滞記
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竹取物語
文学部棟の最上階。その最も端に位置する教授室。
廊下の蛍光灯は既に切れているらしい。頼りになるのは窓から差し込むほの暗い外光だけだ。その外光も降り注ぐ雨のせいで遮られ、廊下は深い影を抱いている。灼けたアスファルトが急な雨に降られたおかげで湿度が高い。湿ったタイルの床。窓ガラスを叩く雨脚。生暖かい空気。鈍く光るドアノブ。
部下がついと前に踏み出し、教授室のドアを三度叩く。
どうぞ、と中から張りのある声が響いたのを確認してドアノブを捻った。冷房の効いた空気がドアの隙間から漏れてくるのを肌で感じつつ、部屋の中へと足を踏み入れる。
教授室の中はひどく狭かったが、整理整頓は行き届いていた。古い紙の匂い。机の上で整理された資料の類。浅く閉じられたブラインド。壁際の本棚には様々な書物が敷き詰められ、頁が開かれるその時を静かに待っているようだった。
「汚いところですみません」
上品な声が窓際の仕事机から聞こえ、声の主が立ち上がる気配がした。区画整理されたかのような資料の山の向こうから、五十代後半と思われる女性が顔を覗かせる。
「どうぞ。そちらにお掛けになってください」
「ありがとうございます」
「少し待ってくださいね。今コーヒーを」
「あ、いえ、お気遣いなく」
近くの接客用のソファに腰を下ろしながらやんわりと断った部下に、武林教授は笑みを浮かべた。
「させてください。世話焼きは昔からの癖なんですよ」
そういうと彼女は、棚の上に置いてあるエスプレッソマシーンの元へと足を向けた。三人分の紙コップに手早くコーヒーを注ぎ、ゆっくりと接客用ソファに持ってきた。
部下共々、有難く紙コップを受け取る。熱過ぎないところを見ると、こちらが来るのを予測して先に作っておいたのだろう。
「急な雨の中をわざわざ来て頂いてすみません。私から刑事さんの所に出向く事が出来れば良かったのですが」
「とんでもないです。出張からお帰りになったばかりなのに急に押しかけてしまったのは、こちらの方ですから」
教授は、部下の言葉にかぶりを振りながら向かいのソファに腰掛けた。
「私の方はどうということもないので気にしないでください」
それより、と教授が視線をこちらに据えた。縁なし眼鏡の向こう側が真剣みを帯びたものへと変わる。
「今日はどのようなご用件で」
隣に座った部下が居住まいを正す。話の大まかな説明や応対はほとんど部下に任せていた。
「先日この大学構内で亡くなった、白田侑季さんについてお聞きしたいことがありまして」
教授の目線が静かに落ちた。
「とても残念なことでした。学生達の衝撃も今は薄らいでいますが、事故のあった翌日などは、授業に専念できていない学生も少なくありませんでしたし」
「亡くなった彼と面識はありましたか」
「薄情だとは思いますが、白田さんのことは授業の名簿で確認しました。私の授業を取ってくれている人はかなり多いので、一人ひとりの名前や顔を覚えてあげられないのが現状です」
他の教授や学生から聞いたが、武林教授の行う文学史の講義は人気が高いらしく、定員オーバーが常だという。大学の運営する公式ホームページでも彼女の講義はよく取り上げられているようだ。それほど人気のある講義で、全ての学生を記憶することなど不可能だろう。
記憶は誰のものであっても脆いのだ。揺らぎやすく、頼りない。
部下は開いた手帳を見ながら話を進める。
「白田さんは講義に出席されていたんですよね」
「おそらく」
「〝おそらく〟?」
「私の講義では出席確認を行っていないんです。学生の自主性を尊重したいので。大学側にも許可を取っていますが、こういう時の事を考えると、あまり良いことではないのかもしれませんね」
「学生たちの間で、何か噂のようなものを聞いたことは」
「それもありませんでした。私のゼミ生の間でも少し話題になりましたが、彼らの中にも白田さんの存在を知っている人はいないようでしたし」
教授はそこまで言って、静かに手元のコーヒーを啜る。
彼女の行動を観る限り、特に変わった点は見当たらない。こちらの質疑にも虚言無く応対しているように思える。凛とした立ち居振る舞いを崩さない姿勢に、教授の冷静さと芯の強さが見えた気がした。
間を空け、教授が再び尋ねてきた。
「それで、今日はどうしてここへ」
「………えっと、ですから亡くなった白田さんについてを」
「いえ、そういう意味ではありません。他の先生方に聞きましたが、今のところ、聴取されるのは私が初めてのようですね。白田さんの取得していたゼミは私の所ではありませんし」
彼女の意図が読めずに首を傾げる部下。そんな部下に、教授の視線が真っ直ぐ向けられる。
「なぜ私なのでしょうか」
――――さすが教授と言うべきか。最初からこちら側の狙いを見抜いているようだった。
死者の身辺に関わる程度の質問なら別段彼女でなくとも構わない。武林教授の言うように、白田が所属していたゼミや他の講義の教授達に聞けば良いだけの話だ。わざわざ彼女を最初に聴取するのには訳がある。
横目で確認を取ってくる部下に軽く頷き、本題に入らせる。
部下が小さく息を吐いたのが分かった。
「私達はあなたが、亡くなった白田さんから何かを預かっているのではないかと考えています。今日伺ったのはその事を確認する為です」
教授は無言で先を促す。文献の詰まった教授室は静かに会話を聴いていた。その中には、自分たちが探している文献もあるだろう。教授の専攻分野が「文学史」であるなら尚更だ。
「詳しい事情はお話出来ませんが、白田さんは今まで、何らかのメッセージ性を備えた物を特定の場所や知人の方に託しています」
教授は黙したまま、その眼を閉じる。
「『竹取物語』。私達はそれにまつわる物を捜しています」
少し沈黙が流れた。
微かな雨音だけが狭い部屋を満たす。
武林教授はソファから立ち上がり、そのまま本棚に向かった。そこから一冊の本を抜き出す。装丁が色褪せた紅色の一冊。背表紙は擦れて文字が霞んでいる。
「まず、刑事さん達にお詫びしなければいけません」
そう言うと、教授はこちらに向かって深く頭を下げた。
「亡くなった彼について名簿で確認したというのは誤りです。正確には、白田くんの存在はかなり前から頭の隅にありました」
顔を上げた武林教授の視線が窓へ投じられる。灰色に煙るキャンパスと、ガラスを伝う水滴。
「毎回の講義の後に、学生たちに感想を書いてもらっているんです。名前を書く欄のない感想用紙です。学期初めの講義では、今興味を持っている文学について書かせました。その中で、彼の書いた紙を見つけたんです。『小さい頃に、弟によく寓話や童話集を読み聞かせていました。その時から海外文学史に興味が出始めました』と。そのような内容が書いてありました」
感想用紙を見た時の事を思い出しているのか、教授の顔は自然とほころんでいた。
「純粋に文学に興味を持っている学生はもちろんですし、文学を単なる趣味の範囲とする学生もいます。ですが彼のように、子供の頃の兄弟との関わりを大事にする人は中々いません。それに、思わず笑顔になってしまうほど文字が優しく感じられたんです。弟さんを大事にしていたことがよく分かりました」
教授は抱えていた本を開き、挟んであった物を取り出した。
数枚のコピー用紙。
またか、と思ったが、大して驚きはしなかった。見慣れた文字列に閉口しはするが、最初ほどの嫌気や懐疑はない。そういった感覚はもう麻痺してしまったのだろうか。
「あの感想を見たからでしょうか。彼が私にこれを渡した時も、あまり抵抗なく受け取ってしまったんです。あの感想を書いた人が私にこれを託した理由に興味が湧いたのも事実ですが」
教授はコピー用紙の束を、机越しにスライドしてきた。部下が手を伸ばして軽く目を通している間に、彼に代わって質問を再開する。
「あなたに渡す時、白田は他に何か言っていましたか」
「いえ、特には。これを捜している人が来るまで預かってください、としか言われませんでした」
「渡されたものはコピー用紙だけですか」
「そうですね、他には何も」
その答えに軽くため息をつく。今度もあまり大した成果は得られないようだった。流れで行けば、そろそろ新しい情報が手に入ると思ったのだが。何だかここまでの捜査が無駄足だったような気がしてしまう。
その感情が表に出たのか、教授が申し訳なさそうな視線を送ってきた。
「言い訳がましいですが、彼が訪ねて来たのが突然だったもので、あまり覚えていなくて。すみません」
「あぁ、いえ、十分な証拠ですよ。ご協力ありがとうございます」
慌てて取り繕ったが、言葉に気持ちが乗っていないのが自覚できる。それ以上言うことがなく、結局口を閉じてしまった。
気付かれないように溜め息をつき、ソファの背凭れに体を預ける。
白田侑季に関する事柄は誰に聞いても曖昧だった。彼の思惑も言動の理由も、その唐突な行動のせいでぼかされてほとんど掴めない。彼の起こした結果のみが眼前に提示されている。ノーヒントの難題を、さぁ解けと急かされても、手のつけようがまるでなかった。
時々、彼は本当にこの世に存在したのだろうかと、非現実的なことを感じてしまう。空気と対話しているような不安定感のみがちらつく。こんな事件は今まで無かった。
いや、事件とも呼べないのか。彼がしたのは傷害や殺人ではない。単なる自殺だ。
だとしたら今回の件は。
一体何と呼べばよいのだろう。
「何だか、今まで書かれてきた内容と大差ないですね」
用紙の内容を粗方見終わった部下が、どうぞと用紙を渡してくる。今回の用紙は五枚。タイトルは、前回の用紙に書かれていた一節と同じ「竹取物語」。会話部分は相も変わらず、実際に話した内容とだいたい一致している。最後の一文は、やはり別の一節で結ばれていた。
向かい側の教授が不思議そうに訊いてくる。
「『今まで』というと、これより前があったのですか?」
「えぇ。前回は『檸檬』でしたが」
梶井基次郎ですか、と教授が考え込む隣で、用紙に書いてある通りに部下の頭を軽く小突いた。情報漏洩もいいとこだ。
反省の様子を見せながら部下も、用紙に書いてある通りの質問を教授に投げかける。
「一つよろしいですか」
「何でしょう」
「教授は、今後もこのような事がこれから先も続くと思いますか」
部下の質疑に、少々困惑気味の教授。
「このような、とは、そのコピー用紙の事ですか」
「はい」
「私の考察がお役に立つとは思えませんが」
「いえ、少しばかり参考にさせていただくだけなので」
しばし考え込んだ後、教授が口を開いた。
「あくまで私個人の意見ですが、やはりこれ以降も続くでしょうね。その文章を見た限り、かなり手が込んでいるように感じますし。何年も続くことは無いと思いますが、まだ先はあるのは確かでしょう」
そうですか、と部下が呟く。こちらとしてもまだ先があって当たり前のような気がしていた。ここまで続いているんだ。中途半端で終わることはないだろう。これほど手の込んだことをする理由も気に掛かる。憂鬱なのは上への報告だけだ。
理由が知りたい。真相が知りたい。自分でも傲慢だと思えるほどの意欲が、いつの間にか微かに芽生えていた。気付かない内にこの「作品」に囚われている自分が不思議だった。
外は雨。止むかどうか分からない水滴が、幾つも幾つも落下していく。
手元ですっかり冷えたコーヒーを、あおる様に飲み干した。微量な苦みと炒った豆の香りが後を引いた。
『羊飼が羊の群を村から遠く追って行きながら、いつもこんな悪さをした』
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