赤い赤い海だった。
「大人しくしなさい。」
その場に立っていた女性に拳銃を突きつけ私はそう叫んだ。いや、叫んだうちには入らないかもしれない。ピクリともしないのを見て私は素早く動いた。
「殺人の容疑で現行犯逮捕する。」
私は女性の細い手首に手錠をかけた。
「ご苦労だったな、布施。」
いかにも部下から嫌われてそうか上司に名前を呼ばれて振り返った。
「ありがとうございます。」
本当はそんな労いの言葉をかけるつもりなんて一切ないのだろう。おそらく本当の狙いは別にある。
「ところでアイツのことなんだが、逮捕する時の様子はおかしかったか?」
やっぱりその事か.........。
「おかしくはありませんでした。ただ、拳銃を突きつけても無反応でした。殺人犯だとは思えないほどの落ち着き様でした。」
アイツとは先ほど逮捕した殺人犯のことだろう。わかっているのは性別だけで、身元を証明できるものは何一つ持っていなかった。取り調べが行われたはずなので名前と歳ぐらいは判明しているかもしれない。
「そうか.........。」
私の上司、田中警部はしばらく考えをまとめようと努力したようだが諦めたようだ。
「アイツが殺人を犯したというのは事実だ.......。」
「はい?」
言っている意味がよくわからなかった。私は犯人が人を殺しているところ見たのだ。なので現行犯逮捕した。ただし私が見た時にはもう亡くなっている被害者に何度も何度も包丁を突き刺している壊れた人間だったが...。私がいることに気づいた途端包丁を手放し放心したように突っ立っていた女性は先ほどまで非人間的行為をしていたとは思えないほど穏やかだった。その目に映っていたのは赤い赤い海だった。
「お前の言いたい事はわかる。それに、包丁についている指紋とアイツの指紋が一致した。あの返り血も被害者のものだった。ただ.........。」
「ただ?」
歯切れの悪さに若干苛立ちながら私は先を促した。
「記憶が消えている。」
「え?どういうことですか?説明してください。」
田中警部はしぶしぶといった様子で語り出した。
「じゃあ、まずはアンタの名前から聞こうか、名前は?」
俺は目の前にいる顔色の悪い女を見た。はっきりした顔立ちは美人の部類に入るのだろうが、俺の部下よりは劣っているように見える。それでも年齢の違いからだろうか、この女には大人の色気というものが備わっている。
「わかりません...。」
少したってから帰ってきた言葉はたった一言だった。
「知らばっくれても無駄だよ。今どきアンタの名前や住所を調べるなんて簡単なんだから。」
よくあることだった。自分の名前を明かさなければなんとかなると思っている人はよくいるが、そんなことは決してない。