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ピンクローズ - Pink Rose -  作者: 瑞原唯子
本編

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13/34

13. 沈黙という嘘

 ラウルがレイチェルとバラ園に行った日から2ヶ月が過ぎた。

 家庭教師は淡々と続けている。

 レイチェルはそれまでと変わることなく真面目に授業を受けていた。そして、終了後にはラウルを医務室まで送り、ついでに部屋に紅茶を飲みに来るのだ。もっとも、ラウルとのティータイムは毎日というわけではない。週に1、2回は、仕事を早く終えたサイファと過ごすために、部屋には寄らずに帰っていった。婚約者の方を優先するのは当然のことだろう。

 約束していた手作りのプリンは、まだ一度も持ってきていない。どうやら納得のいくものが作れていないようだ。ラウルのものと比べると何かが違う、とよく嘆いている。それでも諦めることなく、休日のたびに奮闘しているらしい。

 学習状況は良い方に向かっているといっていいだろう。

 応用問題はまだ苦手なようで、すぐに自力で解くことはないが、水を向けると少しずつ考えるようになった。当然のように思考を放棄していたときから比べると、格段の進歩であるといえる。

 魔導についても、理論の方だけは渋々ながらも授業を受けるようになった。ただ、実技の方は、頑として拒否している。彼女に関していえば、制御を学ぶことが何より必要なのだ。理論だけでは足りない。実際にやってみないことには、決して出来るようになるものではない。このままというわけにはいかないのだ。何とかしなければ――。


「レイチェル、今度、テストをやる」

 魔導理論の授業を終えたラウルは、教本を閉じながらそう告げた。

 レイチェルは目をぱちくりさせて振り向く。

「魔導の?」

「そうだ。この本から出す」

 ラウルは右手で先ほど閉じた教本を掲げた。この魔導理論の授業で使ってきたものだ。今日の授業でこの本は一応終了ということになっている。

「どうして魔導だけテストをするの?」

 彼女の学力を確認するため、最初に一度だけ受けさせたことはあったが、それ以外ではテストを行ったことはなかった。それなのに急に一科目だけ、それも他と比べて学習期間の短い魔導だけとなると、彼女の疑問も当然である。

 ラウルは正面から彼女を見据えた。

「このテストで一問でも間違えたら、魔導の実技の方も学んでもらう」

「それって……」

 レイチェルは目を大きくして何かを言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。キュッと眉根を寄せてうつむき、何もない床の一点を見つめながら考え込む。そして、ゆっくりと顔を上げると、大きな蒼の瞳をまっすぐラウルに向けた。

「全問正解だったら、私のお願いを聞いてくれる?」

「いいだろう、何だ」

 ラウルは腕を組んで言った。彼女がこのテストを受けなければ始まらない。そのくらいの約束はしてやってもいいだろうと思う。多少の無理を言われても承諾するつもりだった。だが――。

「キスして」

 小さな薄紅色の唇から、短い言葉が紡がれる。

 ラウルの眉がピクリと動いた。

「おまえは馬鹿か」

「だったら、私、そんなテスト受けないから」

 レイチェルは軽い調子で切り返した。ラウルが条件を呑まない限りは、本気でテストを受けないつもりのようだ。彼女からすれば、ラウルが条件を呑んでも、テストを取りやめても、どちらでも構わないのだろう。

「そんな勝手が許されると思っているのか。魔導の力を持って生まれてきたからには、魔導の制御を学ぶ義務がある。何度もそう言ったはずだ」

「それって、私が全問正解できないと思っているってこと?」

 ラウルは何も答えられなかった。確かにそう思っている。それが目的のための前提条件なのだ。だが、彼女に悟られてはならなかった。あまりにも不用意な発言をしてしまったと思う。

 レイチェルはニコッと笑った。

「だったら約束してくれてもいいじゃない。全問正解だったら私のお願いを聞いてくれるって。そうなることはないって思っているんでしょう?」

 ラウルは少し考えたあと、彼女を見つめて静かに言う。

「いいだろう、その条件を呑もう」

「ありがとう、ラウル!」

 レイチェルは胸の前で両手を組み合わせ、無邪気にはしゃいだ声を上げる。

「テストは一週間後にしてくれる? ちゃんと勉強したいから」

「わかった、では一週間後だ」

 ラウルは感情のない声でそう言うと、難しい表情で僅かに目を細めた。


 その日から、レイチェルはラウルの部屋に来なくなった。医務室の前までは今までどおりに来るが、中には入らず、そのまま帰っていくのである。

 怒っているとか、喧嘩をしたとか、そういうことではない。

 きちんと試験勉強をしたいという彼女の前向きな意思からの行動である。ティータイムの時間を試験勉強に費やすのだと言っていた。これほどまでに懸命な彼女は、今までに見たことがない。必死といってもいいくらいだ。

 魔導をやりたくないという気持ちがそこまで強いのだろうか。

 去り行く彼女の後ろ姿を見るたびに、ラウルは漠然とそんなことを考えていた。


 テストの前日――。

 ラウルは自室で机に向かい、テストの準備をしていた。教本から満遍なく出題箇所を選び、問題を作る。ほとんどは彼女が解けないレベルの問題ではない。だが、一問だけ確実に解けない問題を作った。それは、教えていない章から出題したものである。別の教本で詳しく教える予定にしていたので、この本では飛ばした章があったのだ。

 彼女には、教わっていないことを自力で勉強して理解する力はまだない。この章から出題されるかもしれないと予想は出来ても、それに対応することは不可能なのである。

 つまり、全問正解はありえないのだ。

 そして、約束どおり、彼女は魔導の制御を学ぶことになるだろう。

 それがラウルの筋書きだった。

 褒められた方法とはいえない。だが、他に実現可能な手段が思い浮かばなかったのだ。あまり悠長に構えている余裕はなかった。彼女の魔導力を利用しようとする輩が、またいつ現れないとも限らない。下手なことをして暴発させられるかもしれない。そうなる前に、自分を守る術を身につけさせる必要があるのだ。

 ラウルは顔を上げ、向かい側の席をじっと見つめる。そこは彼女の指定席だった。ここへ来るたびに、いつも同じその席に座るのである。今は空席で誰もいない。今後もずっと空席のままかもかもしれない。このテストのことで彼女に反感を持たれてしまうのではないかと懸念しているのだ。

 だが、たとえそうなったとしても仕方のないことである。それでも自分がやらなければならない。自分以外の誰にも託せることではない。すでに覚悟は決めていた。


 翌日、ラウルは作成したテスト問題を持って、レイチェルの家に向かった。少し足が重く感じる。そんな自分の不甲斐なさに呆れ、小さく溜息をついて顔を上げた。澄み渡った青空から降りそそぐ陽射しは、痛いくらいに強かった。眉をしかめて目を細めると、焦茶色の長髪をなびかせながら、雑念を振り切るように足を速めた。


 ラウルを部屋に迎え入れた彼女は、普段と変わることなく明るい笑顔を振りまいていた。今日がテストの日であることを忘れているのかと心配になったくらいである。だが、それは杞憂だった。

「今日はテストなんでしょう? 今から始めるの?」

 レイチェルは机に向かって座ると、すぐに尋ねてきた。

 ラウルは持ってきたテスト問題を彼女の前に広げて置いた。

「時間は90分だ」

「わかったわ」

 レイチェルはにっこりと微笑んで答えた。

 ラウルは机上の時計で時間を確認すると、静かに短い合図をする。

「始めろ」

 レイチェルはその言葉と同時に鉛筆を手に取り、真剣な顔で問題を解き始めた。

 ラウルは少し離れたところに椅子を置き、後ろから彼女の様子を窺った。特に悩む様子もなく解いているようだ。最初のうちはそうだろう。だが、最後には絶対に解けない問題が待っているのだ。彼女の後ろ姿を見ながら、眉根を寄せて目を細めた。


「終わったわ」

 制限時間の90分を待たずに、レイチェルはそう言って鉛筆を置いた。解答用紙をすべてきちんと重ねると、窓枠にもたれかかって立っていたラウルに振り向き、にっこりと大きく微笑んだ。

「もういいのか」

「ええ」

 ラウルは訝しげに眉をひそめる。彼女の曇りのない笑顔がどうにも腑に落ちなかった。解けない問題があったのならば、笑っている場合ではないはずだ。解けたつもりでいるのだろうか。それとも諦めたということなのだろうか――胸にわだかまるものを抱えながら、彼女の方へ足を進めて言う。

「今から採点をする。おまえはしばらくどこかで待っていろ」

「わかったわ」

 レイチェルは天蓋のベッドに駆けていくと、その縁に弾むように腰掛けた。そして、ふんわりとした白い布団の上に、倒れこむように身を横たえる。その肩が小さく揺れ始めた。何か楽しそうにくすくすと笑っているようだ。

 ラウルは怪訝に彼女を一瞥すると、無言で机に向かって採点を始めた。


 なぜだ――。

 ラウルは赤ペンを手にしたまま、反対の手で額を押さえた。長めの前髪をくしゃりと掴む。

 彼女の回答はすべて完璧だった。絶対に解けないはずだった最後の問題も、文句のつけようもないくらいに見事に解かれている。ありえない――。だが、これは現実だ。

「ね、どうだった?」

 レイチェルの声が耳元で聞こえた。待ちきれなかったのか、彼女はラウルのすぐそばまで様子を見に来ていた。採点中の解答用紙をニコニコしながら覗き込む。

「最後の問題も合っているでしょう?」

「……ああ」

 ラウルは観念して、赤ペンでゆっくりと丸をつけた。

「わぁ、全問正解ね」

 レイチェルは顔の前で両手を組み合わせ、はしゃいだ声を上げた。

「……なぜだ」

「頑張ったんだもの。ラウルも知っているでしょう?」

 彼女が努力をして結果を出したことは、素直に喜ぶべきことだろう。だが、これで、魔導の制御を学ばせようというラウルの目論見は崩れ去ってしまった。こんなはずではなかった。いったい何を見誤ったのだろうか。

 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。彼女にはどうしても必要なことなのだ。しつこいと思われようとも、早く次の手を考えなければ――。


「ラウル、覚えてる?」

 レイチェルは後ろで手を組み、小さく首を傾げてにっこりと微笑む。

「何をだ」

「全問正解だったらキスしてくれるって」

 ラウルは机に向かったままハッと目を見開いた。確かにその約束はした。だが、今の今まで忘れていた。全問正解はありえないと考えていたせいかもしれない。可能性があると考えていたならば、そもそもそのような条件は呑まなかった。

「今さらダメなんて言わないでしょう? ラウルは約束を破ったりしないものね」

 レイチェルは先回りして釘を刺すように言う。

 確かに約束を破ることなどあってはならない。家庭教師の自分が約束を破ったのでは、教え子のレイチェルに約束を守れなどとは言えなくなる。今後の信頼関係にも影響を及ぼすことになるだろう。

 しかし、だからといって、彼女の望みをきいてやるわけにもいかないのだ。自分にとってはたいしたことのない行為だとしても、彼女にとっては大きな意味を持つことになる。おそらく、彼女自身が思っている以上に重大な意味を――。

「どうしたの?」

 レイチェルは身を屈めて心配そうに覗き込んだ。細い金の髪がさらりと揺れる。強い引力を秘めた深い蒼の瞳で、答えを探るようにじっと見つめる。

 ラウルは険しい顔をゆっくりと彼女に向けた。

「おまえはわかっているのか」

「何を?」

 レイチェルはきょとんとして尋ね返した。

 やはり、少しもわかっていないのだろう。詳しく尋ねるまでもない。これほど率直に尋ね返すということは、思い当たる節がまるでないということだ。罪悪感の欠片もない様子からも明らかである。

 ラウルは思いつめた表情で頭を押さえた。その眉間には深い皺が刻まれていた。

「ラウルはそんなに嫌なの?」

「そうではない」

「じゃあ、何を悩んでいるの?」

「おまえのことだ」

「私に何か問題でもあるの?」

 レイチェルの容赦ない追及は続く。彼女のためにこれほど苦慮しているにもかかわらず、その彼女がさらに追撃してくるのだ。次第に苦々しく思う気持ちが湧き上がってきた。

「……いいだろう、約束を果たしてやる」

 ラウルは投げやりに椅子を引いて立ち上がった。背筋を反るくらいに伸ばし、睨むように見下ろしながら腕を組む。

 彼女は子供のように無邪気にニコニコしていた。いや、実際に子供のようなものだ。当たり前の常識も知らず、思いのまま自由奔放に行動するなど、子供としかいいようがない。

 そういうところが腹立たしかった。だが、同時に惹かれてもいるのだ。

「後悔しても知らんぞ」

「後悔なんてしないわ」

 レイチェルは大きな瞳でラウルを見つめ、澄んだ声できっぱりと言った。しかし、何もわかっていない彼女の決意など何の意味もない。それでも、ラウルにはその言葉が必要だったのかもしれない。

「目をつむれ」

「どうして?」

「やりにくい」

「でも、目をつむったら見えないわ」

「……好きにしろ」

 ラウルはもう何も考えないようにした。

 細い肩に手を掛けると、身を屈めて彼女に顔を近づける。

 焦茶色の長髪がカーテンのようにふたりを覆い隠した。

 そっと唇を触れ合わせる。

 鼓動を3つ数える。

 ゆっくりと顔を離して身を起こす。

 たったこれだけのこと。

 だが、しかし――。

 レイチェルは目を大きくして、離れていくラウルをじっと見つめた。透けるような白い肌には僅かな赤みが差し、薄紅色の小さな唇は半開きになっている。少しぼんやりしている様子だった。

 ラウルは彼女を見下ろし、感情を抑えた低い声で言う。

「気が済んだか」

「ええ、ありがとう」

 レイチェルは我に返ってにっこりと答えた。いつもと変わらない愛くるしい笑みの中に、幸せに満たされたような優しい表情が広がっている。それは、バラ園で手を繋いだときに見せたものと同じだった。

「愚かな女だ」

 何もわかっていないで幸せに浸っている彼女は愚かだ。

 だが、わかっていながら止めなかった自分はもっと愚かだ。

 彼女にはきちんと伝えて説明すべきだった。その望みはサイファを裏切る行為だということを。そして、ラグランジェ本家次期当主の婚約者であるという事実の重みを――。

 だが、どうしても口に出すことができなかった。

 別にサイファとの結婚を阻止しようなどとは思っていない。彼女は最終的にはサイファを選ぶことになるだろう。そうであるべきだと思う。納得はいかないが、彼女のためを思えば、現実問題として最善の選択なのだ。それでも、その手助けをすることだけはしたくなかった。

 だから、沈黙という嘘をついたのだ。

「早く行きましょう。今日は久し振りにラウルのところでお茶をするんだから」

 レイチェルは屈託なく澄んだ声を弾ませた。そして、軽い足どりで扉まで駆けていくと、くるりと振り返り、とびきりの笑顔を見せた。後ろで手を組み合わせ、大きく瞬きをすると、愛らしく小首を傾げる。

 ――おまえは知らない、本当の私を。

 ラウルは心の中で静かに呟き、しかし固く口を閉ざしたまま、扉で待つ彼女のもとへ足を進めた。



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