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漠記



  ----------------------------------------------------------


    蜘蛛の糸



「ありましたね」


 部下が軽く咳き込みながらも安堵の声を上げた。こっちも固まった腰を伸ばし、部屋の中を見回す。


 遺体の青年が飛び降りた部屋は、この大学の美術サークルが所有している場所だった。


 亡くなった学生が握っていたコピー用紙。その末尾に書かれた小説の一節について、事件の翌日に部下が必死になって調べた。結果、芥川龍之介の書いた児童文学「蜘蛛の糸」であると分かり、それならばどこかにそれらしき「糸」があるのではと現場を探し、ようやくこの部屋に着いた。朝からしらみ潰しに方々を捜し歩いたため、疲れがどっと押し寄せる。


 部屋のあちこちに物が散乱している。ここの部員は片付けに弱いのだろう。鼻につく油絵の具の匂い。水入れに雑多に突っ込まれた絵筆。窓際に立て掛けられた数枚のカンヴァス。レモンやリンゴなどを描いた静物画。少女の笑顔が印象的な人物画。海の青が目立つ風景画。


 そんな部屋の隅に、背の高い本棚があった。てっぺんから垂れ下がっていた一本の糸を引っ張ると、二枚のコピー用紙と一冊の文庫本が落下して来た。ついでにホコリも。おかげでまだ視界が薄く霞んでいる。


 しゃがんだ部下が文庫本に乗った塵をぱたぱたと払う。表紙に書かれた題名。著者欄の「芥川龍之介」が彼の手の動きに合わせてゆらゆら揺れた。


「『蜘蛛の糸』か。何か意味があるんでしょうか」


 どうぞ、と本を渡してくる。それを受け取って最初の数頁をめくった。小説冒頭の一節は、遺体が握っていたコピー用紙の最後の文章と一致している。


 だが、これで終わりではないのだろう。


 文庫本と共に落ちてきた新たな二枚の用紙が、目の端に気怠く引っ掛かる。


「手が込んでいるな」


「ですね。やっぱり何か目的があるんでしょうか」


「そんなのがあるなら、早く知りたいもんだな」


 今後のことを考えると息が詰まりそうだ。まずもって、上にどう報告すればいいか見当がつかない。


 ホコリは尚も舞い続ける。換気をしようとガラス窓の方へ足を向けた。


 推理小説やミステリードラマで取り上げられる自殺は、大抵の場合自殺ではない。しかし今回のように、最初から自殺だと断定できる事件の方が世間には多い。そんな事件にずっと関わってはいられない。「学校内のいじめ」や「劣悪な家庭環境」については警察捜査の範囲外だと思う。


 別に、人の死が軽いと考えている訳ではない。会社や役所の分担業務と同じように、仕事とする案件が異なるだけだ。


 ただ、こんな事件は想定外だ。


 自殺現場にあったコピー用紙。遺書ならまだしも、まるで自分の死後を予測したような文面。悪戯にしては手が込んでいる。


 憂鬱と疲労で肩が重い。だがここで終える訳にもいかない。不可解な点は最後まで洗い出せ、というのは昔の上司の言葉だ。仕事の理念として自分でも納得できる。実際部下にもそう教えた。


 窓を開け放つ。ゆったりとした風が、絵の具で汚れたカーテンを押し上げる。遠くの方では街の喧騒がいつもと同じように唸っていた。青々とした木々。コンクリートのビル。


 部下の元へ戻り、彼の広げるコピー用紙を横から眺める。遺体に握られていた方のタイトルは「連関作品」だった。これ以降にも「こういう」事が続く可能性は高い。


 部下の困ったような視線がこちらに向く。今度の紙にも、そこそこ長い文章が並べてあった。


 軽く目を通す。前回と同様に、自分たちが発見した状況についての説明が並ぶ。細々とした描写。幾つかの台詞。ただタイトルは前と異なっており、本と同じ「蜘蛛の糸」が印字してある。


「どうします? 続けるなら上の人達にも言わないと、ですよね」


 返事の代わりに後頭部をがりがりと掻いた。


 サークルのメンバーは昨日の夕方に全員揃って部室を後にしている。代表の女学生が鍵をかけ、他の部員もそれを確認しているそうだ。そして部員のだれもが、亡くなった青年との接点は無いと言っている。


 関わりが一切ない。それなのに死んだ学生がこの場所を選んだ理由は、いったい何なのだろう。


 「作品」の最後には再び、何かの小説の一節があった。


 用紙から目を離し再び窓辺に寄る。遺体が跳んだ場所。鈍く光るクレセント錠は、未だに一ヵ所だけ開けられたままだ。アルミ枠の外に広がるそれなりに整った景色。外気の匂い。まばらに点在する木々の色。立ち並ぶ校舎の向こうに微かに望める、街の欠片。


 亡くなった学生のしたい事も。彼が美術サークルの部屋を選んだ理由も。何もかもが曖昧だった。「刑事の勘」は働かない。


 左手で掴んだままの文庫本が揺れる。時が止まったような部屋。微かにこびり付いた死の気配。この部屋はやはり〝遺体が跳んだ場所〟なのだろう。


 吐いた溜め息は何もない空に溶けていった。




『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた』


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