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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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8. 託すことのできるただ一人

 サイファが魔導省に入省して二年が過ぎた。

 最初の一年に義務づけられている公安局での勤務を無事に終え、今は内局で勤務している。現場を離れれば少しは楽になるかと思っていたが、忙しさという点ではあまり変わりはなかった。

 仕事に対する大きな不服はない。もちろん、まったくないわけではなかったが、いずれも些細なことであり、我慢できないほどではない。どこに勤めていても、多少は問題が出てくるものだろう。

 同僚とも上司とも上手くいっている。公安局のときほど密な付き合いをしているわけではないが、仕事は円滑に進められており、職場の雰囲気は良い方だろう。若手の意見もきちんと聞いてもらえ、尊重もされている。もっとも、サイファの場合は、ラグランジェの名が影響しているという可能性は否めない。しかし、サイファはその利点も欠点も理解しており、それを受け入れる覚悟はとうに出来ていた。

 そんな彼の、ただひとつといってもいい不満――それは、レイチェルと会う時間が思うように作れないことだった。


 その日は、早くに仕事が終わった。空はまだ青い。

 サイファは自宅に戻ることなく、まっすぐレイチェルの家に向かっていた。もしかすると、まだ家庭教師の時間かもしれないが、そのときは家の中で待たせてもらうつもりだった。一刻も早くレイチェルに会いたい、その一心での行動である。自宅に戻ることなど考えられなかった。

 彼女の家の前に差し掛かったところで、反対側から駆け足で近づいてくる小さな少年に気がついた。彼の方もサイファに気がついたらしく、「あっ」と小さく声を上げて足を止めた。眉間に皺を寄せ、嫌悪感を露わにして睨みつけてくる。


 この少年の名前はレオナルド。レイチェルの家の隣に住む、6歳の子供である。柔らかそうな金の髪と、鮮やかな青の瞳――そう、彼もまたラグランジェ家の人間なのだ。そのこともあってか、最近、彼女のところへ毎日のように遊びに来ていると聞く。彼の両親も自由にさせているようだ。同じ一族という気安さと安心感があるのだろう。いい遊び友達が出来たとでも思っているのかもしれない。

 それだけなら良かった。だが――。

 レオナルドはレイチェルに並々ならぬ好意を抱いていた。平たくいえば、恋をしているということになるだろう。本人がそう言ったわけではないが、見ていれば誰でもわかるくらいに態度があからさまだった。彼女といるときだけ表情が違う。必要以上に甘えたり、抱きついたりして触れ合おうとする。そのうえ、一人前に独占欲まで見せている。

 幼い憧れといってしまえばそれまでだ。

 だが、サイファは、それを微笑ましいものとして受け止めることなど出来なかった。レイチェルは自分の婚約者である。レオナルドも、ラグランジェ家の人間である以上、そのくらいのことは知っているはずだ。それにもかかわらず、彼女に独占欲を抱くなど、図々しいとしかいいようがない。

 だいたい、レオナルドという名前からして気に入らなかった。

 レイチェルが生まれる前、アリスは子供の名前についてこう言っていた。

 ――男の子ならレオナルド、女の子ならレイチェルにするつもり。

 だから、どうというわけではない。それだけのことだ。だが、何か運命めいたものを感じてしまい、どうにも面白くなかった。まるで言いがかりのような嫉妬である。自分でも大人げないことはわかっていた。それでも、心の中に渦巻く黒い気持ちは止めようがなかった。

 もちろん、サイファは理性のある大人だ。極力、それを表に出さないようにしていた。他の人の見ている前では――。


「何だ、レオナルド」

 サイファは冷ややかに見下ろし、突き放した口調で言った。

「おまえなんかに用はない。レイチェルのところへ行くんだ」

 レオナルドは敵対心を剥き出しにして答えた。だが、内心びくついていることは、手に取るようにわかった。サイファがラグランジェ本家の次期当主であることも、そのサイファに良く思われていないことも、幼いなりに理解しているのだろう。

「悪いが今日は帰ってくれ。彼女は僕と過ごす」

「おまえが勝手に決めるな!」

 冷淡に告げるサイファに、レオナルドは精一杯、強気に言い返す。

 サイファは無視して門をくぐろうとした。

 そのとき、扉が重たい音を立てて開き、中から知らない男性、続いてレイチェルが出てきた。ふたりはその場で足を止め、微笑みを交わした。

 サイファはとっさに塀に身を隠した。同時に、レオナルドを自分のもとに引き寄せた。抗議の声を上げようとした彼の口を、しっかりと手で塞ぎ、じたばたと手足を動かして抵抗する小さな体を、反対側の手で拘束する。そして、見つからないようにそっと首を伸ばし、玄関の様子を窺った。


「先生、今日はありがとうございました」

 レイチェルはにっこりと笑って言った。

 先生と呼ばれた気弱そうな青年は、照れたように頭を掻きながら顔を赤らめた。

「あのさ、今度、よかったら僕の研究所に遊びに来ないかな? 今日の授業で出てきた実験とかも、実際に見せてあげたいんだ。きっと、君が見ても面白いものだと思うから……」

「本当? 嬉しい。私も見てみたいと思っていたの」

 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気に顔を綻ばせた。


 サイファはレオナルドの拘束を解くと、何食わぬ顔で門をくぐり、玄関のふたりに近づいていった。レオナルドも仏頂面でトコトコとついてくる。追い返したい気持ちはあったが、今はそんなことに時間を割いている余裕はない。

「やあ、レイチェル」

「サイファ!」

 レイチェルはパッと顔を輝かせて振り向いた。長い金色の髪が柔らかく舞い上がる。まるで彼女のまわりだけ明るい光に包まれたかのように感じた。

「レオナルドも一緒なのね」

「一緒に来たわけじゃない」

 自分に向けられた微笑みに頬を染めながら、レオナルドは言葉足らずな反論をする。そして、邪魔するようにふたりの間に割って入ると、レイチェルの白い手をぎゅっと握り、甘えるように体を寄せた。その合間に、ちらりとサイファに挑戦的な視線を投げつける。

 サイファは殴り倒したい衝動に駆られた。しかし、彼は理性のある大人である。その衝動を抑えるのは当然のこと、その感情すら悟られないように、一瞬たりとも穏やかな笑顔を崩すことはなかった。

 そのまま、見知らぬ青年に振り向いて言う。

「新しい家庭教師の先生ですね。レイチェルのこと、よろしくお願いします」

「あ、はい……えっと、君は……」

 家庭教師はとまどいながらサイファを見た。まだ年若いにもかかわらず、保護者気取りでこんなことを言う男はいったい誰なのか、見当もつかないのだろう。

 サイファはにっこりと微笑み、胸もとに手をあてて頭を下げた。

「失礼しました。僕は、レイチェルの婚約者の、サイファ=ヴァルデ=ラグランジェです」

「あ、君が……」

 家庭教師は口ごもって、顔を少しこわばらせた。その反応からすると、何か良からぬ噂を聞いているに違いない。それを聞き出すのは造作もないことだが、サイファはあえて触れることなく流した。噂についてはおおよその見当がついている。いずれそれが単なる噂でないことを、彼は思い知ることになるだろう。

「レイチェル、アリスかアルフォンスはいるかな?」

「お父さまも、お母さまもいるわ」

「少し話をしてくるから待っていてね。あとで一緒にお茶を飲もう」

「ええ、楽しみにしているわ」

 レイチェルは愛らしく微笑んだ。その白い手は、まだレオナルドと繋がっていた。

 サイファは小さな少年に冷たい一瞥を送り、家の中へ入っていった。


「あの家庭教師を辞めさせてください」

「またかね」

 アルフォンスは呆れたように言った。ソファに大きな体を預け、腕を組んで溜息をつく。

「確かこれで5人目だぞ。君が辞めさせろと言ったのは」

「彼はレイチェルに良からぬ感情を抱いています」

 サイファは正面からアルフォンスを見据え、真剣に訴えた。

「真面目な好青年を選んだつもりなんだがな」

「彼のことをすべて知っているわけではないでしょう。裏の顔がないとも限りません。先ほど、レイチェルを連れ出そうと画策しているところを目撃しました」

 アルフォンスは再び溜息をついた。

「娘を大事にしてくれるのは有り難いと思っている。だがな、サイファ。近頃のおまえは神経質すぎるぞ。もう少し鷹揚に構えてもいいのではないか? 遠くない将来、ラグランジェ家を背負って立つ身でもあるんだ。余裕を持って見守るくらいでなければな」

「確かに、僕の早合点という可能性もあります」

 サイファは冷静にそれを認めてから、一呼吸おいて続ける。

「でも、そうではないかもしれない。何かが起こってからでは遅いんです。取り返しがつかないんですよ。アルフォンス、あなたには僕との結婚までレイチェルを守る義務があるはずだ」

「確かに、それはそうなんだが……」

 アルフォンスはゆっくりと腕を組み、眉間に皺を寄せて考え込む。彼もレイチェルを大切に思う気持ちは同じである。そこまで言われては反論が難しいのだろう。諦めたように大きく息をついて言う。

「わかった。彼には辞めてもらうことにしよう」

「でも、どうするの? レイチェルの家庭教師」

 隣に座っていたアリスが、疑問を投げかけた。

「サイファが次々に辞めさせちゃうから、いいかげん困ってるんだけど」

 茶目っ気のある口調でそう言うと、肩をすくめて苦笑する。

「サイファ、おまえ、推薦したい人物はいるか?」

 アルフォンスは真剣な面持ちで尋ねた。

 サイファは少し考えてから答える。

「ラウルなら信頼できます。いや、ラウルしかいないと思います」

 それは本心からの言葉だった。頭脳でラウルに勝る人物はほとんどいない。魔導においても、レイチェルが持つ本来の魔導力を押さえ込めるのはラウルだけだ。そして、何より、彼が邪な感情を抱くなどとは考えられない。なぜもっと早くに気づいて提案できなかったのかと悔やまれた。

 だが、ふたりの反応は芳しくなかった。示し合わせたかのように表情が曇る。

 それでも、サイファは何とかして説得しようとした。

「愛想はありませんが、信用に足る人物です」

「そういうことじゃなくて、ね……」

 アリスは中途半端に言葉を濁し、アルフォンスと顔を見合わせた。ふたりとも微妙に困ったような表情をしている。何か言いにくいことを抱えてそうな雰囲気だ。

「どういうことなんですか?」

 サイファは怪訝に眉を寄せ、やや強い調子で問いただす。

 アリスは観念したらしく、肩をすくめて、二年前のことについて説明を始めた。


 ガラガラガラ――。

 サイファはいつもより乱暴に扉を開き、ラウルの医務室に入った。今日も誰ひとりとして患者はいない。

「ノックくらいしろと何度言えばわかる」

 机に向かっていたラウルは、本を読む手を止め、サイファを横目で睨んだ。

 だが、サイファはまるで動じることなく、ラウルの後ろのパイプベッドに腰を下ろした。清潔な白いシーツに皺が走る。膝の上で手を組み合わせると、焦茶色の髪が流れる背中をじっと見つめた。

「聞いたよ、三日坊主の話」

「何のことだ」

「レイチェルの家庭教師」

 本のページを繰ろうとしていたラウルの動きが止まった。

 サイファは眉をひそめて続ける。

「どういうつもりだ。こんな重大なことを黙っているなんて」

「おまえに報告する義務はないだろう」

 ラウルは背中を向けたまま答える。

「僕はレイチェルの婚約者だぞ」

 サイファは自分の声が感情的になっていたことに気がついた。深く呼吸をして気を静める。終わってしまったことを、ただ怒りまかせに問い詰めたところで、何にもなりはしない。ここへ来たのは、大人げない拗ねた文句を言うためではない。建設的な話し合いをするためだ。

「辞めた本当の理由は何なんだ?」

 今度は落ち着いた口調で問いかける。だが、答えは返ってこない。小さく溜息をつき、少し呆れたように言い添える。

「王宮医師の仕事が忙しくなったなんて、誰がそれを信じるんだ。嘘をつくにしても、もっとましな嘘をつけよ」

 実際、アリスもアルフォンスも信じてはいなかった。レイチェルが無神経なことを言って怒らせたのではないか、というのがアリスの推測である。

 だが、サイファはどうにも腑に落ちなかった。

 ラウルは一度引き受けたことを簡単に投げ出したりはしない。サイファの家庭教師を8年も務めたことで実証済みである。8年の間に数え切れないほど怒らせてきたが、それでもラウルが辞めると言い出したことは一度もなかった。いったいどんな言葉をぶつければ、そこまで至らせることが出来るというのか。まるで想像もつかない。

「あのときは忙しかった」

「じゃあ、今は忙しくないんだな?」

 ラウルは警戒しているのか、口をつぐみ、答えようとはしなかった。何を答えても逆襲に遭うとわかっているのだろう。だが、答えなくても同じことである。

 サイファは広い背中を見つめ、真剣に言う。

「ラウル、もう一度、レイチェルの家庭教師を頼む」

「断る」

 ラウルは振り返りもせず拒絶した。

 サイファは軽い軋み音とともにパイプベッドから立ち上がった。険しい表情で腕を組み、椅子に座った後ろ姿を見下ろす。

「理由は何だ」

「家庭教師など他にいくらでもいる」

「それは理由ではなく詭弁だ。ただの家庭教師なら確かにいくらでもいる。だが、レイチェルを安心して預けられるのは、おまえしかいないんだ。彼女の魔導のことも忘れたわけではないだろう。今のところ何の変化もないが、今後もそうだとは限らない。おまえならわかっているはずだ。そのうえで見捨てるつもりか」

 ラウルは反論の言葉を返さなかった。僅かに顔をうつむける。長髪が肩から滑り落ちた。

「他に理由がないなら引き受けてもらう」

 サイファは強い口調で言った。ほとんど命令だった。

「……あいつの方が嫌がる」

 ラウルは小さくぽつりと言った。

 ――レイチェルの方が、ラウルを嫌がる……?

 サイファは怪訝に眉根を寄せた。

 ふたりの間にいったい何があったというのだろうか。単にレイチェルがラウルを怒らせただけ、ということではなさそうだ。だが、それを尋ねたところで答えてくれるとは思えない。なおさら態度を硬化させるだけだ。

 ラウルの隣に足を進め、机に片手をつく。そして、おもむろに腰をかがめると、その横顔を覗き込んだ。濃色の瞳をじっと探るように見つめる。

「レイチェルが嫌がってなければ引き受けるんだな?」

 息がかかるくらいの距離で、静かに尋ねかけた。

 ラウルは何も答えなかった。サイファを無視し、無表情で本に目を落としている。だが、視線は少しも動いていない。指先だけがほんの僅かに震えた。

「待っていろ」

 サイファはそう言い残して、医務室を出て行った。


 逸る気持ちを抑えられず、自然と早足になっていく。

 サイファが門をくぐると、庭の方から澄んだ声が聞こえてきた。レイチェルの声だった。芝生をさくりと踏みしめながら、その姿を探してあたりを見まわす。

 彼女はすぐに見つかった。薄水色の大きなリボンを揺らしながら、花壇の片隅にしゃがんでいた。隣にはレオナルドもいる。ふたりは何か話をしつつ、花を植えているようだ。レオナルドも、そしてレイチェルも、楽しそうに笑顔を浮かべている。

 サイファは足を止め、小さく呼吸をした。

「レイチェル、ちょっといいかな」

 背後から声を掛けると、レイチェルは少し驚いたように振り返った。だが、すぐにそれは笑顔に変わる。スコップを置いて立ち上がり、体ごとサイファに向き直ると、愛らしく微笑んで小首を傾げた。

「今からふたりだけで話がしたいんだ」

「お茶をするんじゃなかったの?」

「そうだったね、お茶を飲みながら話そうか」

 サイファは彼女の頭に優しく手を置いた。そして、小さく丸まったレオナルドの背中に声を落とす。

「そういうわけだ、レオナルド。君はもう帰るんだ」

「おまえに命令されたくない」

 レオナルドは花壇を見つめたまま、むくれながらスコップで土を叩き続けた。

「聞き分けのないことを言わないで、素直に帰ってくれないかな」

 サイファはレオナルドの隣にしゃがみ、優しく微笑みながら言った。小さな肩に手を掛ける。はたから見れば、小さな子を宥めようとしているだけの光景。しかし、その手には、表情とは裏腹の強い力が込められていた。

 レオナルドの顔が一気に引きつった。スコップを投げ置き、逃げるように走り去っていく。そして、離れたところから泣きそうな顔で睨みつけてきた。

 サイファは僅かに顎を上げ、冷たい目で応じた。早く行けと無言で促す。

「サイファ?」

「さあ、行こうか」

 横から首を傾げて覗き込んできたレイチェルに、サイファはにっこりと微笑みかけた。細い肩を抱くと、一緒に玄関へと足を進める。もうレオナルドには目を向けなかった。


 レイチェルの部屋に置かれている小さなティーテーブルに、ふたりは向かい合って座った。レースのカーテン越しの柔らかい光が、あたりを優しく包み、ほんのりとした暖かさをもたらしている。

 サイファは慣れた手つきで紅茶を淹れた。丁寧な所作で、ティーカップを差し出す。

「どうぞ」

「ありがとう」

 レイチェルは無邪気な笑顔でそう言うと、紅茶をゆっくりと口に運んだ。その途端、驚いたように大きな目をぱちくりさせる。

「おいしい」

「気に入った? 母上が最近見つけて気に入っているものなんだ」

 サイファは明るく声を弾ませた。久しぶりの幸せな時間だった。こういう穏やかな時間が何よりも嬉しい。だが、今日はいつまでも浸っているわけにはいかない。

「レイチェル、家庭教師のことなんだけど……」

 レイチェルはティーカップを両手で持ったまま、無垢な瞳をサイファに向けた。

 サイファは出来うる限りの柔らかい口調で言う。

「今の先生には辞めてもらって、新しい先生に来てもらおうと思っているんだ」

「どうして?」

 レイチェルは不思議そうに首を傾げた。ティーカップをそっとソーサに戻す。

「安心して任せられる先生にお願いしたいからね」

「その先生って誰なの?」

「ラウル」

「えっ……」

 彼女の顔に動揺の色が広がった。やはり何かあったのだ、とサイファは確信する。

「ラウルは嫌なの?」

 まるで幼子に接するように優しく尋ねる。

 レイチェルは何ともいえない表情で目を伏せた。困惑しながらも小さな口を開く。

「二年前に来てもらったことがあって……」

「アリスに聞いたよ。三日で辞めたんだって?」

 サイファは軽い口調で先を促す。

「私がいけないの。私が言ってはいけないことを言ってしまったから……きっとラウルは怒っている。私の家庭教師なんて引き受けないと思うわ」

 レイチェルはつらそうに眉根を寄せて言った。小さな唇をきゅっと噛みしめる。

 その瞬間、サイファは息が止まるほどに胸を締め付けられた。彼女のこんな表情を見るのは初めてのことだった。鼓動が次第に速くなっていく。同調するように気持ちが焦っていく。意識的に呼吸をしてから、ゆっくりと尋ねる。

「ラウルに何を言ったの?」

「それは……言えない」

「どうしても?」

「これ以上、ラウルを傷つけたくないから」

 うつむいたままではあったが、その口調は迷いのない毅然としたものだった。

 サイファはふっと息を漏らした。

「わかった、もう聞かない」

 目を閉じ、両手を広げて言う。ラウルを傷つけたという言葉には興味があったが、レイチェルが言わないと決めたのなら、どう問いただしても口を割ることはないだろう。見かけによらず頑固なところがあるのだ。

「レイチェルの気持ちはどうなのかな。ラウルの家庭教師は嫌なの?」

「私は……」

 レイチェルは体をすくめながら、両手を重ねて胸を押さえた。

「許してもらえるのなら、もう一度、ラウルにお願いしたい」

 訥々と落とされる健気な言葉。そこからは彼女の一途な後悔が感じられた。事情はわからないが、これだけ反省しているのだ。許さないなどとは言わせない――そんな強い気持ちが湧き上がる。

「わかった。じゃあ、あしたからラウルに来てもらうよ」

「えっ?」

 レイチェルはきょとんとした顔を上げた。

「今から説得してくるから、お茶を飲みながら待っていてね」

 サイファは彼女の柔らかい頬に優しく触れた。そして、安心させるように微笑むと、立ち上がって部屋を出て行った。


 サイファは再び医務室へ戻った。ガラガラと引き戸を開けて入っていく。ラウルは相変わらず机に向かって本を読んでいた。それしかすることがないのだろう。

「お待たせ」

 サイファは抑揚のない声でそう言うと、ラウルの机の上に躊躇なく腰掛けた。驚くラウルの胸ぐらを掴み、強引に自分の方へ引き寄せると、じっと睨み下ろして言う。

「おまえはあしたからレイチェルの家庭教師だ」

 ラウルは思いきり眉をひそめ、凄みのある眼差しで無言の抗議をした。

 だが、サイファは怯むことなく、きっぱりとした口調で続ける。

「明日の午後、彼女のところへ行け。彼女の両親にもそう言ってあるからな」

「勝手に決めるな」

 ラウルはサイファの手を振り払った。だが、サイファは逆にその手首を掴んだ。軽く捻りながら捩じ上げる。

「レイチェルは嫌がってなどいない。許してもらえるならもう一度お願いしたいってさ」

「……あいつは何を言った」

 ラウルは鋭く射抜くように睨み、低く唸るように尋ねた。

「言ってはいけないことを言ってしまったと。ただ、その内容は教えてくれなかった。おまえをこれ以上、傷つけたくないんだと」

 サイファはラウルの手を放した。軽く溜息をついて目を細める。

「何を言ったか知らないが、きっとレイチェルに悪気はなかったんだよ。今は反省している。ひとりで随分と苦しんだんじゃないかな。許してやってくれよ」

 ラウルは険しい表情でうつむいた。

「……悪いのは……許しを請わねばならないのは私の方だ。すべての原因は私にある。あいつが反省する必要など何もない」

 眉間に縦皺を刻みながら、噛みしめるように言う。

 サイファは怪訝に首を捻った。ますますわからなくなった。だが、互いに嫌い合っていないことだけはわかった。それで十分だ。無理に聞き出すつもりはない。今はそれより優先すべきことがある。

「レイチェルの家庭教師、決定でいいな。もう駄々をこねるなよ」

 ラウルはあからさまにムッとしていたが、拒否はしなかった。サイファは了承したものと判断する。

「まったく、子供の喧嘩を仲裁している気分だったよ。レイチェルは実際まだ子供だが、おまえはいったいいくつなんだ?」

 小さく笑い、からかうような視線をラウルに向ける。

「おまえこそ、机の上に座るなどまるきり子供だ」

 ラウルは冷静に切り返した。もうすっかり普段の彼に戻っていた。

「こうでもしないと、おまえと向き合って話が出来なかったからね」

 サイファは机に手をつき、軽やかに床に降りた。革靴がタイルを打ちつけ、乾いた音を鳴らす。

「何もかも思いどおりになって気がすんだだろう。もう帰れ」

 ラウルは面倒くさそうに追い払おうとする。

 サイファは口をとがらせ、両手を腰に当てて言う。

「王宮とレイチェルの家を二往復もしたんだぞ。もう少しいたわってくれてもいいんじゃないか? お茶でも淹れてくれよ」

「喉が渇いたなら水を飲め」

 ラウルはぶっきらぼうに洗面台を顎で示した。

 予想どおりの返答だった。

 サイファは笑いながら肩をすくめた。

「レイチェルのところで、報告がてら、ゆっくりお茶してくるよ」

 軽く右手を上げ、医務室を出ようと扉に向かう。だが、途中で足を止めると、真顔で振り返った。まっすぐにラウルを見つめて言う。

「強引に事を進めて悪かった。レイチェルと会える時間が少なくなると、何もかもが不安になってしまってね。特に、信用のおけない家庭教師に預けておくことは我慢ならなかったんだ。おまえが引き受けてくれて、本当に感謝している」

「結局は自分のためということか」

 ラウルは腕を組み、冷淡な眼差しを向けながら、呆れたように言った。

 サイファはくすりと笑った。

「まあ、否定はしないよ。でも、同時にレイチェルのためでもあるからね」

「おまえが何を望んでいるか知らんが、期待はするな。なぜいつも私を過大評価する」

「性格に問題があることは認識しているよ」

 笑顔のまま軽口を叩く。そして、少しだけ真面目な顔になって続ける。

「それでも、やはり信頼できるのはおまえだけなんだ」

 ラウルは難しい表情で口を閉ざしていた。何か言いたそうにも見えたが、何も聞かなかった。

「何か問題があったら相談してくれ。勝手に辞めるなよ」

 サイファはそう釘を刺しながら、右手を上げて医務室をあとにした。


 これで最も大きな不安が排除できた。胸のつかえが取れたような気がする。安堵した――いや、それ以上である。浮かれているといってもいい。ラウルにレイチェルを託せることが、なぜか無性に嬉しかった。それは、きっと、自分にとって二人ともかけがえのない存在だからだ。その二人に仲良くしてほしいと願うのは、ごく自然な気持ちだろう。

 外はもう風が冷たくなっていた。火照った頬をそっと掠め、熱を奪い去っていく。茜色の空を眺めながら、サイファは婚約者のもとへと足を速めた。



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