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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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27/34

27. 約束の日

 その日は絶好のピクニック日和だった。


 ラウルは起きてすぐに窓を開け、身を乗り出して早朝の空を見上げた。そこにはどこまでも澄み渡った優しい空色が広がっていた。緩やかに頬を撫でる風は、まるで洗い立てのように爽やかで瑞々しく、ほんの少し朝露の匂いがした。

 このような中をレイチェルと二人きりで遠出することができるのは、これが最後だとしても、それでもやはり幸せだとしか云いようがなかった。全てを話すと決意したことで多少は緊張もしていたし、つらく思う気持ちもないわけではなかったが、それよりも高揚する気持ちの方が勝っていたのだろう。ラウルはいつになく浮かれた自分を感じていた。

 さっそく持参する昼食の準備にかかる。

 以前の遠乗りに彼女が持ってきたものと同じになるが、やはり手軽に食べられるものがいいだろうと思い、サンドイッチを中心とした軽食を作ることにした。それに加えてデザートとしてプリンも用意する。これはある意味において二人の絆ともいえるものであり、今日というけじめの日にはどうしても欠かすことはできないと考えたのだ。

 それらを慣れた手際で作り終えると、部屋の隅に立ててあった真新しい藤製のピクニックバスケットを手に取った。出かける直前まで冷やしておくプリン以外のものを、一つずつ丁寧にバランスよくその中に詰めていく。このピクニックバスケットも、中のビニルシートや水筒なども、すべて彼女と約束を交わした後に急いで買いそろえたものである。こうやって律儀にピクニックの準備をするなど、彼女と出会った頃の自分からは想像もつかず、何か懐かしいようなくすぐったいような不思議な感じがした。

 馬の手配は昨日のうちにすませてあった。

 湖畔までの交通手段となるものが何もなかったため、サイファが遠乗りのときに使っていた王宮所有の馬を借りられるよう話をつけてきたのだ。本来、貸し出しはしていないらしく、ラウルも最初はにべもなく突っぱねられた。サイファはラグランジェ本家の人間ということで特別だったらしい。だからといって素直に引き下がるわけにはいかなかった。褒められた方法ではないが、圧倒的な魔導力をちらつかせ、軽く脅し文句を口にすることで、今日一日の貸し出しを強引に承諾させたのである。サイファが良くて自分が駄目な道理はないだろう、というのが自身の行動に対する言い訳だった。何より他に当てがなく、時間も迫っていたので、手段を選んでいる余裕などなかったのだ。


 遅いな――。

 ラウルは遠乗りの準備を万端に整え、医務室で本を読みながらレイチェルを待っていたが、来るはずの時間が過ぎても彼女は一向に姿を現さなかった。そろそろ出発しなければ昼に着くには難しい時間になっている。

 多少、遅れることくらい構わないが、理由がわからないので不安になる。

 いくらなんでも忘れているなどということはないと思う。昨日の今日である。それほど物忘れのひどい女ではない。むしろ記憶力に関していえば、並みの人間よりも遥かに優れているのだ。

 おそらく少し寝過ごしてしまっただけなのだろう。きっと今に小走りで駆け込んできて「ごめんなさい」と愛らしくも申し訳なさそうに詫びてくれるに違いない――そんなふうに楽観的に考えることで、ラウルは焦燥感に駆られる自分自身を無理やり落ち着かせようとしていた。


 しかし、昼になってもレイチェルは来なかった。

 昼休みの喧噪が遠くに聞こえる。時折、医務室の前を通る足音にドキリとしたが、それはどれも素っ気なく通り過ぎるだけで、医務室に入ってくるものは皆無だった。

 何かあったのだろうか、それとも――。

 ラウルは本を閉じて頬杖をつく。活字を目で追っても少しも頭に入ってこない。頭は無意識にこの状況についてのあらゆる可能性をシミュレーションしていた。次第に心のさざなみが広がっていき、いてもたってもいられなくなる。

 こちらから連絡を取るべきなのかもしれない。

 衝動に突き動かされるように、机に両手をついて立ち上がろうとする。しかし、その勢いは途中で止まった。中途半端に腰を浮かせたまま思案すると、やがて溜息をつき、深くうつむいて静かに座り直した。

 あともう少しだけ待とうと思った。

 それがどのくらい意味のあることなのかわからない。ただ逃げているだけなのかもしれない。そんなことを考えながらも、やはり行動を起こすことはできなかった。眉根を寄せて頬杖をつき、どこでもない一点を見つめながら、医務室に届く音にじっと耳を澄ませた。


 遠くのチャイムが昼休みの終わりを告げ、医務室の周辺には再び静寂が訪れた。聞こえるのは風に揺れる木々のざわめきくらいである。

 レイチェルはいまだに来ていない。

 ラウルは頬杖をついたまま微動だにせず考え込んでいる。まだその場から離れることは出来ずにいるが、いいかげん現実を受け入れようとする気持ちが起こり始めていた。今日はもう諦めた方がいいのかもしれない。急用があって来られなくなったのなら仕方のないことである。

 だが、連絡すら寄越さないのはなぜなのだろうか――。

 そのことが、ラウルの心に仄暗い不安を募らせていった。


 ドンドンドン――。

 唐突に建て付けの悪い扉が派手な音を立てる。

 ラウルはハッとして弾かれたように立ち上がった。焦茶色の髪をなびかせ一目散に駆けていくと、飛び出さんばかりに威勢よくガラリと扉を開け放つ。

「レ……」

 しかし、そこにいたのは待ち人ではなかった。ラウルと同じく王宮医師として勤務しているサーシャである。扉の開かれた勢いに面食らったのか、少し身を引き、目を丸くしながら呆然としていた。だが、すぐに眉を寄せて口をとがらせると、長身のラウルをじとりと睨み上げる。

「ねぇ、なんか今、ものすごくガッカリしなかった? 私の顔を見て」

「おまえの顔を見て喜べとでも言うのか」

 思いきり図星を指されたが、まさか他の女と間違ったなどと言えるはずもない。無表情を装ったまま捻くれた言葉を返すことで誤魔化そうとした。だがそれも徒労に終わる。

「もしかして恋人と勘違いした? 待ちぼうけくらってんの?」

 サーシャはニヤリと口の端を上げ、見透かしたかのようにそう尋ねてきた。

 プレゼントの一件以来、彼女は何かにつけてラウルの恋愛話を聞き出そうとつついてくるようになった。物珍しさから面白がっているだけなのだろう。もちろんラウルが取り合うことはない。そのためいろいろと勝手な解釈をしているようだが、彼女にどう思われようと知ったことではない。誤解でも何でも好きにすればいいと思っていた。

 だが、今は気が立っているせいか、些細な一言が聞き流せなかった。

 待っているのは「恋人」などではない。自分の気持ちはともかく、関係としてはただの教え子でしかないし、今後そういう関係になる可能性もゼロである。たとえ、自分がどれほど強く切望したとしても――ラウルはやり場のない怒りを内に秘めたまま、冷たく燃えたぎる瞳でサーシャを射抜き、一段と低い凄みのある声を突きつける。

「何をしに来た」

 彼女の好奇の笑みは一瞬で消え去った。蛇に睨まれた蛙のごとく身を竦ませると、目を見開いたままごくりと唾を飲み込んだ。それでも仕事に関する話のためか、もともとの性格ゆえか、強気な態度だけは崩さずに答える。

「ほ……報告書、締め切りきのうだったよ。いいかげん手間かけさせないでよ」

「……悪かった、明日には提出する」

 昨日の午前中までは確かに覚えていたが、レイチェルと約束を交わしてからは、それ以外のことを考える余裕がなくなってしまったようだ。このところいつも同じような理由で失念している。サーシャに催促されるのもこれで三度目だろうか。彼女が不機嫌になるのも当然のことである。

「頼んだわよ」

 サーシャはぶっきらぼうに白衣のポケットに両手を突っ込んだ。小さく息をついて踵を返そうとするが、ふとその足を止めると、遠慮がちにそろりと振り向いてラウルを窺う。

「……ねぇ」

「何だ」

 ラウルは訝しげに眉をひそめて尋ねた。それを見て、なぜか彼女はふっと寂しげな笑みを浮かべ、目を伏せながら小さく頭を横に振った。

「何でもない。じゃあ、報告書のこと忘れないでね」

 さらりと念を押すようにそう言うと、今度は振り返ることなく軽く右手を上げながら立ち去っていく。その足どりに合わせて、後ろでひとつに束ねた赤茶色の髪が小さく上下に弾んでいた。


 それから数時間が過ぎた。

 その間も、ラウルは何も手につかないまま医務室の自席に座り、ただひたすらじっと静かに待ち続けていた。もう来ないだろうとほとんど諦めかけていたが、一縷の望みまでもはどうしても捨てきれなかった。そして、そのことが余計に彼を苦しめていた。

 薄い唇から溜息がこぼれる。

 ラウルは机に手をついて立ち上がった。淡々とした足どりで窓際へ向かうと、クリーム色のカーテンを体の幅ほど開き、ガラス越しに外の景色を眺める。

 日はすでに半分ほど沈みかけていた。地平近くの空は朱く鮮やかに染まり、対照的に、医務室の真下の裏道には大きな影が落ちている。日中でも人通りの少ないそこには、当然のように誰の姿も見つけることは出来なかった。


 コン、コン――。

 再び、医務室の扉をノックする音が聞こえた。

 頬杖をついていたラウルの心臓はドクンと大きく跳ねる。落ち着きを取り戻した今ならば、誰であるかはノックの仕方である程度の判別がつく。これは少なくともサーシャではない。彼女はいつも怒ったように乱暴に扉を叩くが、今回はそれとはまるで違う、優しく上品なノックなのだ。

 今度こそレイチェルではないか。

 望みなど持ってはいけないと思いつつ、自ずと高まりゆく期待は止められない。今からではもう出かけることは無理だが、それはまた次の機会にすればいいだけのことだ。急用で行けなかったのだと、連絡する余裕もなかったのだと、そのことがわかりさえすれば十分である。

 ラウルは立ち上がって扉へ向かうと、息を止めてガラリとそれを引いた。

「こんにちは、ラウル。突然お伺いしてごめんなさい」

 そう言って微笑んだのは、レイチェルではなく、その母親のアリスだった。彼女一人だけで他には誰もいない。用件はおそらくレイチェルに関することだろう。それ以外にアリスがわざわざラウルを訪ねる理由はない。

「中でお話させていただきたいのですけど、よろしいかしら?」

「ああ、構わん」

 ラウルは平静を装ってそう言うと、扉を大きく開いて彼女を中に招き入れた。


 アリスがこの医務室を訪れたのは初めてのことである。

 中ほどまで歩を進めてから立ち止まると、一通り観察するように、広くはない部屋をぐるりと見まわした。それからラウルに振り向き、くすっと笑って言う。

「飾り気がないのがいかにもラウルらしいわね」

「話があったのだろう」

 ラウルは焦る気持ちを声に乗せないよう用心しながらそう言うと、自分の席に腰を下ろし、アリスに患者用の丸椅子を差し出した。促されるまま、彼女は流れるような所作でそこに座った。両手を重ねて膝の上に置き、背筋をすっと伸ばすと、まっすぐにラウルの瞳を見つめて言う。

「レイチェルの家庭教師の件です」

 ラウルは表情を動かすことなく、じっと次の言葉を待った。

 アリスはそれに応えるように、落ち着いた明瞭な声で本題に入る。

「予定ではあと一月でしたけれど、こちらの事情により、昨日の授業で終わりにさせていただくことになったの。誤解はしないでね。ラウルには何の問題もなくて、本当にこちらの都合なの。勝手を言ってごめんなさい」

「……いや」

 彼女の話す内容については理解できたが、それを飲み込むには少し時間がかかった。ラウルは暫しの間の後に曖昧な返事をした。それが精一杯だった。思考からして混乱しているのに、口にする言葉など思い浮かぶはずもない。

 アリスは申し訳なさそうに肩を竦めて付け加える。

「約束どおり来月までの授業料はお支払いするわ」

「不要だ。働いてもいないのに受け取るつもりはない」

 ラウルは金目当てで家庭教師を引き受けたわけではなかった。そもそも王宮医師としてそれなりの報酬を得ている。一人で慎ましやかに暮らしていくには十分すぎるほどの金額だ。それ以上は望んでいないのである。

「では、これまでの謝礼ということでどうかしら」

 アリスは目をくりっとさせて悪戯っぽく問いかける。それを見て、ラウルは小さく溜息をついた。娘のレイチェルと同じく、アリスにも自分の意思を曲げない強情なところがあるようだ。

「好きにしろ」

 いかにも面倒くさそうに、仏頂面でそう言い捨てる。

 アリスはくすっと小さく笑った。

「近いうちにアルフォンスが挨拶に伺うわ。都合がいいのはいつかしら?」

「いつでも構わん。たいていはここにいる」

 もはやラウルには何の予定もなかった。出かけることさえほとんどないだろう。せいぜいが王宮医師としての会議くらいのものだ。あとは患者すら滅多に寄りつかないこの医務室で、ひたすら空疎な時間を送るだけである。

「では、アルフォンスにそう伝えておきます」

 そう言って立ち上がろうとしたアリスに、ラウルは咄嗟に声を掛ける。

「レイチェルは……その、大丈夫なのか」

「えっ? ああ……」

 アリスは一瞬きょとんとして聞き返したが、すぐにラウルの言いたいことを理解したらしく、低めの声を落として僅かに目を伏せた。そして、少し困ったような笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。

「病気や怪我ってわけじゃないの。心配するようなことは何もないわ。ただちょっとした事情があって理由が話せないだけで……ごめんなさい、あなたにはこれまでさんざんお世話になっておきながら、こんな筋の通らない終わらせ方をしてしまって。許してもらえるかしら?」

「私はおまえたちの決定に従うだけだ」

 ラウルは投げやりにそう言って腕を組んだ。無表情のまま口を固く結ぶ。自分はただ雇われただけの存在であり、解雇の理由を問いただす権利も、それを非難する権利もありはしない。

 アリスは神妙な面持ちでラウルの瞳を見据えた。

「ありがとう、あなたの優しさに感謝します」

 包容力を感じさせる温かな声で言葉を落とすと、椅子に座ったまま深々と頭を下げる。レイチェルのものより少し濃い金色の髪が、細い肩からサラサラと滑り落ちた。


 ラウルは医務室を後にするアリスを見送ると、重い腰を上げて、朝から待ち続けたその場所を離れることにした。もう待つことに意味はなくなったのだ。そうなるまで動くことができなかった自分を情けなく思う気持ちもあるが、今さらそんなことを嘆いたところで何もなりはしない。

 奥の薄暗い自室に戻ると、灯りもつけずにじっと佇む。

 ダイニングテーブルの上には藤製のピクニックバスケットが鎮座していた。それを照らすかのように、カーテンの隙間から一筋の光が差し込んでいる。しかし、その光も急速に弱まり、みるみるうちに掻き消えていった。

 ラウルはテーブルの端に手を掛けると、椅子に腰を下ろし、背中を丸めて大きくうなだれた。焦茶色の髪が肩から落ちて横顔を覆う。

 アリスの口ぶりからすると、レイチェルの身に何かが起こったわけではなさそうだ。それについては素直に安堵した。連絡すら来なかったので、事故に遭った可能性もあるのではないかと心配していたのだ。

 しかし、そうなると本当に理由がわからない。

 今日の約束を反故にするだけでなく、家庭教師までも終わりにするなど、これではまるでラウルのことを避けているとしか思えない。

 これが、おまえの答えなのか――?

 最後に見た彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。つい昨日のことだ。楽しみにしていると声を弾ませて愛くるしく笑っていた。なのに、彼女にいったいどんな心境の変化があったのだろうか。

 いや、そうではない。

 ラウルには素振りすら見せていなかったが、レイチェルはこのところ元気をなくしていたらしい。深く悩んでいる様子だとアリスから聞いた。ずっと考えた上で出した結論なのかもしれない。もしかすると、一方的に持ちかけたこの約束が、そのきっかけになったのだろうか。

 ラウルは机に肘をつき、額を掴むように押さえた。

 自分にその決断を責める権利はない。だが、せめてレイチェル本人の口からそのことを聞きたかった。それすらも身勝手で傲慢な言い分あることは理解している。言えなかったから、もしくは言いたくなかったから、このような手段を選んだことくらい推測がつく。それでも、このままさよならすら告げることができず、これきりになってしまうことを、容易に受け入れることは出来なかった。

 崩れるようにダイニングテーブルに突っ伏す。

 藤製のピクニックバスケットに腕が当たり、床に落ちて中のものが散乱した。水筒が転がり戸棚にぶつかって止まる。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。どうせ必要のなくなったものである。この先ずっと、もう二度と――ラウルはテーブルの上に投げ出したこぶしを震えるほど強く握りしめる。爪が食い込んだ手のひらに、生ぬるい血がじわりと滲んだ。


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