その五
数億年ぶりの更新です。
ハーバリー家の養子として、この家に住み始めてから何週間かたったと思われる今日この頃。私、アイリス・ハーバリーはとてつもなく暇を持て余していた。
「幾ら頼りになる従者がいるからと言って、慢心するのはいけない。どこに君を襲った者達がいるかわからないのだからね。私が探して無事捕まえることが出来るまでは、外に出ては行けないよ」
必要なものがあったら買いに行かせるから、遠慮なく言いなさい。そう言って私の頭を撫でていかれたお父様の言いつけを破るわけにもいかないので、基本的には自室に籠りっぱなしの生活を送っている。だが、実に退屈である。毎日奴隷のように働かされた体は、見事に躾られてしまったようで怠けることを恐れている。なんなんだ、このゴロゴロしている日々は。怠惰にも程がある。貴族というものは、こんなにもつまらない日常を送っているというのか? いや、それはないか。これは、私だけに適用される例外中の例外だろう。貴族のロリお嬢様だって、まだやることがあるはずだ。
「レヴィウス」
「はい、なんでしょうかアイリス」
「何か……暇を潰せるようなものはないかな。この、何もしない虚無の時間が恐ろしくて仕方ないの。庶民の体が疼いているのよ」
「そうですね……」
最近呼び捨てにも慣れてきたレヴィウスに何か案はないか尋ねてみたところ、一瞬悩ましげな表情を浮かべたあと、ぱっと思いついたのか目を数段大きく開けた。
「アイリスは勉学にご興味ありますか?」
***
私の部屋にはなんとも素敵な勉強机(と呼んでいいのかわからない程のものである)があるのだが、その机の上にどんどんと分厚いの本が積み重ねられていく。いつも思うのだが、ハーバリー家の使用人さん達はすこぶる仕事が早い。数分前にレヴィウスが指示を出していたはずなのだが、あまり時間も経たずに大量の教材を持ってきたでは無いか。恐ろしすぎる……。
「さて、アイリス。まずは貴方の実力を試させて頂きたいと思います。覚悟はよろしいですか?」
「ヨロシクナイデス」
「では早速」
私の言葉など最早届いていないかのようにレヴィウスは本の山から一冊抜き取り、パラパラと捲り始めた。この従者、数週間の内に随分の私の扱いが雑になった気がする。気の所為だろうか。いや、フレンドリーなのは有難いのでいいが、少し容赦というものが消えかけているように感じる。ははっ、まさかな。
「では、こちらの問題から」
レヴィウスから本を貰い、指定された問題を読むと、なんとも簡単な算数の計算問題であることがわかった。なんだ、このくらいなら"昔の記憶"がうっすらとしている私でも解けるレベルだ。本と共に渡された羊皮紙に、羽根ペンでガリガリと計算を書き出していく。本当は暗算で正解を導くことなど容易だったが、一応見た目は十歳前後なので年相応の振る舞いを心掛ける。……ふむ、これくらい書いておけば大丈夫だろう。
「これでどうでしょう」
「おや、随分と速いですね。どれ……」
あれ、そんなに速かっただろうか。書く内容ばかり気にしすぎて時間のことは考えていなかった。次は気をつけるようにしないと。
そんなことを考えながら採点するレヴィウスの顔を伺う。計算式を上から追いかけていく目が下に降りていくにつれ、困惑の感情を持ち始める。……あれ?
「これはどういう……? いや、でも答えは合っている……何故だ……?」
「……えーと、レヴィウス? 答え、合っていた?」
「っ、え、ええ。正解です。すごいですね。……しかし、答えの導き方は、一般的なものとは違うようですが」
「ん??」
一般的なものとは、違うようですが??
疑問符を浮かべる彼に釣られて、私の頭の上にも大きなはてなマークが浮かんだ。え、それ以外の求め方ってどうするの?
「一応、通常の導き方は……」
レヴィウスが私の書いた計算の下に書いた求め方は、あまりにも遠回りすぎて、長々としたものであった。な、なんじゃその解き方は。
よくよく見てみると、足し算や引き算のみでこの計算が成り立っていることに気がつく。何その縛り。普通に掛け算や割り算を使えば瞬時に答えが出るというのに。
「何故足し算と引き算だけしか使わないの?そんな回りくどいことしなくても、ここで割り算を使って……」
「……待ってください。……たしざん? ひきざん、……わりざん、とは?」
……え、ちょっと待って。足し算、引き算……割り算を、知らない、だと?
"この世界"に投げ捨てられてから随分と時が経ったが、ここでやっと、私は、この世界での数学は、全くの未発達だということに気づいたのであった。