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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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22/34

22. プレゼント

「誕生日プレゼント?」

 レイチェルはきょとんとして小首を傾げた。いつもの指定席に座ったまま、両手をダイニングテーブルの上に置き、向かいのラウルに不思議そうな視線を送る。

「そうだ。おまえからはもらったが、私は何もやっていなかっただろう」

「そんなこと気にしなくてもいいのに」

「そういうわけにはいかない。誕生日パーティに出席したのだからな」

 ラウルは真剣な顔で言った。

 彼女の誕生日から二日が過ぎてしまったこともあり、少し迷っていたが、結局やはりプレゼントくらいは贈るべきだという結論に達したのである。そうしないことには自分の気持ちも治まらない。そこにはサイファへの対抗心も少なからずあったと思う。

「何か欲しいものはあるか?」

「別にないけど」

 レイチェルはあっさりと言う。しかし、それではラウルが困るのだ。

「何かひとつくらいはあるだろう」

「うーん……そうね……紅茶が飲みたいわ」

 レイチェルは少し考えてから答えた。はぐらかしたわけではなく、思ったまま素直に言っただけなのだろう。確かに彼女の欲しいものには違いない。だが、ラウルの求めていた答えとは違う種類のものだ。

「わかった、今から淹れてやる。ただし、これはプレゼントとは別だからな」

 ラウルはそう前置きしてから立ち上がった。


 芳醇な香りの紅茶に、ふんわりと甘いケーキ――。

 それらをレイチェルの前に差し出すと、彼女は待ちきれないとばかりに顔を綻ばせた。いただきますと行儀よく言ってから、紅茶をひとくち飲み、続けてケーキを口に運ぶ。その幸せそうな笑顔を眺めながら、向かいのラウルもフォークを手に取った。

 いつもと変わらない優しく穏やかな空気が二人の間に流れる。

 だが、先ほど中断した話のせいか、今日のラウルは心から落ち着くことはできなかった。機を窺いつつ、その話を切り出す。

「それで、誕生日プレゼントのことだが……」

「ラウルにはいつもお茶を飲ませてもらっているし、それで十分よ」

 レイチェルはティーカップを両手で持って微笑む。

「いや、それでは私の気がすまんのだ。遠慮はするな。何でも欲しいものを言え」

「そう言われても……」

 彼女は困ったように眉を寄せて口ごもった。

 それを見て、ラウルはようやく気がついた。自分の行為はただの身勝手な気持ちの押しつけにすぎない。彼女が望んだわけでもないのに、答えを強要する権利などないのだ。彼女を困らせるのは本末転倒である。諦めるしかないと思った、そのとき――。

「あ、だったらラウルが考えて」

 レイチェルはパッと顔を輝かせ、胸元で両手を合わせた。

 ラウルには彼女の言わんとすることがわからなかった。怪訝に眉をひそめると、無言で問いかけるような視線を送る。

「ラウルが私のために選んでくれたプレゼントが欲しいの」

 レイチェルはにっこりと微笑んで言い直した。そして、ちょこんと首を傾げると、大きく瞬きをして続ける。

「考える時間は二日でいいかしら。あまり長く時間をとっても、ラウルが大変になると思うの。二日で考えつかなかったら、そのときはプレゼントは無しにしましょう」

「……ああ、わかった」

 ラウルは一方的な提案に動揺しつつも、何も言い返すことなく了承した。

「じゃあ、楽しみにしているわね」

 そう言って、レイチェルは屈託のない笑顔を見せた。少し残っていた紅茶を飲みきると、椅子から立ち上がり、じゃあねと小さく手を振りながら部屋を出て行った。


 物音ひとつしない静寂の中、ラウルは両手で頭を抱え込んでダイニングテーブルに突っ伏した。長い焦茶色の髪が、丸くなった背中からさらりと滑り落ちていく。

 自分で考えて選べだと――?

 そんなことが出来るくらいなら、初めから尋ねたりはしない。出来ないから尋ねているのだ。相手の喜びそうなものを察する能力など、あいにく持ち合わせていないのである。

 それにもかかわらず、レイチェルはとんでもない難題をふっかけてきた。もちろん彼女に悪意がないことはわかっている。しかし、だからこそ、そんな無邪気な彼女を少し憎らしく思った。


 ラウルは気持ちを落ち着かせようと、紅茶を淹れ直し、再びダイニングテーブルについた。しかし、紅茶には手をつけないまま、腕を組み、目を閉じ、身じろぎもせずじっと考える。

 無難なところでは花束か――。

 彼女に贈るとなればピンクローズ以外に考えられない。それが彼女に最も似合う花であり、また、彼女自身も気に入っている花だ。しかし、それではサイファと全く同じになってしまう。花の種類が違うのならまだしも、種類まで同じのというのは、さすがにありえないだろう。

 花以外となると何が――。

 彼女の好きなもの、興味のあるものを贈るのが筋だろうが、それが思いつかない。

 紅茶とケーキは好きなようだが、毎日のように出しているものを改めてプレゼントなどということはおかしい。茶葉であればと思ったが、彼女は自分で茶を淹れたことがないと言っていた。自分でどうにも出来ないものをもらっても、あまり嬉しくはないだろう。

 ラウルは紅茶を口に運んで溜息をついた。

 再び目を閉じて、彼女の部屋の様子を思い浮かべてみる。そこは、広くはあるが殺風景なくらいに簡素で、これといって彼女の趣味や好みが窺えるようなものはなかった気がする。

 思えば、自分は彼女のことを何も知らなかったのかもしれない。好きなものも、嫌いなものも、興味のあるものも、あらためて考えてみるとほとんど思いつかない。サイファならば彼女のことを何でも知っているのだろうか。

 ラウルは眉根を寄せて頬杖をつくと、深く盛大に溜息を落とした。

 今からこんなことでは先が思いやられる。約束の期限は二日後。それまでに何としても用意しなければならないのだ。彼女へのプレゼントを――。


 翌日――。


「何か考えついたの?」

 授業を終えたレイチェルは、手を伸ばして教本を片付けながら、楽しそうに浮かれた声で尋ねた。一方、彼女の斜め後ろに座るラウルは、腕を組んで苦渋に満ちた表情を浮かべている。

「まだ考えているところだ」

 昨晩は一睡もしなかった。とても眠れるような心境ではなかったのだ。一晩中ずっと考えていたものの、これといって進展はなく、いつまで経っても結論に辿り着けない。そのうちに、いつのまにか思考が別の方に向かってしまい、そんな自分の不甲斐なさに落ち込んだりもした。

 レイチェルはくすりと小さな微笑みを浮かべた。

「行きましょうか」

「少し待て」

 ラウルは細い肩に手を置いて、立ち上がろうとする彼女を制した。そして、代わりに自分が立ち上がると、振り返って部屋をぐるりと見渡す。

 やはり殺風景だ。

 それでも何か少しでも手がかりがないかと、その広い部屋をゆっくりと歩きまわる。

 目立つものは天蓋付きのベッドだ。しかし、これは彼女の趣味というわけではないだろう。万が一そうだとしても、こんなベッドは二つもいらないはずだ。枕にしても布団にしても一つあれば十分である。

 それ以外でめぼしいものといえば、大きめの本棚くらいである。ラウルの背丈と同じくらいの高さがあり、横幅もラウルの片腕ほどの長さはある。ラウルはその前で立ち止まると、上から下までじっくりと眺めていった。若い女性が好みそうな小説などはひとつもなく、固い内容の書籍ばかりが並んでいる。経済学や経営学、経済法などの、経済に関するものが多いようだ。

「おまえ、経済に興味があるのか?」

「それはほとんどお父さまが買ってきたものよ。あとは経済学の授業で使った本がいくつか。一応すべて読んだけれど、別に興味があるってわけじゃないの」

 一筋の光明が見えた気がしたが、すぐにそれは断たれてしまった。

 それ以外には特にこれというものはなく、結局、何の手がかりも見つけられなかった。すべてを見たわけではないが、さすがにクローゼットや引き出しの中まで覗くわけにはいかないだろう。

「ラウル?」

 先ほどまで椅子に座っていたはずのレイチェルが、いつのまにか隣に立っていた。心配そうに顔を曇らせて覗き込んでいる。

「ああ、行くか」

 ラウルは我にかえってそう言うと、教本を脇に抱え、彼女とともに部屋を後にした。


 二人の前には紅茶とケーキが置かれている。

 レイチェルは嬉しそうにケーキを食べていたが、ラウルは紅茶に少し口をつけただけで、腕を組んで目の前の彼女を見つめながら、じっと考え込んでいた。

 彼女の好きなもの、興味のあるもの――。

 今度は彼女の姿から手がかりを探す。最初に目についたのは、後頭部に付けている薄水色の大きなリボンだった。ラウルが知る限りでは、彼女はいつも同じリボンをつけている。おそらく気に入っているのだろう。

 リボンがいいかもしれない、と思う。

 しかし、すぐにその間違いに気がついた。彼女がこのリボンを気に入っているのだとすれば、別のものを贈っても仕方がない。今のリボン以上に気に入るものを選べばいいのかもしれないが、それがわかるくらいならば苦労はしない。今のものとそっくりなものにすれば、とも考えたが、誕生日プレゼントがスペアなどどう考えてもおかしい。

 ラウルは小さく溜息をつき、ティーカップを持つ彼女に目を向けた。

 ドレスはたくさん持っているようだ。似たような雰囲気のものが多い。それゆえ彼女の好みそうなものは何となく想像がつく。ドレスについての細かいことはわからないが、そのあたりは店の人間に任せればいいだろう。今から作り始めてはいつになるかわからないが、そのくらいは待ってもらえばいい。もうすでに誕生日は過ぎているのだ。一週間や二週間遅れたところでたいした違いではない。

 問題は、採寸をどうするかだ。

 彼女に気付かれないように採寸するのは不可能だ。目測なら何とかなるだろうか。しかし、彼女は平均からだいぶ離れた体型をしている。どうにも当たりがつけづらい。

「……何?」

「いや……」

 レイチェルにきょとんと尋ねられて、ラウルは慌てて視線を外した。

 やはりどう考えても無理がある。ドレスとなると細かく正確に採寸しなければならないはずだ。目測でどうにかなるものではないだろう。だからといって採寸させてくれとは言いにくい。理由も告げずにそんなことを頼んではただの変態である。いや、何も自分が採寸することはない。店で採寸してもらえばいいのだ。そうなると、プレゼントをする前に一緒に店に行くことになる。事前にあまり手の内を明かしたくないが、他に方法もないので、ここは妥協するしかないだろう。

 そこまで考えてふと思った。

 ドレスというのはどこに行けば買えるのだろうか――。

 そういう店にはこれまでまったく縁もなく、ラウルには見当もつかない。今どき日常的にドレスを着ている人間などそう多くはない。当然ながら扱う店も多くはないだろう。また、あまり頻繁に売れるものでないとすれば、専業で店を構えている可能性は低いのではないだろうか。サイファに訊けばわかるかもしれないが、それだけはどうしてもしたくなかった。

「ラウル、食べないの?」

「ああ、食べる」

 不思議そうに小首を傾げるレイチェルに、ラウルは抑揚のない声で答えた。組んだ腕をほどいてフォークに手を伸ばす。美味しいはずのケーキだが、このときばかりはほとんど味を感じなかった。


「ねー、ラウルいないの?!」

 レイチェルが帰ったあと、ラウルが医務室の自席で頬杖をついていると、外から大きな呼び声が聞こえた。それと同時に、ドンドンドンと急かすような速いテンポで乱暴に扉が叩かれる。

 普段は診療を受け付けている時間だが、今日はすでに鍵をかけてあった。

 いつもほとんど患者が来ないこともあり、どうせ来るのはサイファくらいだろう高をくくっていたのである。今は彼の相手をするより、静かにひとりで考えたかったのだ。しかし、この声はサイファではなく女性のものである。随分となれなれしい言い方をしているが、ラウルは誰だかわからなかった。

 鍵を外して扉を開ける。

 そこに立っていたのは、白衣を着た小柄な女性、王宮医師のサーシャだった。同じ立場ということもあり、会議などで顔を合わせることはあるが、仕事以外の話はしたことがない。わざわざラウルの医務室を訪ねてきたのも初めてのことである。

「何だ?」

「報告書、出てないって」

 サーシャはラウルを見上げて、ぶっきらぼうに言った。白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、仏頂面で面倒くさそうに続ける。

「期限はきのうだったよ」

「わかっている」

 王宮医師は月ごとに活動報告書を提出することになっている。その今回の期限は、彼女の言うように昨日だったのだ。午前中に報告内容はまとめてあったのだが、レイチェルのプレゼントのことで頭がいっぱいになってしまい、提出するのをすっかり忘れていたのである。

「じゃあね、伝えたから」

「待て」

 素っ気なく立ち去ろうとするサーシャを、ラウルは肩を掴んで引き留めた。

「……何?」

 サーシャは思いきり眉をひそめ、あからさまに嫌そうにラウルを睨んだ。もともと愛想のいい方ではないが、今日は一段と機嫌が悪そうに見える。ラウルのせいで面倒なことを押しつけられたせいかもしれない。

 しかし、今のラウルにはそんなことを気に掛ける余裕もなかった。

「おまえ、プレゼントに何が欲しい」

「え? くれるの?」

「やらん。参考にするだけだ」

 目を丸くして聞き返したサーシャに、ラウルは無表情で冷たく答えた。彼女に対する配慮などまるでない身勝手な言い方である。サーシャは呆れたようにじとりとした視線を向けた。

「私の答えじゃ参考にならないと思うけど?」

「いいから言え」

「現金」

 あまりにも想定外の答えに、ラウルは無表情のまま固まった。

「……現金以外だ」

「じゃあ、ダイヤかなぁ。高く売れるし」

 サーシャは斜め上に視線を流しながら、少しとぼけたように言う。

 ラウルは深く息を吐きながら肩を落とした。

「……おまえに聞いたのが間違いだった」

「だから参考にならないって言ったじゃない」

「そうだな」

 面倒くさそうにそう答えると、前髪を掻き上げて額を押さえる。同じ女性であれば何か参考になることがあるのではないかと思ったが、サーシャとレイチェルはあまりにも違いすぎた。藁にも縋る思いだったとはいえ、完全に縋るものを間違えてしまったと思う。

 ラウルは足を引いて医務室に下がろうとしたが、そのときサーシャが何か意味ありげに笑っていることに気がついた。口もとに手を当てて、上目遣いでラウルを見ながらニヤニヤしている。

「何だ?」

「もしかして、恋、しちゃった?」

 ラウルの息が止まった。大きく目を見張ったまま呆然とする。思考が停止してしまい、何の答えも返すことができなかった。しかし、サーシャはそれを肯定と受け取ったようだ。嬉しそうに一人で頷きながら声を弾ませる。

「うんうん、そうか、ラウルも人間らしいところあるんだ」

「お、まえ…………」

 ラウルは唸るような低い声でそう言うと、氷のような目で威嚇するように睨み下ろした。その視線だけで、蛇に睨まれた蛙のように、サーシャはビクリと体を強張らせた。引きつった笑顔を見せながら、それでも軽い口調を装って言う。

「やだ、もう、そんな怖い目で睨まないでよ」

「もういい、行け」

 ラウルは吐き捨てるようにそう言うと、医務室に引っ込んで扉を閉めかけた。

 そのとき――。

「プレゼント、何でもいいと思うよ」

 落ち着いたサーシャの声が耳に届いた。思わず手を止めて顔を上げる。少し離れたところで、彼女は僅かに微笑んでいた。それはからかうような表情ではなく、優しく見守るような表情だった。

「相手がラウルのことを好きなら何をもらっても嬉しいし、嫌いなら何をもらっても不快だし」

 彼女は真面目に身も蓋もないことを言った。

 ラウルは視線を落とし、奥歯を噛みしめる。サーシャの言うことはわかっていた。レイチェルはきっと何でも喜んでくれる。笑顔でありがとうと言ってくれる。それでも、下手なものは贈れないと思ってしまうのだ。それは自分の臆病さによるものなのだろう。そして、やはりサイファへの対抗心も少なからずあるのだと思う。

「頑張ってね」

 サーシャは軽い口調でそう言うと、左手を白衣のポケットに突っ込んだまま、右手を上げて背中を見せた。颯爽とした足どりで立ち止まることなく歩き去っていく。後ろでひとつに結んだ赤茶色の髪が、小さく上下に弾んでいた。

 ラウルは医務室の扉を閉めると、そこにもたれかかって大きくうなだれた。


 さらに翌日――。


 今日が期限の日である。

 レイチェルの授業に向かう前に、ラウルは母親のアリスに面会を求めた。広い応接間に通され、彼女と向かい合って革張りのソファに座る。レースのカーテン越しに差し込む光が、ガラスのローテーブルに反射し、少し眩しく感じて目を細めた。

「レイチェルのことかしら?」

「いや……頼みがある」

「ええ、私に出来ることなら」

 アリスはにっこりとして胸に手を当てる。その屈託のない微笑みは、どこかレイチェルと重なるものがあった。親子なのだから当然といえば当然である。

 ラウルは少し視線を外して言う。

「おまえたちのドレスを作った店を教えてほしい」

「……ラウルもドレスを着るの?」

 アリスは真顔で無謀なことを尋ね返した。

「そんなわけないだろう」

 ラウルは半ば呆れたような視線を送りながら否定する。しかし、本当の理由について話すつもりはなかった。いずれレイチェルにプレゼントをすればわかってしまうだろうが、今はまだ伏せておきたかったのだ。

「おまえたちに迷惑を掛けるようなことはしない」

「わかっているわ」

 アリスは安心させるようにあたたかく微笑んで言う。

「店主にラウルのことを紹介しておきましょうか?」

「いや、店の名前と場所を教えてくれるだけでいい」

 紹介してもらえば何かと利点があるのだろうが、自分の行動が筒抜けになってしまうなど、かえって面倒なことになる可能性の方が高いような気がした。もちろんそれは成り行きでそうなるという話であり、彼女の親切心に疑念を持っているわけではない。

「少し待っていて」

 アリスはそう言って他の部屋から上品な桜色の便箋を持ってくると、丁寧な文字で店の名前と住所、そして、その下に簡単な地図を書いた。二つ折りにしてラウルに差し出す。

「すまない、感謝する」

 ラウルは低い声でそう言うと、その紙を受け取って教本の間に挟んだ。その様子を眺めながら、アリスは背筋を伸ばして小さくくすりと笑う。

「レイチェルもそろそろ新しいドレスを作らなくちゃいけないわね」

「新しいドレス……?」

 ラウルが怪訝に聞き返すと、アリスは膝の上に手をのせたまま肩を竦めて見せた。

「あの子、あと一年で結婚するでしょう? そうしたらあんな子供っぽいドレスを着るわけにいかなくてね。分家ならまだしも、レイチェルが嫁ぐのは本家だから、そのあたりはきちんとしないといけないのよ」

「そうか……」

 ラウルの中で最後のプレゼント候補が消えた。せっかくもらった店の情報も、おそらく使うことはないだろう。膝の上にのせた教本を持つ指先には、無意識に力が入っていた。


 レイチェルの授業は普段どおり滞りなく終わった。

 その後ラウルの部屋にやってきた二人は、いつもの席で向かい合いながら、紅茶を飲み、ケーキを食べる。ただ、いつもと違って今日は二人とも言葉少なだった。

「ラウル、今日が期限だけど」

 レイチェルが二杯目の紅茶を飲みながら切り出した。それは、ラウルが避けられないとわかっていながらも、出来れば避けたいと願っていた話題である。ドキリとして苦い顔でうつむく。

「……すまない、何も考えつかなかった」

 自分から言い出したことにもかかわらず、こんな結果になってしまい、あまりにも情けなくて彼女の目を見ることが出来なかった。しかし――。

「ありがとう」

 耳に届いたのは思いもしなかった言葉、そして屈託のない声。

 ラウルは驚いて顔を上げた。聞き違えたのかと思ったが、そこにあったのは言葉に違わぬ優しい微笑みだった。しかし、礼を言われる覚えは全くない。逆に非難されても仕方のない状況である。彼女の態度の理由が掴めず、尋ねかけるように眉をひそめた。

「たくさん考えてくれたのよね。その気持ちがプレゼント」

 彼女の答えはとても単純で、とても優しいものだった。

 何でもいいから用意すれば良かった――。

 ラウルは強烈に後悔した。しかし、その「何でもいい」がわからなくて苦労していたのである。たとえ時間を巻き戻せたとしても、また同じ結果になるような気はする。不甲斐ない自分には、結局のところ無理だったのかもしれない。

「ラウルの悩んでいる姿を見られて嬉しかったわ」

 レイチェルは笑いながらそう言うと、空のティーカップをソーサに戻して椅子から降りた。じゃあね、と手を振って部屋を出て行こうとする。

「ま、待て」

 ラウルは慌てて声を掛けると、ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がった。

 レイチェルはきょとんとした顔で振り返る。そして、ラウルを見つめたまま、不思議そうに小さく首を傾げた。

「どうしたの?」

「何か、本当にないのか? 欲しいものは」

「そう言われても……」

 似たやりとりは二日前にもあった。あのときと同じように、自分の身勝手な気持ちの押しつけで彼女を困らせている。これでは堂々巡りである。ラウルはすぐに後悔して撤回しようとした。だが――。

「じゃあ、キスして」

 レイチェルは無垢な瞳を向けてそう言うと、ニコッと愛らしく微笑んだ。

 その瞬間、ラウルは体中に電流が駆け巡ったように感じた。

 息を止めて彼女と視線を合わせる。

 冗談を言っているようには見えなかった。思いつめているようにも見えなかった。普段と変わらない様子で、彼女はただ自然にそこに立っている。

 ラウルに断る理由はなかった。

 気持ちを静めるように深く呼吸をすると、一歩、二歩と足を進めた。彼女と近い位置で向かい合うと、白く柔らかい頬に、大きな手をそっと添えた。

「目はつむった方がいいの?」

「好きにしろ」

 無表情を崩さぬまま、腰を屈めてゆっくりと顔を近づけていく。しかし、唇が触れる寸前、互いの体温さえ感じられるくらいの距離で、ピタリとその動きを止めた。

 息を詰めて目を閉じる。

 そのとき、レイチェルの小さな吐息が、ラウルの唇に掛かった。それはまるで媚薬のような甘い刺激――彼女は無自覚なのだろうが、誘いかけているようにしか思えない行為である。

 自分の鼓動がやけに強く感じられた。体が熱くなっていく。

 そんな自己の昂ぶりを懸命に抑えながら、そっと、触れるだけの口づけを彼女の唇に落とす。おそらくこれが彼女の望んだこと。それ以上でも以下でもない。だから、自分は――。

 ゆっくりと顔を離し、体を起こす。

 視線の先のレイチェルは、焦点の合わない目でぼんやりとラウルを見ていた。しかし、ふとその目が合うと、急に我にかえってにっこりと微笑んだ。

「また、あしたね」

「ああ……」

 レイチェルは手を振って部屋を出て行く。

 その間際、一瞬だけ彼女はふっと寂しそうな表情を浮かべた。ラウルははっとして再度確認しようと思ったが、そのときにはもう扉は閉ざされ、彼女の姿を視界に捉えることはできなかった。

 なぜ、そんな顔をする――。

 ラウルにはその理由がわからなかった。大した理由などなかったのかもしれない。もしかすると気のせいだったのかもしれない。ただ、ほんの一瞬だけ見た彼女の横顔が、いつまでも脳裏に焼き付いて消えなかった。



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