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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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9. 本当の彼女

 翌日の午後、ラウルは約束どおり家庭教師としてレイチェルの家へ向かっていた。強烈な日差しが降りそそぐ中を、浮かない顔で歩く。いや、そう思っているのは自分だけで、まわりの人間には、いつもの無愛想な表情としか映っていないだろう。

 サイファの強引さに負けて、渋々ながら引き受けたものの、不安は拭えなかった。

 同じことを繰り返してしまうかもしれない――。

 頭の中ではわかっていても、彼女を目の前にすると、自制や理性など何もかもが飛んでしまう。二年前も、それより前も、ずっとそうだった。自分がこれほどまでに意志の弱い人間であることを、初めて思い知らされた。

 だが、二年前のあのとき、はっきりと目が覚めたはずだ。

 頭から豪快に氷水を掛けられたかのようだった。夢は一瞬にして消え去った。そして、もう夢など見ようのないくらいに、幻想は粉々に砕け散った。

 それでも自信は持てなかった。自分という人間を信用することが出来なかった。


 レイチェルの家に着くと、アルフォンスが出迎えた。彼はサイファが無理を言ったこと、そして、二年前のレイチェルの非礼を詫びた。二年前のことについては、彼も事情はわかっていないはずだが、サイファから断片的な情報を聞いたのだろう。何をどのように聞いたのかは詮索しなかった。

 アルフォンスはあらためて仲立ちすると言ったが、それは断った。ラウル自身の都合である。レイチェルと会ったとき、自分がどのような顔をするかわからない。彼女の父親には見られたくないと思ったのだ。

 ラウルは一人で二階に上がった。部屋の場所は二年前から変わっていないと聞いた。突き当たりに進み、白い扉の前で立ち止まる。たった3回しか来ていないが、鮮明に覚えている光景だ。

 少し緊張しながら、その扉をノックする。

「はい、開いているわ」

 中から聞こえた澄んだ声。それは紛れもなくレイチェルのものだった。

 突如、躊躇いの気持ちが湧き上がった。

 だが、ここまで来ながら引くわけにはいかない。水に潜るときのように大きく息を吸い込み、ドアノブを回して扉を押し開ける。

 扉は音もなく開いた。

 五歩くらい離れたところに、二年前より少し成長したレイチェルが立っていた。彼女はワンピースの裾を僅かに持ち上げ、軽く膝を曲げた。

「来てくれて嬉しいわ」

 そう言ってにっこりと微笑む。

 一瞬、ドキリとした。

 確かに笑顔は似ている。だが顔立ちは、そもそも瓜二つというほどは似ていなかった。今ははっきり別人だと認識できる。そのことを強く意識し、面影を重ねないようにする。

「レイチェル……」

 二年前のことを詫びようと思った。だが、言葉が続かない。すべてを話して許しを請うべきなのだろうが、そこまでの覚悟はまだなかった。

 そのとまどいを見透かしたかのように、レイチェルは柔らかく微笑み、ゆっくりと首を横に振った。言わなくてもいい、ということのようだ。ラウルのためなのか、彼女自身のためなのか、それはわからない。だが、どちらにしても、彼女の望みであれば受け入れるべきだろう。このまま何も説明せず、互いに水に流すということを――。

「座って」

 レイチェルは明るい声で椅子を勧めた。

 ラウルは言われるまま素直に座った。レイチェルも自分の椅子に座り、ラウルの方に体を向けた。膝の上に行儀良く手を重ねて置き、ちょこんと小首を傾げて尋ねる。

「今日はテスト?」

「昨日の今日で何も準備をしていない。おまえがどこまで勉強しているのかも聞いていない」

「じゃあ、説明するわ。私がこの二年間で勉強してきたことを」

 彼女はにっこりと笑って立ち上がり、本棚からいくつもの本を取り出した。


 レイチェルから勉学の進捗を聞いたが、あまり芳しいとはいえなかった。家庭教師が何度も替わっているのが原因だろう。なぜ、それほど頻繁に家庭教師を替えたのかはわからない。彼女にもわからないらしい。もしかしたら、サイファの仕業かもしれないと思う。ラウルのところに乗り込んできて交渉をしたくらいだ。ありえないことではないだろう。

 その日は、一時間ほど話を聞いただけで終わりにした。授業は翌日から始めることにする。

「明日は数学にする。予習をしておけ」

 ラウルはそう言って立ち上がった。大きな足どりで扉に向かう。

「送っていくわ」

 レイチェルも立ち上がり、軽い駆け足でラウルのあとを追う。

「送ってもらう必要などない」

「必要がなくても送りたいの、ラウルは特別だから」

 横から笑顔で覗き込み、二年前と同じことを言う。

 ラウルは眉根を寄せた。

「サイファの言うことなど真に受けるな」

「サイファが言ったからじゃなくて、私自身がそう思っているの」

「迷惑だ」

 冷たく突き放すように言い、扉を開けて部屋を出る。

 だが、レイチェルは諦めずについてきた。愛らしい微笑みを見せて言う。

「じゃあ、送るんじゃなくて、勝手について行くことにするわ」

「……勝手にしろ」

 ラウルは大きく溜息をついた。


 レイチェルは、面影の少女とはまるで性格が違った。彼女が控えめで思いやりのある子だったのに対し、レイチェルは身勝手で何でも思いどおりになると思っている節がある。

 思い返してみれば、二年前にもその片鱗はあった。もう少し大人しかったような気はするが、時折、今と同じように身勝手な言動が見受けられた。

 無意識に都合のいいところしか見ようとしていなかったのかもしれない。面影を重ねていたのは、彼女が喋っていないときばかりだったことを思い出す。それに気づけたのは、もうはっきりと目が覚めているからだろう。今となっては面影など重ねようもない。


 医務室を目指し、人通りの少ない裏道を歩く。二年前にもレイチェルとともに歩いた道だ。だが、心情はあのときとはまるで違う。心地よい穏やかな空気を感じることはなかった。

「怒っているの?」

 レイチェルが横から覗き込んで尋ねた。

 顔はいつもの仏頂面だが、怒っているつもりはなかった。だが、わからなくなった。彼女は妙に勘がいい。もしかすると、自分が気づいていないだけで、本当は腹を立てていたのかもしれない。たとえそうだとしても、怒りをぶつける相手が彼女であってはならない。

「怒ってなどいない」

 出来る限り感情を抑制した声で答える。

「良かった」

 レイチェルは胸に右手をあて、無邪気なくらいの笑顔で言った。

 ラウルは溜息をつき、空を見上げた。青い空にかかっている薄い雲が、ゆっくりと流れていた。


 医務室の前に到着し、ラウルは足を止めた。レイチェルを一瞥する。何と言おうか迷ったが、何も言わないまま、鍵を開けて扉を引いた。

「ねえ、ラウル。医務室の中を見せてくれる?」

 レイチェルが背後で声を弾ませた。

 ラウルは扉に手を掛けたまま、顔だけ振り向いた。冷たい視線を向けて言う。

「病人でも怪我人でもない人間が入るところではない」

「……わかったわ」

 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめてそう言うと、来た方とは反対側へ歩き出した。

 ラウルは慌てて彼女の肩に手を掛けた。

「どこへ行く」

「怪我をしてくるの。そうすれば入れてくれるんでしょう?」

 真顔で振り返って言う。当然と言わんばかりの口調だった。

「……入れ」

「ありがとう」

 レイチェルはにっこりと笑った。

 ラウルは溜息をついた。もしかすると、こうなることを計算しての行動だったのかもしれない。サイファにそっくりだ。ラグランジェの人間は、どうしてこうも身勝手な連中が多いのだろうか。

「病院みたいな匂いがするわ」

「医務室だからな」

 入るなり感嘆の声を上げるレイチェルに、ラウルは呆れ口調で返答をした。

「本当にお医者さんなのね」

 レイチェルはあたりをぐるりと見まわしながら言う。

「お医者さんをしながら家庭教師って大変そう」

「そうでもない」

 ラウルは扉を閉めながら答えた。医師としての仕事はあまりない、ということは敢えて言わなかった。言う必要がないと思っただけで、隠そうとしたわけではない。

 レイチェルは窓際に駆けていき、クリーム色のカーテンを開けた。窓ガラスに手をつき、下の道に目を向ける。そこは、レイチェルが父親に手を引かれてよく通っていた道だった。くすっと笑い、懐かしそうに言う。

「ラウルはよくここの窓際に座っていたわね。私、いつも楽しみにしていたの」

 そのことは当時からずっと不思議に思っていた。なぜ彼女は見ず知らずの自分に笑顔を向けてきたのだろうか――。それを尋ねることは出来なかった。

 あれから10年が過ぎた。

 そのうちの大部分は、彼女を彼女として見ていなかった。勝手な幻想を重ねていた。今、自分は彼女のことをどう見ているのだろうか。その華奢な後ろ姿を見ながら、自分に問いかける。答えはわからない。わからないということが答えなのかもしれない。二年ぶりに会って、まだたったの数時間である。そう簡単に答えが出せるものでもない。

 レイチェルは薬棚や本棚、机の上、パイプベッドなど、あちらこちらを興味深げに見てまわった。動きまわるたびに、後頭部のリボンが弾むように揺れる。

 ラウルは扉付近で腕を組み、その様子をただじっと眺めていた。

「楽しいか」

「ええ」

 レイチェルは振り返って嬉しそうに笑った。

「ねえ、この向こうがラウルのおうちなんでしょう?」

 ほとんど壁と同化している目立たない扉に、そっと両手で触れながら尋ねる。

 ラウルは怪訝に眉根を寄せた。

「なぜ、知っている」

「サイファから聞いたの」

 レイチェルはあっけらかんと答えた。

 ラウルは溜息をついた。確かにサイファなら知っている。だが、まさかレイチェルに話しているとは思わなかった。別に隠しているわけではないので構わないが、こんなどうでもいいことまで話題にしている事実に驚いた。おしゃべりな奴だとは思っていたが、想像以上かもしれない。

「サイファは、いくら頼んでも一度も部屋に入れてくれないって嘆いていたわ。どうして入れてあげないの?」

「誰も入れないことにしている。それだけだ」

 ラウルは冷静に答える。

「私も、だめ?」

「駄目だ」

 少しの迷いも隙も見せず、冷淡にきっぱりと言う。

 レイチェルは僅かに寂しそうな表情を見せた。大きな蒼の瞳が小さく揺らぐ。

 ラウルは溜息をつきながら、目を閉じてうつむいた。

「あら? 開いた……」

 その声につられて顔を上げると、レイチェルがドアノブに手を掛けて扉を開いているところだった。鍵はついているが、今日は掛けていなかったようだ。医務室の方は忘れず施錠するが、自室の方は医務室からしか入れないため、掛けないことも多い。

「おい!」

 ラウルは慌てて組んだ腕を外し、扉に向かって駆けだした。だが、彼女は素早く逃げ込むように部屋に入り、カチャリと扉を閉めた。そのあとを追って、ラウルも扉を開けて部屋に入る。幸い、鍵は掛けられていなかった。


「きれいにしているのね」

「おまえ……」

 悪びれもせず部屋の中を見まわすレイチェルに、ラウルは低い唸り声を上げた。

「怒っているの?」

 レイチェルは振り返り、大きく瞬きをしながら首を傾げて尋ねる。

「当然だ」

 ラウルは抑えた声で言った。その中に秘めた怒りを感じ取ったのだろう。レイチェルは急にしゅんとして頭を下げた。

「ごめんなさい……」

「……もういい」

 ラウルは溜息をついて言った。

 レイチェルはほっと息をついてニコッと笑った。

「じゃあ、お茶を淹れてくれる? 美味しい紅茶が飲みたいの」

「……おまえ、本当に反省しているのか?」

「ええ、でも、もういいんでしょう?」

 邪気のない顔で明るく言う。どこまでが計算なのかさっぱりわからない。天然だとするとなおのこと恐ろしい。サイファよりたちが悪いかもしれないと思う。

「美味い紅茶はない。並のでよければ淹れてやる」

「ありがとう」

 ラウルは溜息をついて湯を沸かし始めた。紅茶やティーカップの準備をする。

 その間、レイチェルはあちらこちらウロウロして、いろいろなところを覗き込んでいた。寝室や浴室、棚の中、引き出しの中まで開けて見ていた。

「おい、あまりあちこち見るな」

「紅茶が出来るまで暇なんだもの」

「いいから座れ」

 ラウルはレイチェルの手を捕まえて、ダイニングテーブルの椅子に無理やり座らせた。

「お菓子は?」

 レイチェルは両手で頬杖をつき、ラウルの横顔を見ながら尋ねる。

「そんなものはない」

 ラウルはティーポットに湯を注ぎながら言った。

「そう……じゃあ、今日は我慢するわ」

 レイチェルはニコッと笑った。

 今日は――?

 ラウルは引っかかったが、敢えて尋ねなかった。藪蛇になりそうだと直感したからだ。紅茶の入ったティーカップをレイチェルの前に置く。

「ありがとう」

 レイチェルは無垢な笑顔を浮かべ、ティーカップを手に取った。湯気の立ち上る紅茶にゆっくりと口をつけて、少しだけ流し込む。

 ラウルは流しに寄りかかって腕を組み、その様子をじっと見下ろしていた。

「ラウルは飲まないの?」

 レイチェルは両手でティーカップを持ったまま、顔を上げて尋ねた。

「ティーカップはそれしかない」

「どうして?」

「誰もここに入れないことにしていると言ったはずだ」

 ラウルは面倒くさそうに答える。

 レイチェルは少し考えてから、ぱっと顔を輝かせる。

「じゃあ、今度うちから持ってきてあげる。ラウルと一緒に飲みたいもの」

「……また来る気か?」

「ええ、今度はお菓子も用意しておいてね」

 ラウルは盛大に溜息をついた。溜息のつきすぎで、体がだるくなった気さえする。頭痛がするのは精神的なものが影響しているのだろうか。右手で頭を押さえる。

「サイファには言うな」

「どうして?」

 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。

「このことを知られたら、あいつも入れなければならなくなる」

「だめなの?」

「誰も入れないことにしていると何度言わせる」

 ラウルはいらつきながら答える。

「3人でお茶したかったのに……」

 レイチェルは残念そうに言い、眉をひそめる。

「言わないと約束しなければ、おまえもここには二度と入れん」

「……わかったわ、約束する」

 レイチェルはそう言ってニッコリと笑った。

 ラウルは眉を寄せた。

 何か話がおかしな方に行った気がする。レイチェルも入れるつもりではなかったはずだが、こんな約束をしてしまっては入れざるをえない。サイファよりはましか――いや、もしかするとサイファよりもやっかいかもしれない。自分の判断がわからなくなってきた。

「飲み終わったらとっとと出て行け」

「じゃあ、ゆっくり飲まなきゃ」

「…………」

 思いきり呆れた視線を送るラウルに気づいていないのか、気づいていながら無視をしているのか、レイチェルは本当にゆっくりと紅茶を飲んだ。いい度胸である。ティーカップがほぼ空になったのを見ると、ラウルは組んだ腕をほどいた。

「飲み終わったな。さあ、出て行け」

「行かなきゃだめ?」

 レイチェルは名残惜しそうに空のティーカップを両手で持ったまま、ラウルを上目遣いに見上げて首を傾げた。

「出て行け」

 ラウルは冷たく見下ろし、迫力のある低音でゆっくりと威圧するように言った。たいていの人間はこれで震え上がる。だが、彼女はまるきり平然としたまま、不服そうに小さな口をとがらせた。

「じゃあ、仕方がないから今日は帰るわ」

「早くしろ」

 ラウルは立ち上がった彼女の肩を押し、追い立てるように部屋から出した。さらに、医務室からも追い出そうとする。勢いよく扉を引き開け、出て行くように目線で促した。

 レイチェルは素直に廊下に出ると、くるりと振り返った。

「あしたも忘れないで来てね」

 愛らしい笑みを浮かべて言う。

 ラウルは扉を締めようとしていた手を止めた。

「わかっている。心配するな」

「ねえ、ラウル」

「何だ」

「私のことは嫌い?」

 レイチェルは首を傾げて尋ねた。

 ラウルは眉根を寄せた。その言葉だけで、彼女の言いたいことを理解してしまった。誰かの面影を重ねた状態ではなく、彼女自身の本当の姿についてどう思うかと尋ねているのだろう。自分はこの質問に答える義務がある――。

「まだ、わからん」

 低い声で言う。それが正直な答えだった。

「私はラウルのことが好き」

 レイチェルは無邪気に声を弾ませて言った。屈託のない笑顔で続ける。

「だから、また家庭教師になってくれて嬉しいわ」

「……帰れ」

 ラウルは無表情のまま、短くそれだけ言った。酷く冷たい口調だった。

 それでもレイチェルは笑顔を見せていた。

「今日はありがとう」

 顔の横で手を振り、帰っていく。

 ラウルは静かに扉を閉めた。その扉に手を置いたまま、うつむいて奥歯を噛みしめる。

 ――愚かな女だ。

 なぜだか無性に腹が立っていた。レイチェルが自分の何を知っているというのだろう。まともに向かい合ったのは、二年前の三日間と今日だけである。しかも、彼女にはひどい仕打ちしかしていない。にもかかわらず、そんな屈託のない顔でよくそんなことが言える。おそらく、サイファから聞いた話だけで、好意に値すると判断しているのだろう。本当の姿を見ていないのは、彼女の方も同じではないか。

 ラウルはそこまで考えて溜息をついた。

 このようなことを真剣に考察する必要はないのだと気がつく。誰にどのように思われようと知ったことではない。好きなように思っていればいい。誤解でも何でもしていればいい。それが自分の姿勢だったはずだ。

 カーテンが開いたままの窓際へと歩いていき、窓枠に両手をついた。目を細めてガラス越しに空を見上げる。濃い青色に浮かぶ白い雲は、僅かに形を変えながら、ゆっくりと右から左に流れていた。その下では、木々が微かにざわめいていた。



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