
今回の用紙は三枚。題名部分には「山月記」の印字。末尾にはいつも通り小説の一節が並ぶ。
ざっと目を通しても特にこれといった内容は無い。いつもと同じだ。一つ違うとすれば、用紙に書かれた内容にミオが登場しないことぐらいだ。それはそうか。さすがに白田も予想外だっただろう。
そう考えて、幾つか違和感を覚えた。もう一度読み返してみてその正体に気付く。
今回、用紙の通りに会話が行われていない。
これまでの聴取では、こちらと相手方との間で用紙の内容に沿った会話が成立していた。地の文も台詞もほとんど現実での会話に近い物だったはずだ。
だが今回の「作品」は読み返してみても、ミオが登場した時点から、用紙の内容と現実の会話の間に明白な乖離が生じている。ミオがいたという事実だけではない。その後に語られるはずだった事柄全てが、実際には三原の口から出ていない。
思い返せば、前回の遥希との一件もそうだった。途中から彼は用紙の指示を無視した。そして今回も、三原は指示を無視した訳ではないだろうが、確実に内容から外れた出来事が起きた。
現実と虚構は同一にはならない。それが普通だ。
それなのに。
不快だ。
いや、「不快」ではない。これはおそらく「不安」だ。
死んだ白田侑季が握っていた初めのコピー用紙。そこから教授の持っていたコピー用紙まで、現実と虚構がほぼ同一だった。その重なった世界は最初遥希によって崩され始め、今や完全に瓦解した。もう白田の描いた筋書き通りに進まない。
その事実のせいか現実感が曖昧になり、その事実に違和感を覚える。歪んだ感覚。眩む視界。
何故だ。何の理由で変わった。白田の予測が追い付かなくなったのか。いや、そもそもこれまでの「作品」の意図すら分かっていない。どこが違う。どこから捩じれた。何かがおかしい。
捩じれた感覚が区別を曖昧にする。どちらが嘘なのか。どこからどこまでが現実なのか。判断に躊躇してしまいそうな自分が心の隅に、確かにあった。
「――――寺尾さん?」
部下の声で我に返った。黙っていたからか、喉がはりついている。
「大丈夫ですか。考え事でも?」
「いや、何でもない」
「もう三原さんに聞きたいことはないですか」
そう言われ、三原の顔を見やる。彼女も不思議そうにこちらを見返す。まだ回りにくいままの頭を無理矢理働かせる。
「四つ、聞きたいことがある」
「意外と多いですね」
部下が小さく突っ込みを入れる。
「どうぞ」
三原が優しく承諾した。
彼女の前にコピー用紙を掲げて見せる。
「このコピー用紙の内容を君は読んだか」
「……はい、目を通すくらいはいいかな、と」
「では聞くが、この用紙に書かれたようにしなかったのはなぜだ」
「私もそれを読んだ時、書いてある通りにした方が良いかなと思ってはいました。けど、ミオが来てしまった事が既にイレギュラーだったので、もう筋書き通りするのはムリかな、と思ったんです」
「そうか。……二つ目だ。白田の持っていた絵本に君の名前が書かれていた。心当たりはあるか」
さすがに三原も知らなかったようだ。これには少し驚いた表情を見せる。
「いえ、今初めて聞きましたし。特に思い当たる節もないです」
「分かった。次に三つ目だ」
先に掲げたコピー用紙数枚を、彼女の前でひらひらと振って見せる。
「白田から渡されたものは、このコピー用紙だけか」
一瞬返答に間が空いた。考え込む仕草をした後、三原がゆっくりと口を開く。
「確か、本があったような、気がします。でも何だったかは。その」
「憶えていない、か」
「……すみません」
その言葉で彼女が見るからにしおれた。少し言い過ぎたか、と慌てて続ける。
「いや。思い出したらで構わないんだが」
「はい。見つけたらすぐ送りますので」
「助かる。最後、四つ目は確認程度だ」
言いながら、三原の眼に視線を合わせる。
「白田と同じクラスになった時の学年を教えてくれ」
三原がきょとんとした顔で返答に詰まった。
「あの、さっきも言ったと思うんですが」
「そうですよ、寺尾さん。最初に彼女が言ってましたよ」
部下も怪訝そうな顔で覗き込んでくる。苦し紛れに後頭部をがりがりと掻いた。
「そうか? すまん、忘れてたんだな。悪いがもう一度言ってくれるか」
「あ、はい。高校三年の時です」
「すまんな。今度は覚えた」
「もう、寺尾さんしっかりしてくださいよ」
「悪かったよ」
三原が、俺と部下とのやり取りを楽しそうに眺める。
夕陽の欠片がビルの向こうへ落ちた。青と紺のグラデーションが空を覆う。
街が静かに、夜へと沈んだ。
深夜に近くなるとデスクの周りから人が消えていく。捜査に出向く者や家路につく者など様々だ。
一人の残業というのは面倒くさくて仕方ないが、今日は別だ。不当に捜査を長引かせているのでは、と誰かに後ろ指をさされることがなくなる。そう見られてもおかしくないことをしている自分が悪いのだが。
部下も、他の案件の応援要請で今はいない。
とうとう誰も居なくなった部屋で椅子の背に凭れる。頭の後ろで腕を組み、昼間の三原との聴取を思い返した。
高校時代の白田。根暗というよりは薄い存在だった白田。誰とも繋がらない態度。それを傍観していたクラスメイトと三原。コピー用紙の指示通りにならなかった会話。予期せぬ偶然。夕陽が満ちた教室。三原の言葉。
最後にわざと言った質問。
白田と同じクラスになった学年を教えてくれ。
あ、はい。高校三年の時です。
会話している間、三原の視線を観察し続けた。でたらめな質問で虚を突いてもみた。彼女は一切嘘をついていない。ここは自分の勘を信じよう。逆を言えば、彼女は真実しか述べていない。
だとすれば。
重たい疲労が目元や肩に圧し掛かる。勝手に思いついた不安定な仮説が、違和感を覚えた瞬間から頭の片隅でいくつも揺れている。
だがこれまでを思い返すほど、小さな誤解がいくつもあるような気がしてならないのも事実だ。
不意にある一つの考えが浮かんだ。
自分のデスクの上に散らばったコピー用紙を見つめる。三原から預かった「作品」。その末尾に印字された一節。
-------------------------------------------------------------
『これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。』
-------------------------------------------------------------
今回は一節中に固有名詞がある分、手早く調べられそうだった。
椅子に座り直して、姿勢を整える。現実と虚構の境が相も変わらず不安定だった。今自分がいる場所が現実なのか、それとも誰かの虚構の中なのか。あるいは「白田」の中なのか。
そろそろ自分で動かなければならない時期に来ているのかもしれない。白田の筋書きに流され、得られた情報に流された。その結果がこのざまだ。自分で考えなければならない。理解できないことが多過ぎる。
眼を閉じ、深呼吸をする。
よく似た二種類のパズルピースがばらばらに混ざり合ってしまったのなら。
戻す方法は一つしかありえない。
それぞれのピースを一つずつ見直すこと。それを正しく配置し直すこと。
無人の部屋でパソコンを立ち上げ、一節について調べ出した。
人工的で信頼しにくい蛍光灯の光。
今はそれだけが頼りだった。