追記
夜の中に取り残された会議室はとても穏やかで寂莫としていた。
壁掛け時計が真夜中を示す。動くものが減ったはずの街に微かな重低音が響いていた。
「おい」
部下にそう声を掛けた時も会議室は黙っていた。壁が気配を遮る。時間の進み具合が次第に狂っていく。
会議室の電気を切っていた部下が振り返った。蛍光灯は中途半端に消され、ちらほらとしか残っていない。
「はい?」
「俺はドラマや小説の謎解きものが苦手だ。あんなに都合良く証拠が揃うわけでもない。推理の披露も芝居がかっている。小説じみた作り話も気に食わない。だから出来るだけ、推測の過程やもって回った説明は省いて、端的に言いたい」
「……どうしたんですか、急に」
困惑する部下に言葉を放った。
「この『連関作品』を作ったのはお前か」
会議室は死んだような無音に包まれた。
時間がひどくゆっくりに感じる。
部下は黙っていた。動かないまま静かにこちらを見続ける。
肯定とも否定とも取れる、何とも言えない空気が流れる。規則正しく並んだ長机。散らかった用紙の束。雑に転がるコーヒーの缶。わずかに鼻につく埃の匂い。
部下はしばらく黙った後、視線を暗い窓へ投げた。仄かに照らされた会議室が鏡のような窓に淡く映り込む。
「寺尾さん」
「何だ」
「自分は結構好きですよ、ドラマとか小説のミステリー。確かにわざとらしいかもですけど、順序立てて説明されてるから分かりやすいし、納得できます」
「…………それは」
認めるということか。
そう言葉を続けるより先に部下が口を開いた。どこか挑むような目で。口の端に微かな笑みを浮かべて。捨てられた子供のような空気を纏って。
「だから、この頭の悪い部下に免じて教えてくださいよ。寺尾さんがどうしてそう思ったのか。一つひとつ、詳しく」
不意に変化した部下の態度に内心戸惑う。
「それを知ってどうする」
「確かめるんですよ」
「何をだ」
「説明したくありません」
部下の声には頑として譲らない響きがあった。全く持って意味不明だ。そもそもこの会話さえ訳が分からない。
心の隅に苛立ちが湧いた。それと同時に不思議な感覚に襲われる。「連関作品」の中盤で感じた、現実と虚構が混ざって境目が見えにくくなる、あの歪んだ感覚。
「よく分からん。お前は何がしたいんだ」
「難しく考えないでください。寺尾さんの考えの過程が知りたいんです」
「その前に教えろ。結局今回のことはお前がやった、と認めるんだな」
「嫌です、教えません。寺尾さんが先に教えてください」
「おい、」
「遊びじゃないんだぞ、ですか?」
先読みしたのか、部下が俺の言葉を取り上げた。
「自分にとっても、これは遊びじゃありません。だから教えてください」
沈黙が降りた。これ以上言い合いを続けても意味がない。気付かれないように軽く息を吸い、集中力を高めていく。
「どこから言えばいい」
「最初から。用紙のばら撒きが始まった時からです」
記憶をあの日に吹っ飛ばした。一つずつ思い返し、言葉を並べていく。
「最初はただの自殺だと思った。それは今でも変わらない」
創作物みたいなトリックなんぞ現場のどこにもなかった。周囲からの怨恨も無い。事件とも呼べないただの自殺。
「だが、話を聞いていく内におかしい点が出てきた」
「いくつですか?」
「……俺をからかっているのか」
部下がくすり、と薄く笑った。
「その話し方の方が寺尾さんは話しやすいんですよね」
気に食わないが事実だ。
机に置いてあるコピー用紙の束を指で弾く。
「……決定的なのは三つ。一つ目は、何事もあまりにタイミングが良すぎたこと」
男子大学生から受け取ったコピー用紙には「武林教授が急な出張に出たから休講になった」とあったが、この文面は、武林教授が実際に急な出張に行かないことには成立しない。都合が良すぎる。コピー用紙の文面通りに事が進んだのも納得いかない。白田の頭が良かっただけなのかも分からないが、あの予測は異様だ。亡くなった白田が、その後に起こる、部下や自分の行動まで言い当てるのは不自然極まりない。
「二つ目に、白田がコピー用紙を作ったとなると、白田の性格と行動が一致しない」
遥希の話を聞く限り、白田は見ず知らずの他者と積極的に関わろうとするような性格ではない。どちらかといえばその逆だ。もし彼が本当に心の底から誰かに干渉したいと願うなら、おそらく、コピー用紙のような誰でも作り変えられる物に縋ったりしない。遥希にまで用紙を託したことにも違和感がある。
白田遥希にまでコピー用紙を頼んだのなら、遥希が最初から白田の自殺を知っていないと辻褄が合わなくなる。遥希の行動を観ても、自分の兄の自殺を指を咥えて見ているような奴じゃない。また、死んだ後にコピー用紙が見つかるように白田が仕組んでいたのだとしても遥希が見つける保証がない。前半の驚異的な予測を行う侑季の性格と行動が一致しなくなる。遥希が侑季以外の人物からコピー用紙を頼まれた、とする方が考えやすい。実際そうだった。
「最後に、コピー用紙が俺たちの目線で書かれていること」
そもそも白田が、俺たちがこの案件に深く関わるかどうかを、死ぬ前に予測できるわけがない。白田の家族や通りかかった学生が探す可能性もあったはずだ。それでも、コピー用紙には俺たちが登場人物として描かれていた。確定していないにも関わらず「連関作品」の主人公を特定の人物に固定するのは、リスクが高すぎる。
「白田がコピー用紙を作ることは不可能だ」
言い切った俺に、部下は淡々と反論する。
「それだけですか。自分を犯人扱いするには不十分だと思いますけど」
「確かに証明できるものはないが、不審な部分は多かったんだ。お前がいつも俺より先に行動すること、白田家を初めて訪問した日にリビングに続く扉を躊躇なく開けたこと、三原の友人のミオがお前に興味を示したこと。色々な」
「それも証明としては根拠が無さすぎます。偶然だとは思わないんですか」
「さっきも言ったが、偶然にしては重なり過ぎた。今のお前の様子を見て確信も持てた。そもそも隠す気などなかったんだろ」
「どうですかね。自分が嘘をついているのかもしれません」
「そうは思わん」
「何故」
「理由はない」
半分呆れ気味に苦笑し、そうですか、とだけ呟く部下。問い詰めているのに手応えがない。単調な声音。悠然とした姿勢。起伏の少ない表情。そんな彼に疑問が湧いた。
「お前、反省しているか」
彼は無表情のまま答える。
「反省? 何故ですか」
「ふざけるなよ」
一言で、部屋が静まり返った。
遥希の怒りが、母親の叫びが脳裏に蘇る。単なる用紙のばら撒きではない。遺族の気持ちを知った上で顧みず、無関係の他者まで巻き込んだ。
「自分が何しているか分かってないわけじゃないだろ。それとも何だ。死んだ奴の名前を弄ぶのがそんなに楽しいか。こんなことをお前は遊びだというのか。俺は」
俺はそういう奴が一番嫌いだ。
部下は俯いたままだった。途中まで消された電灯で表情が読みにくい。消えた蛍光灯の分だけ、会議室の翳りが濃くなっている。沈黙が部下との間に刻まれていく。
部下が静かに大きく息を吐いた。
寺尾さん、とささやくように唇を割る。
「人は死んだらどうなると思いますか」
突然の質問に何も答えられないでいる間にも彼は尋ね続ける。
「赤ちゃんは何故泣きながら産まれてくるのだと思いますか。既視感を覚えるのは何故だと思いますか」
思考する暇も与えず、彼は言葉を紡いでいく。
「自分は時計みたいだと思うんです。夜中の十一時五十九分の後に、また零時零分から始まるみたいに。最期は最初に戻るのだと。そう思うんですよ」
こちらを向いた彼の視線。光の消えた暗い眼。
初めて彼相手に感じた、背筋を這い上がる寒気。
彼は興味を失くしたように自分から顔を背けて窓の方に歩いて行く。
「人に喋らせたままって失礼ですよね。やっぱり自分も話しますよ、最初から。どうせ忘れるんだ。憶えてたとしても寺尾さんは無理ですし」
彼は窓の取っ手を握り、外へと押し開けた。外で響いていた重低音が、冷えた空気と共に会議室へ流れ込む。窓辺に立つ部下の髪が、微かに吹く風に靡く。
「自分、小さい頃から周りに〝大人びてるね〟って言われながら育ちました。自分ではそんなつもりなかったけど。みんなと遊んでる時も、楽しく授業受けてる時も、友達と馬鹿なことやってる時も。何となく冷めてて、さばさばしてるって言われてました。コンプレックスでしたけど、そんなに気にされることなく、他のみんなに交じって楽しく過ごしていたんです。
中学に上がると、その感覚はだんだん強くなっていきました。自分で自分を監視してるような、決まったレールの上を進まなきゃいけないような。そんな緊迫した感覚でした。でも上手く言葉にできなかった。考えれば考えるほどよく分からなくなったんです。だから気にしないように頑張った。出来るだけみんなと同じように過ごそうと頑張った。どうせ思春期の何かだろうって無視してました。
その違和感に真正面からぶち当たったのは、高校に入学する前でした。朝のテレビでやってた、高校生の転落事故についてのニュースでした。今でもよく覚えています。男子生徒が掃除中に学校の外階段から落ちて骨折したやつです。そのニュースを見た時に頭に浮かんだんです。
コンクリートに散った血溜まりと、その光景が起きる大まかな日付と、それが自殺だってことが。まるで実際にそういう場面を見たことがあるみたいに。次の瞬間には食べてた朝ごはん全部吐いちゃいました」
脈絡もなく始まったはずの彼の話。
しかし、口を挟ませないほどの威圧感が俺と彼の間に漂っていた。
頭の隅で何かがちりちりと焼ける感覚がする。何かを思い出しそうになる。彼から貰ったコーヒーの苦みが舌の上で思い出したように広がっていく。
鏡のように窓に映る、白く照らされた会議室。彼が開けた一ヶ所だけが夜色に塗られていた。表情が見えない。見えるは彼の背中のみ。
「高校入ると、その既視感めいたものを見る回数は格段に増えました。それが何度も続いた先に行き着いたのが、『白田侑季』です。
白田は高三の時に同級生になりました。クラスの中では存在が空気で、意見を言わなくて、いつも独りで過ごして。不愛想だから話し掛ける人もいなかった。
自分は仲間とワイワイやる方が好きだったんですけど、何故だか白田に絡むようになりました。周りから変な目で見られても構わなかった。自分が勝手に、あいつのどこかに興味が湧いたんだと思います。最初は無視されたけど、だんだん皮肉混じりでも会話するようになって。嫌がるあいつをよく振り回していましたね。何度か家に押しかけたこともあります。遥希くんとも会いました。
結構楽しかった。高校入学前に見た既視感が頭に残ってただけじゃなくて、純粋に楽しかった。あいつ口は悪かったけど、自分と話してて笑顔を見せることもあった。楽しかったんです、本当に。だからこそ自殺と結びつかなかった。
いつだったか、白田の部屋のパソコンを勝手に見たことがあったんです。パソコンの中身についても、部屋に入った時に感じた既視感で何となく予想はしてましたけど。『連関作品』のアイディアが事細かに書かれたメモがありました。もしかしたら白田は本当に自殺を考えているのかもしれない。でも、白田は何も喋らなかった。
その頃にはもう、自分の既視感に自信があったんです。超能力とか本気で考えたくらいに。怖かったけど、信じさせる切迫感がありました。だから白田に内緒で、メモのコピーを取りました。使わない日が来る事を祈って。というか、自分が何とかさせると決めていました。取り越し苦労ならそれでいいからって」
彼が一つ息を吐いた。再び息を吸って口を開く。
「三年生は受験に向けて、理科分野と社会分野で自分の好きな科目を選択できるんです。自分は倫理を取ったんですが、その授業中に感じた既視感が今までで一番酷いモノでした。
先生がニーチェについて説明している時でした。先生が黒板に『永劫回帰』って書いたんです。その瞬間に酷い頭痛がして、頭の中がぐちゃぐちゃになって、電源切れたロボットみたいに卒倒しました。保健室のベッドの上で目が覚めて、黒板の文字を見て感じた頭痛がフラッシュバックだったと分かった時、本当に発狂しそうになりました。女子みたいに涙ぼろぼろ零して、保健室の先生を困らせましたね。
あの時、心の底から理解したんです。自殺を止めるのが不可能に近いことも。自分が犯した間違いの数も。それでも賭けた一つだけの方法も。
俺が既視感を覚えるのに、誰も何も覚えていないのが不思議だった。〝与えられた使命〟とか〝決まった運命〟とか、そんな言葉は大嫌いですけど、俺にしか既視感が起きないんです。あいつの家族にさえ起きないのに。
感じた既視感は少なかったけど、本気で活かしました。出来るだけ一緒に行動した。独りにしないように気を配った。あいつが楽しむような話題を考えた。重荷扱いされないようにドライに接した。あいつ周りに干渉されるの嫌いだし、自分から干渉するのも嫌いだから、周りの奴らにも白田本人にも気にされないように、自分に出来る精一杯の配慮をした。
でも、自分がどれだけあいつにしても、オレがどれだけあいつに言っても、オレがどれだけ心配しても。あいつは死ぬんです。全部嫌いだって顔をして。全部諦めた風に。何もいらない、何も欲しくないって。あいつは、オレのことなんかお構いなしに死ぬんです。
悔しかった。楽しかったはずなのに、裏切られた気がした。何が駄目なんだろうって悩んだ。諦めようって考えもした。あいつの死はあいつの自由だって。オレが口挟むことじゃないって。〝友達〟とか名前の付いた関係じゃないからって。それでも」
彼の肩が一瞬、小刻みに震える。
「オレは嫌だ」
窓の外に聳えるビル群。
中途半端に消えた会議室の灯。
その狭間に立つ彼の背中。
「嫌なんだよ」
押し殺した声で彼は囁く。絞り出された叫び。身体を支えるように力が込もった腕。溢れそうな何かを飲み下す息遣い。
「だから誰かの手を借りた。ただ普通に頼っても、頭のおかしい奴にしか思われない。あいつみたいに回りくどい手を使うんです。オレが、人生の中で印象に残ったことを既視感として憶えてるみたいに。みんなの記憶に疵として残すんです。
高校を卒業して、警察に採用されて、寺尾さんと会いました。寺尾さんの顔を見た時から、色々既視感を覚えたので、多分そういうことなんだろうなって思いました。
そしてあの日の夜、白田が自殺をしました。
コピーしていた『連関作品』のメモを使って、用紙をばら撒きました。男子学生の子には短期バイトとして。武林教授と遥希くんと三原さんには土下座をして。悲しんでいるのが自分だけじゃないことを確認したかった、っていう気持ちもあったのかもしれません。出来るだけ沢山の人に。白田の一番嫌いで、一番願っていた『誰かの記憶に残る』という形で憶えてもらう。何度でも、何回かかっても良い。そうやってばら撒き続けました。
でも途中から狂った。オレが忘れていたから中途半端になった」
彼が肩越しに視線を投げてきた。
「寺尾さんが作ったんですよね。『仮面の告白』のコピー用紙」
軽く頷いて見せる。
「ああ、そうだ」
実家に置いてあった白田のパソコン。その中にあった「連関作品」の草案データを読んで、俺が勝手に作った。部下の反応を見る為と時間を短縮する為だった。
メモには題名と末尾の一節は書いてあったが、状況描写は書かれていなかった。当然だ。いつも事細かに現実と関連していた状況描写は部下が自分で書いていたのだ。俺にはそんな芸当ができるはずもなく、作る際にはカットした。あの「作品」だけ短くなったのはそのせいだ。
「オレも完全には覚えていられない。同じ方法を前にもやってしまったのかもしれない。同じ間違いを前回でも犯したのかもしれない。でも間違えられない。間違えたら、忘れてしまったら、あいつはまた同じことをする。目を離した隙に。気付かない内に。また同じことを繰り返すんだ」
彼は再び外を眺める。静かに漏れる声は、言った傍から無残に消えていく。
「何回も死なれる気持ち、分かりますか? 目の前で血が飛び散って。骨が折れる大きな音がして。曲がった脚とか首を見つめて、あぁまたか、って。悔しくて、惨めで、情けなくて。また最初からしなきゃ、って残酷なこととか考えるんです。
酷いことしてるって自覚してます。どうせ上書きされるから、なんて言えない。何回も何回も繰り返し、終わらない悪夢を見るような苦痛はオレが一番よく分かってる。それでも、あいつがいないなんて許されない。絶対に許さない。大袈裟かもしれないけどそう想うんです。だから『作品』を書いたんです。
あいつが考えた『作品』をオレが創ったんです。
いままで完成しなかったけど、今回やっと最後まで出来た。白田の遺言は予想外でしたけどね」
先程閉じたパソコンに自然と視線が動く。サイトの白い頁に書かれた白田の遺言。白田の願い。
忘れて欲しくない。
忘れられない人がすぐ傍にいることに白田は気付かない。気付かないまま死んでいく。
彼の話を聞いても、信じることはまったく出来なかった。
非現実的。作り話。空想。俺にはそうとしか思えなかった。
それでも。
死後に記憶が消去され、何度も同じ時間を生きることが本当だとしたら。
それを彼が続けているのなら。
間違っている。
当事者でない俺が無責任に言えることではない。理由も曖昧だ。だが、こんな方法は絶対におかしい。
そんな考えが頭の中に渦巻いているが、やはり口に出すことは出来なかった。
会議室の空気はすっかり冷え切っている。昼間の残暑は欠片も無い。静かで重苦しい夜景。中途半端に消えた会議室の灯。冴えた夜気。どこかで鳴っている葉擦れの音。
「意味の分からない話してすみません」
彼はこちらを視ることなく呟く。その彼の背中を、別世界の出来事のように眺める自分。
「おかしな話ですよね、現実的じゃないし。寺尾さんの嫌いな『小説じみた作り話』ですよ。信じてもらわなくて結構です。でも断言する」
固い彼の声が、部屋に響き渡る。
「これは、絶対に遊びなんかじゃない」
彼を煽った自分の言葉を思い出し、胸が疼く。
「まだ終われないんです。まだ誰も気付いてくれていない。寺尾さんは言ってくれました。『始めたことは終わらせなければならない』って。ここまでしてきた。もう止まれない」
嫌な予感がした。眼前に別のフィルムが重なったような感覚。その歪んだ感覚に伴って湧き上がる、懐旧と恐怖。頭の奥が記憶で焦がされる。静かだった空間が耳鳴りで溢れる。「この後彼が何をするのかを俺は前に見たことがある」。
どうせ忘れる。記憶に疵として残す。今回。上書き。既視感。
「色々すみませんでした、寺尾さん」
「おい」
呼んだ。それでも彼は話し続ける。
「またお世話になりますね」
「聞けよ」
「銘柄は頑張って思い出すので、また優しくして下さい」
「聞けって言ってるだろっ」
声を荒げた。じわりと広がるコーヒーの苦み。
彼の声が遠い。
夜が、街が。
歪む。
「おやすみなさい」
彼の体がゆっくりと窓の向こうに墜