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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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25. 本当のけじめ

「今日はここまでだ」

 ラウルがいつものように授業の終わりを宣言すると、レイチェルはすぐに机の上を片付け始めた。そそくさと教本を本棚に収め、筆記具を引き出しにしまい、机に手をついて軽やかに立ち上がる。

「行きましょう」

 そう言うと、ふわりとドレスを揺らして振り向き、ニコッと無邪気な笑みを浮かべた。

 しかし、ラウルは椅子に座ったまま動こうとしなかった。自分の教本を片付けようともせず、ゆっくりと腕を組んでうつむく。

「どうしたの?」

「話がある。座れ」

 レイチェルは不思議そうな顔をしていたが、命じられるまま素直に腰を下ろした。机ではなくラウルの方を向き、行儀良く膝の上に両手をのせて、大きな瞳でじっとラウルを見つめながら次の言葉を待っている。

 ラウルは深く息をしてから口を開いた。

「今後、もうおまえを私の部屋には入れない」

「……どうして?」

 レイチェルは大きく目を見張ったが、それでも冷静を保って理由を尋ねた。

「どうしてもだ」

 ラウルは答えにならない答えで突き放す。

 これは彼なりのけじめである。

 残りの三ヶ月、出来ることなら彼女とともに過ごしたかった。だが、同じ過ちを繰り返さないためにはこうするしかない。一度外れた箍は、完全には元通りにならないのだ。もう自分を抑える自信はないのである。

「今までのように一緒にお茶を飲むだけでいいのに」

「駄目だ」

 寂しそうに呟くレイチェルを、ラウルは冷淡に一蹴した。そうしなければ、せっかくの決意が揺らいでしまいそうだった。しかし、それは自分の不甲斐なさを彼女に押しつけていることに他ならない。申し訳なく思う気持ちが胸を締めつける。

 しかし、当然ながら、レイチェルはそんなラウルの心情を知るはずもなかった。拒絶されている理由すらわからないのだろう。蒼の瞳が不安そうに揺らぐ。そこには微かな怯えも見て取れた。だが、すぐにそれを隠すように目を伏せると、遠慮がちに小さな口を開く。

「私、気にしていないから……」

 ラウルはその意味がわからず、怪訝に眉をひそめて彼女を見た。

「誰かの代わりだったとしても、私は気にしていないから」

 レイチェルはそう言い直して、どこか寂しそうに小さく微笑むと、さらに淡々と言葉を重ねていく。

「本当は私のことを好きになってほしかったけれど、ラウルが救われるのならそれでいい。役に立てるだけで嬉しいの。だから、ラウルが罪悪感なんて感じることはないわ」

 ――こいつ、まさか今までずっと……!

 ラウルは砕けんばかりに強く奥歯を噛みしめた。彼にしてみればもう終わったことである。それにもかかわらず、今さらこんなことを言い出され、まるで不意打ちを食らったような気分だった。

 確かに、三年前のあのときに指摘されたことは事実である。

 レイチェルを通して別の少女を見ていた。守るべき役目を負っていながら、守ることができなかった少女を――。彼女は自分にとって、幼い頃から大切に育ててきた、いわば娘のような存在である。レイチェルに対する思いも、当初はそれと似たものだったかもしれない。だが、今ではもう別のものに変わっているのだ。

 ラウルが我を忘れるほど渇望したのはレイチェルただ一人である。

 心も体もすべてを手に入れたいと思ったのは彼女が初めてである。

 誰かの代わりであるはずがないのだ。

 知ってほしくないことは敏感に感じ取るくせに、察してほしいことは何も気づいてくれない。それが故意でないことは理解している。それでもどうにも納得がいかず、抑えようのない怒りが胸に湧き上がる。

「おまえは……」

 眉をしかめて低い声で文句を言いかけたそのとき、ふとある考えが頭に浮かんだ。

 このことを利用すれば、レイチェルを確実に諦めさせることができる。彼女ならそれで身を引くはずだ。少なからず嫌な思いをさせてしまうことは間違いないが……いや、いっそこれで愛想を尽かしてくれるのならば、その方が都合がいいのかもしれない。

 ラウルはしばらく難しい顔で逡巡していたが、やがて意を決すると、真剣な眼差しでまっすぐに彼女を見つめ、躊躇うことなく決然と言う。

「おまえでは、あいつの代わりにはなれない」

 それは彼女が縋った存在理由の否定。

 レイチェルは雷に打たれたように硬直した。

「…………そう」

 息が詰まりそうなほどの長い沈黙のあと、小さな声でようやくそう言うと、首が折れそうなほどに深くうなだれた。細い金の髪がさらさらと肩から滑り落ち、白いうなじが僅かに覗く。彼女がどんな表情をしているのか、ラウルからは見えなかった。

 重苦しい静寂が続く。

 レイチェルは膝の上においた手をギュッと握りしめて顔を上げた。その表情は硬いものだったが、気丈にもすぐにニコッと笑顔を作って明るく言う。

「わかったわ。でも、家庭教師は続けてくれるのよね?」

「ああ、あと三ヶ月は約束どおりに行う」

 本当は家庭教師もきっぱり辞めてしまった方がいいのだろう。しかし、ラウルはアルフォンスに雇われている身である。ラウルの一存で決めることはできないし、辞めると申し出れば間違いなく理由を詮索されてしまう。その理由を答えられない以上、あと三ヶ月、当初の約束どおり続けるしかないと思う。

「じゃあ、門のところまで送るわね」

「……ああ」

 ラウルが静かにそう答えると、レイチェルは椅子から立ち上がり、くるりと身を翻して足早に扉へと向かった。薄水色のリボンが後頭部でひらりと揺れている。その動きに誘われるように、ラウルは無言で教本を脇に抱えてついていった。


「またあしたね」

「……ああ」

 レイチェルは門を出たところで立ち止まると、後ろで手を組み、少しぎこちない笑みを浮かべてラウルを見送る。それは彼女の精一杯の優しさだったのかもしれない。

 理由も言わず一方的に拒絶したのはラウルの方だ。

 それにもかかわらず、素直に従う彼女を見ていると、申し訳なく思うと同時に、胸にすきま風が吹き抜けるような寂しさを覚えた。そんなのは嘘だと責めてくることを、嫌だと泣きついてくることを、心のどこかで期待していたのだろう。もちろん、それが呆れるほど理不尽な気持ちであることは十分に自覚している。

 彼女に背を向けて歩き出す。

 すぐに振り返りたくなる衝動に駆られるが、思いとどまり、前を向いたまま足を止めずに歩き続ける。視線の先には優しい色の空が広がっていた。繊細なレースのような薄い雲がゆっくりと漂い流れていく。

 そこにあったのはとても静かで穏やかな空気だった。

 ただ、頬に当たる風だけは少し冷たかった。


 翌日も家庭教師の授業は予定通りに行った。

 レイチェルの様子は、たった一日ですっかり元に戻っていた。真面目に授業を受ける姿勢も、屈託のない笑顔も、明るく澄んだ声も、拍子抜けするくらい普段どおりである。そこに悲しさや寂しさといった感情は見つけられなかった。

 彼女にとって、所詮、自分はその程度の存在なのかもしれない。ともに過ごせないことをつらく思ったとしても、それは最初だけで、すぐに他のもので埋め合わされてしまうのだ。いつまでも引きずっているのは自分だけなのだろう。

 しかし、それでいいのだとラウルは自分に言い聞かせた。

 レイチェルには婚約者のサイファがいる。ラウルとのことにこだわり続けるよりも、きっぱりと断ち切った方が幸せになれるはずだ。彼女が幸せであればいい――それがラウルのほんの少しの強がりを含んだ本音だった。

 彼に残されたのは味気のない毎日である。

 レイチェルとともに過ごす時間がどれほど大きな意味を持っていたか、ラウルはそれを失うことであらためて思い知らされた。それでも家庭教師が続いているだけまだましなのかもしれない。家庭教師が終わってしまえば、味気ないどころではなく、彼女と出会う以前のような空っぽの日々が続くことになるだろう。

 ひとりで暗く静かな部屋に戻ると、ラウルはダイニングテーブルを見下ろす。

 その瞬間、指定席に座って紅茶を飲む彼女の姿が思い出される。毎日のように目にしていたその光景は、もう現実になることはないのだ。目を瞑り、深く溜息をつく。叶わない夢を見るのはもう止めなければならない。

 この状況を招いたのは自分の行動である。

 それがなければ、残りの三ヶ月を穏やかに過ごすことが出来ただろう。

 しかし、後悔しているのかは、ラウル自身にもわからない。

 その行動が正しいものでないことは理解している。彼女のためを思うならば、やってはならないことだった。後悔すべきなのだろう。だが、自分の中にはそれを肯定する気持ちも少なからずあった。自分が強く望んだことなのだ。当然といえば当然なのかもしれない。平穏な三ヶ月と引き替えに、叶わないはずだった奇跡のような時間を手に入れた――そう考えれば悪くない。いや、十分すぎるほどだ。あの日のことは、彼女と会えなくなっても一生忘れることはないだろう。

 しかし、それは身勝手で一方的な思いだ。

 レイチェルがどのように考えているのかは、ラウルにはわからない。それを彼女に尋ねようとも思わない。今さら知ってもどうにもならないことである。ただ、せめて思い出として心に留めるつもりでいてくれればと、そんな未練がましいことを密かに願った。


 けじめの日から静かに二ヶ月が過ぎ、ラウルがレイチェルの家庭教師でいられるのは残り一ヶ月となった。未だにもどかしく思う気持ちは燻っているが、それでも何も行動を起こすわけにはいかない。ラウルに出来ることは、引き続き、ただ黙々と役目を果たすだけである。


 その日の空は果てしなく澄み渡っていた。

 ラウルはレイチェルの家へやって来ると、いつものように二階にある彼女の部屋へ向かおうとした。しかし、階段に足をかけたところで、居間から顔を覗かせたアリスに呼び止められる。

「ちょっとだけ、いいかしら」

「何だ」

 アリスの小さな手招きに従い、ラウルは彼女の立つ居間の前へと足を進めた。しかし、彼女はなおも手招きをして、ドレスの裾が触れるほど近くまでラウルを呼び寄せると、顔の横に手を添えながら少し声をひそめて尋ねる。

「もしかして、レイチェルと喧嘩しているの?」

「……そういうわけではない」

 彼女の唐突な質問に、一瞬、ラウルは息が止まりそうになった。

「それじゃあ、あの子が一方的に怒らせたのかしら?」

「いや……」

 今度は歯切れ悪く答える。下手なことは言えないと思った。どう答えるのが最善なのか、今の段階では情報が少なすぎて判断がつかない。彼女の出方を窺う方が賢明だろう。無表情を装ったまま、促すようにじっとその双眸を見つめる。

 アリスはふっと息をつくと、少し困ったような顔で小さく笑った。

「このところ、あの子、すっかり元気がなくてね。何か思いつめている様子で、かなり参っているみたいなの」

 ラウルは少し目を大きくした。教本を持つ手に無意識に力がこもる。

「ラウルと喧嘩でもしたの? って訊いたら、『私がいけなかったの』って……。何があったのかは、いくら訊いても言おうとしなかったわ。多分、あの子が我が侭を言ったか、配慮のないことを言ったかだと思うんだけど……」

 アリスはそこで言葉を切り、上目遣いでラウルを窺った。それでも何も言おうとしないラウルを見て、自分の推測は間違っていないと勝手に確信したようだ。軽く溜息をつくと、申し訳なさそうに切り出す。

「母親の私がこんなことを言うのも何だけど、あの子も反省しているだろうし、そろそろ許してやってもらえないかしら。きちんと謝るように言っておくから」

 ラウルは眉根を寄せてうつむいた。

 考えてみれば、レイチェルはつらいことがあっても、悩みごとがあっても、滅多にそれを他人に見せることはなかった。常にまわりの人間に心配を掛けないように振る舞おうとしていた。ラウルに突き放された今なら、なおのこと本音を見せようとはしないだろう。そんなことにも気づかないなど、自分はいったいこれまで彼女の何を見ていたのだ――。

「いや……謝るのは私の方だ。すまなかった」

 カラカラの喉の奥から絞り出すようにそう言うと、アリスは心からほっとしたように、胸に手を当てて柔らかく微笑んだ。それはいつもレイチェルが見せる甘い笑顔と重なるものがあった。

 ラウルは正視できずに顔をそむけた。

 それをごまかすように素早く身を翻し、足早に階段の方へと歩き出す。そして、深く呼吸をして気持ちを静めると、教本を抱え直し、レイチェルの部屋へと続く階段を一段ずつ踏みしめながら上っていった。


「今日も来てくれてありがとう」

 家庭教師の授業が終わると、レイチェルは門の前まで足を運び、屈託のない愛くるしい笑顔を見せながら、感謝の言葉とともにラウルを見送る。

 それはこの二ヶ月の間、ずっと続いてきたことだった。

 その度にラウルは取り残されたような寂しさを感じていたが、笑顔の裏に秘められた思いを知った今は、胸が潰れそうなほどに苦しく、そして焦がれるほどに愛しく思う。

「レイチェル、明日は休日だな」

「……ええ?」

 レイチェルは大きく瞬きをしながら少し訝しげに返事をした。当たり前のことを確認するラウルの意図がわからなかったのだろう。それに答えるように、ラウルはまっすぐに彼女を見据えて言う。

「二人でどこか、誰もいないところへ出かけたい」

「……どうして?」

 レイチェルは感情の抜け落ちた声でぽつりと尋ねた。

 それでもラウルは動じることなく、なおも真剣な眼差しを向けて説得を続ける。

「おまえに話したいことがある」

「今、ここでは話せないの?」

「長くなりそうだ。落ち着いて話をしたい」

「そう……わかったわ」

 レイチェルは少し考えてから静かにそう答えると、ニッコリと明るい笑顔を見せた。そして、後ろで手を組み、小さく首を傾げながら尋ね掛ける。

「どこへ行くの?」

「そうだな……」

 ラウルは眉根を寄せて考え込む。彼女を誘うことに精一杯で、そこまで具体的には考えていなかった。誰にも邪魔をされず、二人だけで落ち着ける場所は――。

「前にサイファと行った森の湖畔は?」

「そこにしよう」

 レイチェルの提案を即座に採用する。ラウルの条件にこれほど合致する場所は他にないだろう。少なくとも、あまり外を出歩かないラウルには思いつかなかった。

「馬の手配と昼食の用意はしておく」

「私は、朝、ラウルのところへ行けばいいのね」

「ああ……そうだな、それでいいだろう」

 ラウルが迎えに行ってもよかったが、それではアリスやアルフォンスにいろいろと詮索されかねない。レイチェルが来てくれるのであれば、その方がありがたいと思う。

「楽しみにしているわ」

 そう声を弾ませるレイチェルに、ラウルはそっと左手を伸ばして柔らかな頬を包み込んだ。そのまま瞬きもせず彼女の瞳をじっと見つめる。そしてゆっくりと身を屈めると、反対側の頬に軽い口づけを落とした。

 それは約束のしるしである。

 その意図を理解できなかったせいか、触れることすら久しぶりだったせいか、レイチェルは驚いたように大きく瞬きをした。呆然とラウルを見つめる。しかし、やがて小さくこくりと頷くと、華やかな愛くるしい笑みを顔いっぱいに広げた。

 それが心からのものかはわからない。

 だが、そうであってほしいと願わずにいられなかった。


 二人を急かすように、強い突風が通り過ぎた。

 ラウルは目を閉じて踵を返すと、長い髪をなびかせながら歩いていく。

 心は決まった。

 明日、レイチェルにすべてを話す。かつて守るべきだった少女のことも、その面影を重ねていた頃の想いも、それとは違う今の想いも、唐突に遠ざけた本当の理由も、そしてラウルがいま願うことも――その上で彼女に判断を委ねるつもりだ。

 夢を見ているわけではない。

 おそらく結果的には何も変わらないだろう。彼女はこの国でサイファとともに生きることを選ぶに違いない。それが最も有り得べき妥当な予想である。

 しかし、それでもやらねばならない。

 今までのラウルは狡かった。自分のことは何も話さず、彼女のためだと理由を付け、勝手に先回りして決めつけていた。それで彼女を守っているつもりだったのだろう。だが、その身勝手な気持ちの押しつけが、逆に彼女を追い詰めてしまったのだ。

 彼女もいつまでも守られるだけの子供ではない。

 嘘やごまかしではなく、彼女を信じ、本心で向かい合うべきだった。しかし今からでも遅くはない。期限が来る前に気づけたことは幸運だったといえる。きちんと誤解を解いたうえで彼女を送り出そう。それこそが本当のけじめだと思う。

 ラウルは立ち止まって顔を上げた。

 明日も晴れるだろうか――。

 彼女との約束に思いを馳せながら、どこまでも続くような青い空を仰ぎ、その眩しさに少しだけ目を細めた。


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