偽記
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嘘をつく子供
インターフォンを一回鳴らす。
門扉の奥にある玄関扉は、すぐには反応しなかった。その間に周囲に目を走らせる。
閑静な住宅街。平日の夕方にもかかわらず人通りはほとんどなかった。この時間帯なら下校中の小学生や買い物帰りの主婦などが歩いていそうだが、人の気配があまり感じられない。家々の向こう側で微かに響いている街の喧騒が、この住宅地の静けさを際立たせていた。雲の多い空の彼方に、滲んだ夕陽が落下していく。
再び目の前の家に視線を戻す。最近造成された土地なだけに、その外観は周囲の家屋とほとんど同じだった。表札が無いのが引っ掛かる。正確には、あったはずの表札が取り外してあった。
玄関の開く音で我に返る。立っていたのは、制服を着崩した男子高校生。
部下が声を上げる。
「すみません、先日お伺いさせていただく連絡をした、」
突然、玄関を開けていた彼がドアを閉めた。
話の途中だったにもかかわらず、門扉の向こうは初めの景色に逆戻りだ。寂莫とした家。人気の無い玄関。
隣で立ち尽くした部下は、言おうとしていた言葉の続きを何ともいえない表情で飲み下している。今日は部下もしっかりと黒服を着用していた。
もう一度インターフォンを鳴らそうか迷っていると、再び玄関が乱暴に開いた。
顔を覗かせた彼が無表情のまま言い放つ。
「さっさと入れよ」
そのまま彼はドアノブから手を離した。支えを失って閉まる扉。ガチャリと響く不愛想な重低音。翳りを見せる玄関。
苦しそうな表情で深呼吸をした部下が、ゆっくりと門扉を開いて中に入る。その後ろに付いて行きながら、何度も確認したはずの黒ネクタイを締め直した。
玄関を開け、失礼します、と誰も居ない廊下に声を掛ける。電気は点いていなかった。廊下の左側正面に階段がある。扉は、廊下の奥に二枚と、右側の壁に一枚。下駄箱の上には小さな観葉植物と鍵入れ。シンプルな内装。
部下は靴を揃えた後、右側の扉に手を掛けた。緊張のせいで動作がぎこちない部下に一抹の不安を感じながら後に続く。
扉の先はリビングだった。廊下と同様ほとんど物が置かれておらず、電気が点いていない。ベランダの窓の近くに白い合皮の対面ソファ。その間に置かれた簡易机。傍には画面の大きなテレビ。シンプルな木製のテーブルと四脚の椅子。淡い茶色のカーテン。
彼は既にソファに座っていた。部下はその反対側に腰掛けている。
黙ったままの部屋。一部のみ開けられたベランダの窓から、夕暮れの熱を帯びた風が微かに吹き込んでいる。レースのカーテンが不安定に揺れる。
部下の隣に腰を下ろした。中々会話が始まらない。
俺が口を開こうとすると、気配を感じたのか、部下が遮るように口火を切った。
「あの、先に手を合わせ」
「やめろ」
首に刃を当てられたように部下が無言でひるんだ。張り詰めた空気。重い沈黙。それでも会話を繋げようと必死に言葉を続ける。
「白田遥希さんですよね」
彼は答えない。何も置かれていない簡易机を静かに睨み付けている。
「あの、ご両親は」
どこまでも黙する姿勢の彼。空気の重圧に耐えられず、視線が泳ぐ部下。
「急にお伺いしてすみません。……その、お兄さんの件について、」
「なに」
彼の刺々しい口調に反撃する事も無く、ただ質問を重ねる。
「あの、お兄さん――――白田侑季さんから、何か預かっていないかと思いまして」
部下の言葉を聞いた彼が急に立ち上がった。言葉を返さないままリビングを出て行く。
彼の後ろ姿を見送ると、部下は詰めていた息を深々と吐いた。
「しっかりしろ」
「……すみません。まだ、その、何と言っていいか分からなくて」
そう言うと部下は強張った力を抜き、ソファの背に体を沈めた。
白田侑季の弟である遥希がコピー用紙を預かっている。前回の用紙を調べた結果その推論に辿り着いた時は、さすがに迷った。
白田侑季が起こしているこの「連関作品」について、彼の両親には一切知らせていない。報告すれば遺族の心身に負担を掛けることになる、という配慮のつもりだった。あなたの息子さんは亡くなる以前に自身の死後を文章にしています、と言った所で、遺族に与えられる衝撃が増すだけだ。
遺族の哀しみが尾を引いているにもかかわらず、亡くなった人間の事を根掘り葉掘り訊ねることはタブーだ。
かと言って、ここで捜査を終了する訳にもいかなかった。先の展開に全く想像がつかないが、今回で終わる可能性も否定できないからだ。得られる何かがあるなら出来るだけ探りたい。
「本当に彼が持っているんですかね、コピー用紙」
若干不安そうに部下が訊いてくる。出て行った本人はまだ戻って来ない。
「さぁな」
一応十分ほどここで待ち、彼が戻って来なかったら引き上げようと腹の中で決める。
前回教授からもらった「作品」で気になった箇所は、「弟」というキーワードだけだった。白田侑季が書いたこれまでの用紙を振り返り、ヒントの出し方を予測していくと、今回はこのキーワードが最も正解に近いと考えられる。
少し調子を取り戻したのか、部下が言葉を続ける。
「でも、まさか童話の一節だとは思ってませんでしたね」
確認のために、前回の文章の末尾に書かれた一節を調べた。これまでは日本文学の冒頭一節が常だったため今回は少し手こずった。部下が必死になって調べた結果ようやく、イソップ寓話に採録されたものだと判明した。
「羊飼の悪戯」。一般には「オオカミ少年」や「狼と羊飼い」として知られている。オオカミが来ると嘘をついていたが、本当にオオカミが来るころには村人は誰一人信用していなかった、という有名な寓話だ。
日本で広く販売されているイソップ寓話集は、当たり前だが、翻訳された物ばかりの為、末尾の一節に該当する本を見つけるのは困難を極めた。今回は少し部下を褒めてもいいだろう。
「でも、なんで今回だけ童話なんでしょうか」
部下が疑問を口にしたのと、白田遥希がリビングに戻ってくるのがほぼ同時だった。慌てて部下が姿勢を正す。
彼は何も言わず乱暴にソファに腰を下ろし、手に持っていた物を簡易机の上に放った。
コピー用紙の束。
隣で部下が安堵のため息を静かに漏らした。こちらとしても、的が外れていなかったことに少しばかり安心する。
「拝見しても」
「勝手にしろ」
相変わらず粗雑に口を開く彼。雰囲気を察してか、部下はまだ用紙に手を伸ばしていない。
軽く深呼吸をして集中力を上げ、部下に代わって質問を開始する。
「あなたのお兄さんが何故これをあなたに渡したか、理由に心当たりは」
「ない」
「他に渡されたものはありますか」
「ねぇよ」
彼の顔が苦々しく歪む。拒絶と怒気が肌で感じられる。
当たり前だ。ここ数日の間必死に区切りを付けようとした気持ちを、赤の他人に踏み躙られるのだ。
忘れることはない。だが少しの間だけでも目を逸らしていたい。思い返すごとに、胸に穴が開いたような現実が待っているから。気を保たなければ生きていけない。
その心を折るような質問を目の前でされる気持ちを言葉で表せるはずがない。
される方もする方も、気持ちの良いものではない。仕事だと割り切れずに他人の重みを抱えてしまった人間を、今まで幾度となく見てきた。
気持ちが痛い程伝わる。
だが、ここで引き下がることも出来ない。
言葉を選びつつ冷静に質疑を重ねようとした時、部下がその言葉を引き継いだ。
「亡くなった理由に思い当たる節はありますか」
「知らねぇって」
「些細な事でもいいんです。亡くなる直前に気になる事などありませんでしたか」
「だから、」
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急に、彼が口を閉ざした。
静まった空間。
次の瞬間、彼はコピー用紙を掴んで立ち上がり、こちらに向かって叩きつけた。
咄嗟に片腕で顔を庇う。白で埋め尽くされる視界。耳元で破裂する耳障りな音。紙の縁が頬を切る感覚。
ばらばらと落下する、一枚一枚の用紙。
コピー用紙が全て落ち切っても尚、誰も一言も発さなかった。
痛い程に長い沈黙が胸を締め付ける。
凍り付いた場を動かしたのは白田遥希だった。何の感情もこもっていない、冷たい鉄のような言葉。
「いいかげんにしろよ」
横に座った部下の顔から血の気が失せる。
「……あの、本当に、」
「オレはあいつなんか嫌いだ。誰の気持ちも考えてないお前らと一緒だ」
喉の奥に引っ掛かるような声で、押し殺した声で、彼は吐く。瞳に映るはっきりとした蔑視。
「かえれ」
彼がリビングを後にする姿を、ただ見送る事しか出来なかった。
リビングを去る前に彼が呟いた。
くずだよ、おまえら。
扉が閉まる轟音が耳を劈く。部屋が再び死んだような静けさに包まれる。
詰めていた息をそっと吐き出した。投げ捨てられた用紙を拾いながら、隣で座り込む部下を見やる。打ちひしがれた表情で奥歯を噛み締めていた。
用紙の角を揃え、部下の頭を軽く小突く。
「帰るぞ」
部下は小さく、はい、とだけ応えた。
玄関を出て、近くに停めていた車に乗り込んだ。回収したコピー用紙を順番に並べ替えて目を通す。
題は「嘘をつく子供」。自分たちが調べた方は「羊飼の悪戯」だったが、確か「嘘をつく子供」とも呼ばれていたはずだ。選択は間違っていなかったのだろう。
内容は遥希との会話だった。文庫本の代わりに、白田侑季が幼少時代に読んでいた絵本が渡される予定だったらしい。
文章を読む限り、白田遥希は途中まで用紙の指示通りに喋っていたようだ。指示を放棄したのは、やはり用紙の束を投げつけた時からだ。末尾の一節には漢字がふんだんに使われていた。
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『隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。』
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用紙は計八枚。今までの中で最も長いものだった。
自分の家族が傷付いていると分かっていて、それでも自分の意思を勝手に押し付けた白田。そうまでしてやりたいことなのか。亡くなった彼の心情が全く理解出来なかった。
白田遥希の放った言葉が脳裏をよぎる。
オレはあいつなんか嫌いだ。
彼が怒りをぶつけたかったのは、おそらく白田侑季が起こした行動そのものについてではない。彼は、兄が自分達の気持ちを汲み取ってくれなかった事について憤慨したのだ。そしてその言葉は彼自身の心も抉ったはずだ。
あいつなんか嫌いだ。
武林教授の元で聞いた、白田侑季のエピソードが思い起こされる。子供時代に、弟に読み聞かせていた海外の童話集。その記憶をいつまでも抱いていた彼。現在まで仲の良い兄弟だったに違いない。
その想い出を捨てて死んだ兄。裏切りに怒りを隠せない弟。
彼は、遥希は、兄の綴った指示書に従わない事で、兄に対して少しでも反抗したかったのだ。残された家族を気に掛けず身勝手に死んだ兄が許せなかった。その代償として、死んだ兄の意向を無視したという罪悪感に苛まれることも彼には分かっていたはずだ。こちらが訪問する前までの彼の葛藤は、容易に想像出来るものではない。
兄を嫌いだと吐き捨て、その言葉で、言った自分自身が苦しむ結果。
白田侑季が全てを予測して文章を綴っていたのだとしたら。
手の平の中で転がる行き場の無い何かのせいで、コピー用紙に皺が寄った。なぁ白田。
お前は何がしたいんだ。
「一番痛かったのは、遥希くん達、遺族なんですよね」
運転席に座る部下がぽつりと言った。
「死んだ白田侑季のように、一瞬で終わる痛みじゃないんですよね」
「あぁ」
「白田は何で死んだんですかね」
「……さぁな」
相も変わらず、白田侑季の自殺の動機がはっきりしない。これ以上遺族に話を聞くのも酷だ。用紙に書かれている絵本だけ後日借りることにしよう。
自殺者の人間関係や家庭環境について調べていくことは捜査の範囲外だとずっと考えていた。今までずっと避けてきた。自分のためにも相手のためにも、踏み込む境界線を見定め、それ以上は干渉しない。それがベストなのだと。そうでなくてはいけないのだと。
だがそういった因子も思ったより重要なのかもしれない。特に今回は、もう無視してはいけない領域にまで来ている。
隣の部下の顔を見た。疲労と傷心が表情に深く刻まれている。このままこいつを捜査に同行させるかどうか、まだ決めあぐねていた。頭の隅で、遺族の哀しみを抱え込んでしまった人が思い起こされる。
不意に、部下が顔を手で覆った。
震える喉で息を吸い、ゆっくりとはく。
ごしごしと顔をこすって手を離した。眼の奥に何かが宿ったように見えた。
「次、何を調べますか」
ふっと、力が抜けた。
〝割り切れ〟とも〝強くなれ〟とも言えないが、部下は部下で必死にもがいていた。
「とりあえず帰って上に報告だな」
「分かりました。ベルト締めてくださいね」
「ま、素直に承諾するとも思えんが」
「承諾してもらえなくても調べますよ」
車がゆっくりと発進した。空は黙々と夜の帳を下ろしていった。