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冥記





 画面に映った文字列。その最後の一節を読み切った。


 凝り固まった肩の力を抜き、パイプ椅子深くに腰を落ち着ける。丁度隣の部下も読み終わったようで、目元を押さえながら大きく息を吐いている。会議室の窓外に映る空は夜に染まりつつあった。


 部下が、参った、といった表情で呻く。


「結構な長文でしたね、これ」


 今回の「ごんぎつね」は、白田遥希が持っていた「嘘をつく子供」に次ぐ長文だった。画面の右下には「7/7ページ」と表示してある。コピー用紙七枚分といったところか。


 形式はこれまで通りだった。「ごんぎつね」という題名と「作品」を見つけた時の状況描写、文末に書かれる一節、の計三点。ただし状況描写の内容については、前回、前々回と同様に、現実に起こった事実とは掛け離れていた。


 文章の中では、白田のアパートで既に見つけており、その場で部下と読んでいる、ということになっているが、実際最初に見つけたのは俺一人だけであり、部下は不動産会社の社員に呼び出されて部屋にはいなかった。もちろん読み終えた場所と時間も異なる。


 新しく買った自販機のコーヒーに手を伸ばしながら、もう一度末尾の一節に目を向ける。




  -------------------------------------------------------------


 『永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。』


  -------------------------------------------------------------




 画面上で展開されていた「作品」のウィンドウを閉じ、インターネット検索画面に変える。そのまま検索欄に一節を打ち込んだ。人差し指でしか押せない機械音痴のため、少し手間取る。


 結果は一瞬で出た。文明の利器は本当に何でもアリだな、と改めて痛感する。


 部下が横から画面を覗き込んできた。


「『仮面の告白』ですか」


 そのままいくつか情報を集め、もう一度白田の文章を見直す。蛍光灯に対抗して光る液晶画面。細々と綴られる文章。無機質な単語。


「―――――無いな」


 呟いたその言葉に部下が一瞬驚き、ゆっくりため息を吐いた。


「またなんですね……」


 無い、と言ったのは、文章に含まれているはずのヒントだ。今回の場合、次の場所を暗示し、かつ「仮面の告白」にまつわる何らかの物が文章中に明記されているはずだった。


 だが何度読み返してもそれらしき単語は見当たらない。「ごんぎつね」に関する本もない。前回の「山月記」に続いて二度目のことだ。


 形式は、初めに発見した文章と何ら変わっていないが、内容は様変わりしてしまった。


 予測が当たらない。


 続けるためのヒントがない。


 途切れそうで終わらない。


「どうしましょうか。また白田の部屋にでも行って、」


 そこまで部下が言った時、会議室の扉が開く音がした。


 音の方に視線を向けると、他部署の奴が一人立っている。俺とは目を合わせないまま部下を軽く睨み「おい」と不愛想に部下を呼んだ。


「ちょっと来い」


 部下が目で俺に断りを入れ、扉の方に駆け寄っていく。


 彼は数分足らずで会話を終えて帰って来た。が、椅子に座ろうとしない。ただ突っ立っている。顔も少し蒼白いような気がした。


「どうした」


 そう声を掛けて、ようやく我に返ったようだった。慌てて言葉を続ける部下。


「あぁ、いえ。何でもないです。すみません」


「応援要請か」


「そうみたいです。また大きな案件が入ったらしくて」


 部下が再びすみません、と頭を下げる。


「寺尾さんに任せっきりになってしまって」


「気にするな」


「車のキーは置いておきますね。何か分かったらまた連絡してください」


「あぁ」


 長机の端に鍵を置き、それじゃあ失礼します、ともう一度頭を下げ、部下は足早に会議室を去って行った。


 急に会議室に静けさが漂う。乱雑な資料の山。散らばったこれまでのコピー用紙の数々。壁の遥か向こうで騒ぐ人の声。


 大きく息を吐き、椅子に深く凭れる。


 緩やかに深呼吸する。


 しばらく経ち、気分が落ち着いたところで腰を上げた。


 長机に並べられた大量の缶コーヒーをいくつか振り、残りがあったものを飲み干す。捨てに行くのが面倒だ。部下からもらった缶コーヒーはまだ飲まずに、他のと別けて置いていた。


 薄いパソコンを小脇に抱え、車の鍵を手に取り、資料はそのままに会議室を出た。







 夕陽の欠片が街の向こうにこびり付いていた。夜の帳は無関心に街を覆っていく。どこか既視感のある時間帯だった。


 空気は静かだった。昼間とは打って変わって涼しい。暑かった夏が終わろうとしている。街の息遣いが彼方で鳴っている。


 インターフォンを一度だけ鳴らす。あまり間を置かず、玄関口に一人の女性が現れた。


 髪を短く後ろで結ったその人は俺の顔を確認し、家の中に向かって声を上げた。


「ごめん遥希、先に食べてていいから」


 無意識に息が詰まったが、奥の方で「分かった」と返事が聞こえただけで本人は出てこなかった。そのまま女性は後ろ手で玄関を閉める。周囲が再び夜の静けさに浸る。


 強張った顔で手の平を組んだまま、白田の母親は口を開いた。


「何の御用でしょうか」


 気付かれないように軽く息を吸う。集中力を極限まで高めた。目を真っ直ぐ見つめ返す。白田の母親も目を逸らすことはしなかった。


「夜分にすみません。幾つかお聞きしたいことがあります。お時間よろしいですか」


 合わせたままの彼女の視線に険しさが混じる。それでも応対用の薄い笑みは消さないようだった。血の気の薄い頬。微かに嗄れた声。


「えぇ、ただあんまり長いと遥希が気にします。そろそろ主人も帰ってくる頃なので、早く終わらせて帰ってください」


「分かりました」


 そう答えながら頭を素早く整理する。ここに来るまでの間に考えていた事柄を組み直し、優先順位をつけていく。


「お聞きしたいことは三つです。一つ目に、ここ一ヵ月ほどの間この家に入った人物を教えてください。できるだけ正確に」


「いいですよ、別に避けなくて」


 白田の母親が穏やかに、しかし確実に刺さるように制した。


「遠回しに言わなくて結構ですから」


「…………申し訳ない」


「〝侑季が死んでからは〟親戚とあなた方警察だけです。それ以外はこの玄関口でしか応対していません」


「そうですか。……二つ目です」


 ここでもう一度、呼吸を整えた。


 冷ややかな夜気が肺を満たす。


 覚悟を反芻し、背筋を伸ばす。家々から洩れる灯。黒さを増す影。乾いたアスファルトの匂い。


「白田侑季さんは、どんなお子さんでしたか」


 瞬間、白田の母の空気が変わった。


「どうしてそんなことを聞くんですか」


「……捜査と関係があることなんです」


 彼女の組んだ両手に、みしみしと音が出そうなほどに力が入っている。うっ血したように指先が変色していくのが暗がりでも分かる。薄い笑みとは対照的に、目から光が消えている。心を閉ざされたのは明らかだった。


「そんなことを聞くために来たんですか」


 彼女の語気が次第に強く揺れる。肌で感じられる抑え切れない怒り。


「お願いします」


「侑季は自殺だったんです。それなのに何故捜査を続けるんですか。侑季と何も繋がりが無いくせに、何故そんなに気にするんですか」


「詳細は」


「それともなに。侑季は殺されたんですか。大学でいじめられてたんですか。自殺した理由が少しでも分かったんですか」


 言葉を挟む余裕がない。白田の母親は壊れたように声を上げ続ける。


「私は、あなた方がよく分からない。何一つ教えてくれないのに何度も何度もここに来る理由は何ですか。何一つ進展がないのにここに来る意味は何ですか。監視みたいに何度も来るのはなぜなんですか」


「それは」


「他所でも侑季のことを訊き回ってるんですよね。全部全部暴き立てて、何がそんなに楽しいんですか。死んだ侑季をダシにして推理ゲームですか。想い出を土足で踏み躙ってボロボロになるまで喰い散らかすのがあなたの趣味なんですか」


「白田さん」


「黙れぇっ」


 血を吐くような叫びが、闇に響き渡った。


「この前も、その前も、ずっと前からおんなじこと言ってるでしょっ。侑季は死んだの。自殺だって言ったのはそっちじゃないっ。身元確認のためだとか言われて侑季の、死体も見させられた。言いたくもないのに事件かもしれないからって何度も何度も喋らされた。私たちは知らないのに何にも知らないのにだって侑季は何も言ってくれなかった何にも教えてくれなかった全然一つも教えてくれなかったああああああっ」


 あぁ、あぁ、と言葉にならない声で、彼女は何度も頬を濡らす。壊れた笛のような音を出す喉を苦しそうに動かしている。


 言い返せる言葉などない。


 そういうことを俺はしている。


 白田家の玄関先は束の間、静寂に包まれた。聴こえるのは白田の母が息を切らす声のみだった。


 その時、白田の母の背後で玄関扉がゆっくりと開いた。隙間から姿を現したのは案の定、白田遥希だった。


「母さん、代わる。中に入ってて」


 白田の母は気が付いたように手の甲で顔を拭った。それでも眼の端からはとどまることなく涙が滲み落ちる。そのままふらふらと家の奥に消えていった。


 母の背中を見送った後、白田遥希は視線を合わせないまま口を開いた。


「帰れ、って言ったよな。あのとき」


 部下と訪れたときと変わらない、冷えた鉄のような話し方だった。


「………どうしても聞きたいことがあるんです」


「もう一回同じことを言ってやろうか」


「これで最後なんです。頼みます」


 そう言って頭を下げた。が、彼の反応は変わらなかった。


「聞くわけねぇじゃん。もう話せることは話したし、コピー用紙も渡した。何言ったか知んねぇけどさ、普通に迷惑なんだよ。さっさと帰れ」


 淡々と拒絶する遥希の言葉に、ふと思い出したことがあった。白田の母親に尋ねる前に優先順位を下げた質問が、再び頭をよぎる。


 顔を上げた。呟くように言葉をねじ込む。


「それだ」


 訳が分からない、といった表情で遥希が視線を合わせた。


「君、コピー用紙を誰に頼まれた」


 白田遥希の反応は変わらなかった。だが一瞬だけ不自然に間が空いた。彼の目の奥が揺れた。


 捕らえた。


 白田遥希が口を開くのを遮るように言葉を繋いでいく。


「私はもうこの案件を終えるつもりです。ここに来るのは、これ以降断じてありません。だからあと三つだけ聞きたいことがあります」


 質問の個数を増やしたが遥希は気付いていない。しばらく黙った後、遥希が言い返してきた。


「あんたら、いつも一人か二人だよな。勝手な捜査は規則違反なんじゃねぇの」


「終わらせるためです。始めたことは終わらせるのが当たり前です。その為だったら、規則違反なんぞどうだっていい」


「―――――本当に最後だからな」


「はい」


 もう一度、静かに深呼吸する。さっきより集中力は落ちてしまっているようだが仕方ない。


「一つ目。あなたのお兄さん――白田侑季は、中学か高校の頃、誰かを家に呼んだことがありますか」


「そんなのいちいち覚えてる訳ねぇだろ」


「大体で結構です」


 遥希が少し口を噤む。


「よく家に来てたヤツはいたよ。高校ん時。男子で制服も一緒。タメ口だったし同級生だろ」


「分かりました。二つ目に、あなたから見たお兄さんはどんな人でしたか」


 一瞬視線を険しくした遥希が軽く鼻で笑った。


「さっき聞いてたのはそれか。よく親の前で言えたな、アンタ」


「……すみません」


「地味だったよ。性格曲がってたし、影薄いし。変なトコで几帳面だったし、考え方も面倒くさかった。どうでもいいことまで気にし過ぎてたから、メンタルも弱かった。家族じゃなかったら近寄りたくもねぇくらい嫌な奴だった」


 そこまで言って、彼は軽く息を吐いた。


「でも、一応兄貴だったしな。馬鹿みたいに真面目で、くだらねぇ冗談言って。いつも回りくどい手とか使ってたけど、それもアイツなりの配慮だったんじゃねぇか、って今では思う。そのくらいだよ」


「十分です」


 実際、それだけ聞けば事足りた。こういう聴取においては家族の力ほど大きいものはない。周辺人物の話とは重みが違う。


「最後に。お兄さんのパソコン、まだ置いてありますよね」


「あぁ」


「そのパソコンの中のデータを頂きたい」


 遥希があからさまに訝しむ。


「何に使うんだよ」


「探しているものがあるんです。文書ファイルだけで構いません」


 遥希は何か感付いたようだったが、詮索はしてこなかった。


「入ってくんなよ」


 そう言って踵を返し、遥希は一度玄関の向こうへ消えた。


 遥希が再び玄関に出てきたのは、それから五分ほど後のことだった。


 何も言わず、つまんだUSBを差し出してくる。


「助かります」


「二度と来んな」


「はい」


 次の瞬間には、遥希の背中は扉の裏に消えていた。乱暴にかかる鍵音。家から洩れる灯。黒々とした民家の影。彼方で鳴る街の息遣い。


 門扉を閉め、近くに停めていた部下の車に乗り込んだ。


 運転席に座った途端、体中の力が抜けた。思わず呻き声が出る。


 こうなることは大体予想していたが、いざ直面するとやはり精神的にくる。これまでにも同じような場面に向き合ったことはあったが、絶対に慣れることはないだろう。それはこの年になった今でも変わらない。メンタルが弱いだの、気が緩んでいるだのとは話が違う。


 車内の天井を、何があるでもなく見上げる。


 不意に、昔の同僚のことが脳裏に浮かんできた。


 まだ新米だった頃、割と酷い事件の聴取を取らされたことがあった。今の自分の部下もそうだが、若い連中はそういう脚を使わされる仕事が多い。新米の同僚と二人で遺族に会いに行き、何度も何度もなじられた。


 同僚は頭は悪かったが、変に真面目な奴だった。余るものまで抱え込み過ぎた同僚は遺族の聴取を取れなくなり、仕事を辞めた。色々なものを削ぎ落としていった自分には最初分からなかったが、今なら少しばかり彼の気持ちを汲み取れそうな気がした。


 何も教えてくれなかった。


 そう叫んだ白田の母親の悲痛な声が耳から離れない。定まらない感情に押し潰され、何も言えず、ようやく出てきた叫びだ。


 ずっと愛していたはずなのに。どうして何も言ってくれなかった。私はなぜ気が付かなかった。なぜ取り残された。なぜもっと。どうして。なぜ。


 なぜ、何も教えてくれなかった。


 一括りにはできないが、良くも悪くもそれが家族なのだろう。


 近いからこそ痛い。近いからこそ言えない。近いからこそ知らない。


 そこに絆を見出したがるのは悪いことだろうか。


 そこまで考えて一度座席の背凭れを倒し、身体を伸ばした。筋肉がじわじわと弛緩していくのが分かる。大分思考が逸れてしまった。頭を切り替えて、今回のことを整理してみる。


 白田は、家族の中ではかなり普通だったようだ。元々の性格はあるにしても、遥希の口ぶりからは、不器用だが芯は曲がっていない人物のように感じた。面倒くさい性格だが冗談も言う。今まで相手にしていた白田の影とはまた違い、人間味が加わった気がする。


 対して三原から聴いた白田の人物像は、最初に感じた白田の影と似ている。誰とも関わらずに距離を置き、必要以上の会話をしない、一切の干渉を拒絶するような態度。常に一人で行動し、おとなしく、透明な存在。これも間違いではないのだろう。


 三原は聴取の中で嘘をついていない。聴取の間ずっと観察していたが、嘘をつくときに現れる兆候が見られなかった。ここは、今までの自分の経験を尊重する。彼女は嘘をついていなかった。それは、これまで聴取してきたほとんどの人々にも言える。まぁ数人違う奴もいるが。


 大雑把に推測すると白田侑季は、親しい者とそれ以外の者とで、対応の仕方をはっきり区別する性格だったと考えられる。自分の内面を知られないように、自分の外面を揶揄されないように隠す、といったところか。それも感付かれないよう極めて巧妙に。


 ここで一つ、気になる点が出てくる。


 何故白田は赤の他人にコピー用紙を押し付けたのだろう。


 対応の仕方をはっきり分けるのなら、面識のない人物には一切干渉しない姿勢を崩さないはずだ。自分が命を絶った後のことを文章に起こして配り回る、というのはあまりに芝居がかっているし、干渉の度合いもかなり高い。


 自殺を考え始めて気が変わったのだろうか。死を前にして自分の考え方を変える、というのはよくあることのような気がする。


 だが、それだと家族である遥希にまでコピー用紙を頼む必要がなくなる。遥希曰く、白田侑季の使う回りくどい手が彼なりの配慮らしいのだ。家族にまで配慮する奴が、「自分は自殺する」と言っているようなものをわざわざ遺すとは考えにくい。


 そして、コピー用紙の人物について尋ねた時の、遥希の眼。


 絡まった思考を一度切って意識を現実に引き戻し、助手席に置いていたノートパソコンに手を伸ばした。起動したパソコンにUSBを差し込む。ざっと中身を確認した後、胸ポケットの携帯を取り出し、メール画面を表示させる。宛先は部下に設定した。


〈用紙を見つけた。時間が空いたら来い〉







 会議室に戻ってわずか数分後、把握していたようなタイミングで部下が入って来た。


「見つけたんですか」


「あぁ」


「いったいどこで」


「白田の実家のパソコン」


「え」


 固まる部下に構わず、開いたパソコンを部下の方に押しやる。画面にはコピー用紙のデータを既に表示させてある。


 画面を覗き込んだ部下が、真剣な表情で尋ねた。


「文面、これだけですか」


「あぁ」


 パソコンの画面は部下の方に向いているため、こちらからは見えないが、内容は頭に入っている。一ページにも満たない。これまでの用紙の中で最もシンプルなもの。




  -------------------------------------------------------------


     仮面の告白



 https://www.acc.deepbottom.ne.jp/report-of-queenofhearts/




『女王様は怒りでまっかになり、しばらくのあいだ、まるで野獣のようにアリスをにらみつけてから、こうさけばれました。「この者の首をはねよ!」』


  -------------------------------------------------------------




「このURLって、」


「調べてある」


 今度は部下に、ついさっき印刷したコピー用紙の束を渡す。『仮面の告白』に書いてあるURLを検索に掛けて出てくる、ある個人用サイトだった。真っ白の背景に、黒い明朝体。何ら装飾のない殺風景な画面だった。部下に渡したコピー用紙は、その中にあったファイルを印刷したものだ。


 受け取った部下が、数時間前『ごんぎつね』を読み終えた時と同じ呻き声を上げた。


「……全部読まなきゃダメですか」


「好きにしろ。俺は読んでない」


 計六枚もの束。題名は「不思議の国のアリス」。内容は「『不思議の国のアリス』に登場する『ハートの女王』が文学的・教訓的に何を暗示したもので、作品内でどのような役割を持っているのか」とかなんとか。


 端的に言えば「不思議の国のアリス」のとあるキャラクターに対する、個人的なレポートのようなものだった。





  -------------------------------------------------------------


    不思議の国のアリス



 「不思議の国のアリス」はイギリスの数学者 チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン氏がルイス・キャロルの筆名で出版した、世界的に有名な児童文学作品である。読んでいない人の方が少ないであろう本書は、ナンセンス表現やパロディ、「かばん語」など多数の言葉遊びによって構築されており、また登場するキャラクターも随分個性的である。チェシャ猫や帽子屋、三月兎、代用ウミガメなど種類も様々だ。その中でも今回は「ハートの女王」について考察するが、まずは作品創作の背景から考えてみたい。

 「不思議の国のアリス」は1865年に出版されたが、成立の発端となった出来事は、それから三年程前に遡る。1862年7月4日、キャロル(ドジソン)氏は、かねてより親交のあったリデル家の三姉妹、長女ロリーナ、次女アリス、三女イーディス、加えてトリニティ・カレッジの同僚ロビンスン・ダックワースとともに、アイシス川(テムズ川の別名)をボートで遡るピクニックに出掛け、…………



 ( 内部省略 )



 …………勿論これについては、著者であるキャロル氏も述べている。

 以上のことから、ハートの女王は、盲目的な怒りに対する批判と、不条理な激情の否定を込めた存在ではないか、と考える。

 但しこれは個人的な主義主張であり、全面肯定するものではないことをここに明記する。

 世界に名だたる児童文学「不思議の国のアリス」は、前述のマーティン・ガードナー氏を初め、様々な評論家によって研究の対象とされてきたが、どの解釈もその本質を捉えることは出来ないであろう。

 教訓主義を含まず、純粋に子供が楽しめる作品を描こうとしたキャロル氏の意志を尊重するためにも、私たちはこれからも「不思議の国のアリス」に親しんでいきたい。ハートの女王だけではなく、白ウサギも帽子屋もチェシャ猫も、いつも私たちの傍にいるのである。


                                       了


  -------------------------------------------------------------





 ざっと目を通したらしい部下が首を捻っている。


「やけに展開が早いですね。『仮面の告白』と『不思議の国のアリス』の二部が同時に見つかるなんて」


 それに、と部下がこちらに向かって用紙の束を振って見せる。


「今回のこの『アリス』は状況描写じゃない」


「あぁ、今回だけは違う。それで終わりだしな」


 「不思議の国のアリス」と題された文章には「ハートの女王」についての考察ばかりが綴られており、見つけた時の状況描写が一切書かれていない。


 加えて文章の末尾にいつもの一節も無い。


 また「不思議の国のアリス」が載せてあった個人用サイトには「ハートの女王」についてまとめられた文章があるだけで、他には何もなかった。今流行りのブログでもなく、他のサイトと繋がっているでもない、一つの独立したサイト。


「サイトはおそらく、白田が作ったものだろうな」


 部下はまだ首を傾げている。


 このコピー用紙捜索が始まった当初に断定された「自殺」の線は、結局覆ることはなかった。これまで続けてきたコピー用紙の捜索も単なる副産物でしかなかった。特に何か得られるわけでもない。捜査とは全く無関係の行為だった。


 無機質な蛍光灯が、音の少ない会議室を漫然と照らす。


 ただ、コピー用紙の捜索をしなければ分からなかったこともある。曖昧なものばかりで、確たるものは何一つなかったが、周囲の人間を視ることは少なくとも「捜査の範囲外」などではなかった。


 白田の周囲にいた人物が、彼らの言葉が、その時の景色が、脳裏をよぎる。


 応対する人物によって内面と外面を巧妙に装っていた白田侑季。几帳面で不器用な性格。


 その面倒臭さを疎ましく思いながらも兄として認めていた遥希。二人の間の記憶。


 何も言わず目の前からいなくなった息子に囚われた母親。


 高校時代同じ教室にいながらも、透明な侑季に関わらなかった三原。


 遥希の記憶に残っていた同級生とおぼしき少年と、三原の友人のミオ。


 両親を説得して住み始めた大学通学用の部屋。殺風景な内装と街を望む景色。


 全く面識がないのに用紙を任された男子学生。


 講義への参加を覚えていた武林教授。


 白田侑季が飛び降りた、美術の講義に使われていた教室。檸檬を描いた絵。


 最上階の窓辺。開かれたままのクレセント錠。置き去られた靴。


 その向こうに落下した侑季の体。


 ばら撒かれたコピー用紙。起こすはずのない干渉。予測と行動。


 目を閉じ、大きく深呼吸をした。隣の部下がしみじみと呟く。


「これで、ようやく終わったんですね」


「勝手に終わらせるな」


「――――へ?」


 部下が情けない声を上げた。





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