8-1:はずれの二人
この作品は【Die fantastische Geschichte】シリーズの一つです。設定資料集および【FG 0】と合わせてお楽しみください。
かつてこの世界には、姿無きものを捉え声無きものと対話する種族がいた。彼らはエルフと呼ばれている。男女共に美しき姿、老いを知らぬが如き長命、容易く行使される魔法。何に置いても人間より勝る彼らは、争いを好まず静かに暮らすことを望んだ。飽くなき探求を続ける人間に知識や技術を与え、先へと進む者たちを見守ることに喜びを見出していた。世界に争いは少なく誰も飢えることのない、理想郷的世界であったと言われている。
しかし突然エルフたちは姿を消してしまった。今となっては原因も分からず、ただ確かにいたという痕跡が残るのみ。恐ろしい魔物が現れたのだと言う者もいる。貪欲で満たされることを知らぬ人間に愛想を尽かし、異世界へと旅立ったのだと言う者もいる。数多くの説が唱えられてきたが、真相は未だ闇の中だ。
彼らがこの世界に存在したという証。それは現代では再現不可能な技術であったり、高度な魔法の施された遺跡であったり、あるいはその血を現在に至るまで継いできた者たちである。
〈我らの祈りを継ぐ者に、彼のものへと至る鍵を託す。この世に在りしものたちの、永き繁栄を願って我らは発つ。終まで居られぬ哀しさは、何より我らを苦しめる。浄化の時が来たならば、ようやく我らは救われよう。喜びの野に光を蒔いて、新たなる日を祝うだろう〉
世界のどこかに刻まれた、彼らの言葉。それを知るべき者は、未だ現れていない。
【Die fantastische Geschichte 8】
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【8-1:はずれの二人】
アレース王国にあるメリーディアという街は、治癒師の街として知られている。メリーディアの側にある森には貴重な薬草が多く生育し、それを求めて多くの治癒師が集まったことが由来である。メリーディアの治療院は国立病院にも劣らぬ技術を持っていると評判で、わざわざ遠方から訪ねて来る患者もいるほどだ。治癒魔法を扱うには召喚魔法と同じく天性の素質が必要であり、治癒師になれるかどうかは生まれた時に決まる。魔法の素質を持つかどうかは遺伝に依る所も大きいため、治癒師の多いこの町には必然的に治癒魔法の才を持つ子供も多かった。そのような事情もあって、学校に通う見習い魔法使いの多くは、一流の治癒師となることを夢見ている。
「ねえアイリス、あなたのお兄さんが王国騎士団所属の治癒師になったって本当!?」
「う、うん……」
「凄いなあ。治癒魔法はもちろん、補助系の魔法や攻撃魔法も専門家並みに習得しないと入れないって聞いたぞ」
「そうだね……」
「さすがダーシィ家! エルフの末裔だけあって魔法全般出来るんだなー」
「…………」
学校が終わり、生徒たちは陽が落ちるまでの時を思い思いに過ごそうと門を抜ける。賑やかなお喋りの内容は、治癒師の卵たちにとって憧れの一流魔法使いについて。まだ幼さの抜けきらない年頃の彼らは、授業で疲れているにも関わらず明るく騒がしい。その輪にいるアイリスと呼ばれた少女は、一人だけ俯き暗い影を背負っている。
(おいバカ、何で今それを言うんだよ!)
(だ、だって思わず……わわ、どうしよう)
表情が見えなくなるほど頭を下げてしまった彼女に、周りにいた友人たちは動揺し、おろおろと意味も無く手を上下左右に動かす。アイリスの家はメリーディア近辺で知らぬ者はいない名家だ。その理由は、数少ないエルフ族の血を継ぐ一族だから。長い年月でその血は薄れ容姿も魔力も徒人とほぼ変わらなくなってしまったが、それでもダーシィ一族のほとんどが優秀な魔法使いである辺り、今なおエルフ族の名残は残っているのだろう。
そんな一族の中でアイリスだけが、未だ優れた才を発揮する兆候が見られなかった。至って普通で突出した所の無い成績は、非凡な家系にあっては落ちこぼれに等しい。それを彼女が気にしているのは友人たちも知っているので、普段そのような話題は避けていたのだが、興奮のあまり口を滑らせてしまったのだった。
「あ、あたし達も頑張らないとね!」
「そうそう、今日先生が言ってたあれって――」
「ごめん私、用事思い出したから行くね。また明日!」
友人たちの言葉を遮るように、アイリスは早口で別れを告げ全力で走り出す。取り残された友人たちは慌てて引き止めようとするも、呼び声は彼女に届かなかった。
アイリスが全力で走って行った先は街外れの森。小さい頃から彼女は落ち込むことがあると、いつもここで一人泣いていた。細い金糸のような髪がしゃくりあげる度に揺れ、紫がかった青の瞳の端は泣き腫らしたせいで赤みがかっている。
(お兄ちゃんも、皆が凄いって認める人になったのに。なんで、なんで私だけ違うの?)
髪から覗く耳は普通よりも長く尖っている。エルフの長い耳。その特徴は現れなくなって久しく、そのため彼女は先祖の血を濃く継いだのではないかと言われていた。しかしそれだけだった。魔法においては失敗こそしないものの、取り立てて上手くもない。
(……魔法だけじゃない。他のことだって、私は役に立てない)
膝を抱える腕には擦り傷ができていた。走っている途中で木の根に躓き転んだ時にできたものだ。彼女が何かに躓いたりぶつかったりすることは日常茶飯事で、そのせいで何かを壊した回数も数えきれない。せめて魔法以外はと努力しても、空回りで終わってしまう。
悔しさにまた零れた涙が頬を伝い、顔を埋めた布地へ吸い込まれていった。
声を殺し泣き続けてどれほど経っただろうか。ふと気づけば辺りは随分と暗くなり、夜が近づいている。アイリスは慌てて立ち上がり、目元を強く擦って涙を止めようとする。ますます目の周りが赤くなってしまうことには気づいていない。
「……は、早く帰らないと。心配かけちゃ、ダメだよね」
完全に日が落ちる前に帰らなければ、優しい母が心配する。過保護な父など町中を捜し回るかもしれない。たとえ優秀でなくとも家族は変わらず彼女を愛してくれていた。何に対しても自信を持てない彼女が、自暴自棄になることなく成長できたのはそのおかげだ。大好きな家族や仲の良い友人たちに迷惑をかけないよう、気の済むまで一人で泣いたら気持ちを切り替え元通りに振る舞う。落ち込んでばかりいないために、彼女が決めていることだった。
服に付いた草や土を払い歩き出そうとしたアイリスは、その時、近くに何かの足音を捉え身を竦ませた。草を掻き分け、地面の小枝を踏み折る音は、徐々に彼女の方へ向かって来ている。
(な、何だろう……。皆はここに居るって知らないはずだし、捜しに来てくれたわけじゃないなら……まさか、魔物とか――!?)
人か獣か魔物か、正体不明の何かに怯え、ただ震えることしかできない。治癒魔法以外は、出来ないわけではないが苦手なのだ。薄暗い森の中で一人、危険な目に遭おうと助けてくれる者はいない。もしアイリスを捜しに来た誰かであったとしても、手間を掛けさせたことには変わりない。どちらにせよ、自らの勝手な行動が招いた事態に、いたたまれない気分だ。
杖を握り締め、不安でまた涙が出そうになるのを堪える。目の前の草むらが揺れ、現れた姿に、アイリスは反射で目を逸らした。ある意味で魔物と同じぐらい恐ろしく、ある意味で頼もしい迎えが、そこには居た。
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行きも通った獣道を、今回は二人で歩く。前を行く青年の鳶色の頭を時折見上げては、何事か紡ごうとした口を閉ざし俯く。先ほど合流してから、アイリスはそれを何度も繰り返していた。謝罪なり感謝なり、言わなくてはならないことは多々あるのだが、青年の反応を考えると勇気が出せずにいるのだ。何十回と溜息を呑んだ後、ようやくか細い声で話しかける。
「ローラン、あの……ごめんなさい。忙しいのに、わざわざ迎えに来させちゃって……」
尻すぼみなアイリスの謝罪に、青年――ローランは振り返り足を止める。射るような臙脂の眼差しは、小さく肩を震わせたアイリスへ、明らかな怒りの感情をぶつけてきた。
「全くだ。お前を捜してくれって、やっと休めると思った直後に頼まれたんだぞ? 丸一日どうでも良いことにこき使われた挙句、休み無しでタダ働きさせられて、笑ってられるような聖人君子じゃねぇんだよ俺は」
「……ごめんなさい」
ローランは半年前にメリーディアへやって来た旅人で、現在は街で様々な依頼をこなしながら軍資金を稼いでいる。常に身に付けている両手剣や防具を見る限り、魔物退治や護衛といった戦力としての依頼を主に求めているのだろうが、昼にアイリスが見かけた彼は治療院の屋根を修復していた。内容の選り好みはしないが不満を抱いているのは先の言葉通りで、街の者からは気難しい便利屋という印象を持たれている。
「こんな森に女一人で入るなんて馬鹿じゃねぇのか。頼まれたからとりあえず家まで送ってやるけどな、謝礼も出ねぇのに来てやったんだから感謝しろよ」
辛辣に言い捨てたローランは、再び前を向いて歩き出す。アイリスが彼を苦手とする理由が、この高圧的な態度だった。誰に対しても嫌味な姿勢を崩さない彼を、快く思わない者は街にも少なからず居る。プライドの高さに見合う実力は確かにあるため、みな深く交流を持たないことでやり過ごしているが、アイリスには完全に関わりを絶てない事情があった。今回彼がアイリスを迎えに来たのは、アイリスの父が半年前に彼の命を救った恩人であるため、その縁で交流――と呼ぶには寒々しい雰囲気になるのだが――があったからだ。
「お父さんが、ローランに頼んだんだよね。……本当にごめんね。今度からそんなこと、無いようにするから……」
「借りが無ければ絶対に引き受けねぇよ、こんなの。心配して捜すぐらいなら、最初から護衛でも雇ってろよ」
依頼料を取らないのは、彼なりに恩人へ誠意を示しているのだろう。アイリス自身が何かをしたわけではないというのに、こうして迷惑を掛けてしまい、気まずい想いを抱え視線を落とした。先ほど涙と共に流したはずの劣等感が再び頭をもたげ、目頭がジンと熱くなる。ここで泣けば鬱陶しがられるのは必至なので、それ以上は落ち込むまいと足を動かすことだけを考えた。
足取りも重く、地面だけを見ていたアイリスは気づかなかった。ローランが邪魔になりそうな枝葉を切り払っていることや、遅い歩みにも急かすことなく合わせていることや、時折気遣わしげな視線を彼女へ寄越していることを。
黙々と歩を進めていた二人は、それから十分とかからずに街の中へと入った。陽が落ちきって間もない時間帯は、まだ通りに人がそこそこ居る。ローランとその後ろを歩くアイリスに好奇の目を向ける者もいるが、基本的には皆他人を気にすることなく歩いていた。アイリスは涙の痕に気づかれない暗さと無関心に安堵しつつ、見えてきた我が家の明かりに沈んでいた気分を引き上げようと深呼吸する。
「もうここまでで大丈夫だよ、ローラン。ありがとう」
アイリスは努力して口角を上げ、なんとか笑みを形作った。終始ローランに怯えてはいたが、一人で暗い森を抜けるよりは良かったと思い、感謝を伝える。少々引き攣った笑顔にローランは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに普段の冷笑で上書きされた。
「ふん。また一人で森に行くことがあれば、先に声を掛けろ。次からは有料で迎えに行ってやるよ」
「こ、こんなに遅くなったのは初めてだよ。いつもは明るいうちに帰ってるし、もう次は無いから!」
どうせまた同じことを起こすとの皮肉が込められた申し出に、アイリスは勢いよく左右に頭を振りながら否定する。何度も彼の手を煩わせるなど、居た堪れなくて出来るわけがない。その反応に彼が内心面白くないと思っているなどと、彼女は知る由も無く、ただこれ以上機嫌を損ねないようにと必死で弁解していた。
「とにかく、本当にありがとうございました! あの、その、頑張りすぎて、身体壊さないように気をつけてね」
今まさに休息の時間を奪っている分際で何を、とアイリスは自分でも思ったが、毎日のように街を駆け回っている彼の体調が気になっていた。半年前、治療院で初めて会った彼は瀕死の重傷を負っていたのだ。治療の甲斐あって今では至って健勝のようだが、無理がたたって再び入院ということにならないかと気が気でない。その人と成りに委縮してはいても嫌いではないので、アイリスは心配を露わに視線を上げた。上目で見つめられたローランは彼女の懸念を一笑に付したが、瞳にはその日で一番柔らかい光を湛えている。
「お前なんかに心配されなくとも、自己管理してるに決まってるだろ。むしろこの距離でも転びかねない自分の心配でもしてろ。……じゃあな」
温かみのある眼差しと棘の少ない声音に、アイリスは微かに驚くと同時に困惑する。何かを掴みかけたような気がしたが、その正体も原因も分からなかった。
おざなりに手を振って背を向けたローランを、アイリスはしばらく見送ってから家へと入る。最後に覚えたひっかかりは家族の心配と叱責の言葉に紛れてしまったが、心のどこかでは僅かに覗いた彼の優しさを感じていた。
微妙に擦れ違う二人の想いは、この日から寄り添い始める。
【Die fantastische Geschichte 8-1 Ende】