波の来た夜
一
日本海に浮かぶ小さな島、その突端に立つ灯台を、元治は三十年守り続けていた。灯台守という仕事がほとんど自動化され、島に人が常駐する必要もなくなった今でも、元治は島を離れなかった。役場からは「そろそろ本土の施設に」と勧められていたが、彼はそのたびに首を横に振った。
理由は誰にも話していなかった。十五年前、この島の沖で、一人息子の亘を漁の事故で失った。荒れた海が、まだ二十三歳だった息子を飲み込んでいった。それ以来、元治にとってこの海は、憎むべきものであり、同時に、亘が今もどこかに眠っている場所でもあった。だから彼は、灯台の灯りを絶やさず、毎晩海を見つめ続けた。
妻はその三年後、島の暮らしに耐えかねて本土へ戻った。今は娘夫婦の家で暮らしていると聞いている。元治は誰とも連絡を取らず、月に一度、船で届く食料と灯油だけを頼りに、一人で暮らしていた。
二
その年の秋、島には珍しく大きな台風が接近していた。元治は灯台の点検を終え、小屋に戻ろうとしたとき、岩場の陰で何かが動くのに気づいた。
近づいてみると、それは一匹の犬だった。びしょ濡れで、脇腹には深い切り傷があり、荒い呼吸を繰り返している。漁船から落ちたのか、あるいはどこかの島から泳ぎ着いたのか、元治にはわからなかった。
犬は元治を見上げると、弱々しく尻尾を動かした。まるで、助けを求めるように。
元治はしばらくその場に立ち尽くしていた。動物を飼ったことなど一度もない。だが、目の前で震えるその命を放っておくことは、どうしてもできなかった。
彼は犬を抱き上げ、小屋に運んだ。傷口を消毒し、暖かい布にくるみ、その夜は一睡もせずに様子を見た。台風が過ぎ去った翌朝、犬は弱々しくではあるが、自分の足で立ち上がった。
「お前、波にさらわれてきたのか」
元治はぽつりとつぶやいた。それから、犬に「波」という名をつけた。憎んでいたはずの海が運んできた命に、皮肉にもその名を与えたのだった。
三
波が元治のもとに来てから、灯台での暮らしは少しずつ変わっていった。それまで元治は、灯台の点検を終えると小屋に戻り、黙って海を見つめるだけの毎日を送っていた。だが波が来てからは、島の岩場を一緒に歩き、餌をやり、傷の手当てをする時間が生まれた。
波は元治の後をどこへでもついて歩いた。灯台の螺旋階段を登るときも、灯りを点検するときも、波はいつも一段下でじっと待っていた。夜、元治が海を見つめていると、波はその足元に体を寄せて丸くなった。
「お前がいると、静かすぎた夜が、静かじゃなくなる」
元治は波の背をゆっくり撫でながら、そう言った。誰に聞かせるでもない独り言だったが、波はまるで理解しているかのように、元治の手のひらに鼻先を押し付けた。
島には元治と波の二つの影だけが、灯台の灯りに照らされて長く伸びていた。
四
波が元治のもとに来てから四年が過ぎた夏、思いがけない知らせが届いた。船で郵便物と一緒に届いた手紙には、娘の文乃からのものだった。長らく音信不通だった娘からの連絡に、元治は封を切る手が震えた。
手紙には、亘の娘、つまり元治の孫にあたる美咲が、大学の夏休みを利用して、この島に来たいと言っていることが書かれていた。海洋生物学を学んでいる美咲は、卒業論文の調査のため、この島の潮だまりの生態系を研究したいのだという。
元治は迷った。亘のことを思い出させる孫の存在は、正直、恐ろしくもあった。だが、断る理由も見つからず、彼は受け入れることにした。
美咲が島に到着した日、元治は波を連れて船着き場まで迎えに出た。船から降りてきた美咲は、写真で見た亘の面影を強く残していて、元治は思わず言葉を失った。
「お世話になります」
美咲は硬い表情で頭を下げた。父の死の真相を、彼女がどこまで知っているのか、元治にはわからなかった。ただ、その目には、どこか元治を責めるような色があるように感じられた。
五
美咲は最初の数日、必要最低限の会話しか元治と交わさなかった。潮だまりの調査に一人で出かけ、夕食も別々に取ることが多かった。元治もまた、無理に距離を縮めようとはしなかった。
その距離を縮めたのは、やはり波だった。美咲が調査道具を持って岩場に向かうと、波は必ず後をついていった。最初は迷惑そうにしていた美咲も、波が岩の隙間から小さなカニを掘り出して得意げに見せたり、転びそうになった美咲の裾を引っ張って支えたりするうちに、少しずつ表情を緩めるようになった。
ある夕方、美咲が浜辺で波と戯れているのを、元治は小屋の窓から見ていた。美咲が声をあげて笑うのを見たのは、島に来て初めてのことだった。その笑い声は、亘が子どもの頃に見せた笑顔とよく似ていた。
その夜、美咲は珍しく元治と同じ食卓についた。
「おじいちゃんは、どうしてこんな不便な島に、一人で住み続けてるの」
直球な問いに、元治は少し戸惑いながらも答えた。
「ここには、お前の父さんがいるから」
美咲の箸が止まった。
「お母さんから聞いた。お父さんが死んだのは、おじいちゃんのせいだって」
元治は静かに目を伏せた。
「あの日、無理な漁に出ることを止めなかったのは、私だ。亘は、私を継ぐために、必死だった。私が『やめておけ』と一言でも強く言っていれば」
その先の言葉は、震えて出てこなかった。美咲は何も言わず、ただ波の頭を撫でていた。
六
それから数日、美咲の態度は変わらなかったが、以前ほどの冷たさは消えていた。波を介して、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。美咲は、亘の思い出を元治に尋ねるようになり、元治は問われるままに、息子との日々を語った。
「亘はな、お前くらいの歳の頃、海が怖いと泣いていたことがあるんだ。それでも漁師になったのは、この島の暮らしを守りたいという気持ちがあったからだと、私は思っている」
美咲は波を抱きしめながら、静かに聞いていた。
「お母さんは、お父さんの話をあまりしてくれなかった。だから、こうやって聞けるの、嬉しい」
その言葉に、元治の胸の奥にあった固い氷が、少しずつ溶けていくのを感じた。
七
美咲が島を発つ予定の前日、再び大きな台風が接近していた。予定を早めて船を呼ぶべきだったが、通信の不具合で連絡が取れず、二人と波は島に取り残される形になった。
夜、波が高くなり始めた頃、美咲が最後の調査データを取るために、無理を押して岩場に向かった。元治が止めるのも聞かず、「これだけは記録しておきたいの」と言って、懐中電灯片手に飛び出していった。波もその後を追った。
元治が異変に気づいたのは、それから間もなくのことだった。岩場の方角から、波の激しい鳴き声が響いてきたのだ。急いで駆けつけると、大きな波にさらわれかけた美咲が、岩の隙間にしがみついているのが見えた。足元は既に波にのまれ、体は今にも海に引き込まれそうだった。
「美咲!」
元治が叫ぶと同時に、波が海に飛び込み、美咲の腕にしがみついたロープの端を咥え、渾身の力で引っ張った。元治もすぐに海に入り、二人を岩場まで引き上げた。
美咲は無事だった。だが、波の姿がなかった。
「波!波はどこ!」
美咲の悲鳴のような声が、暴風の中に響いた。元治は明かりを海面に向け、必死に探した。だが荒れる波間に、波の姿を見つけることはできなかった。
八
その夜、元治と美咲は一睡もせず、交代で海を見つめ続けた。台風が過ぎ去った明け方、二人は疲れ果てた顔で、それでも希望を捨てずに岩場を歩き回った。
「波は、私を助けるために」
美咲は涙を拭いながら、何度もつぶやいた。
「私のせいだ。私が無理に出て行かなければ」
元治は美咲の肩に手を置いた。
「波はきっと、お前を助けたくて、助けたんだ。それを、お前のせいにしちゃいけない」
そう言いながらも、元治自身、亘を失ったときと同じ痛みが、胸の奥から込み上げてくるのを感じていた。またこの海に、大切なものを奪われるのか。そう思うと、足がすくんだ。
それでも二人は歩き続けた。岩場を一つ一つ、声を嗄らして波の名を呼びながら。
昼近くになって、隣の小島との間にある切り立った岩棚に、小さな影が横たわっているのを、美咲が見つけた。
「いた!波よ!」
二人は小舟を出し、必死にその岩棚へ向かった。波はぐったりとしていたが、かすかに胸が上下していた。台風の激流に飲まれながらも、なんとかその岩棚にたどり着き、力尽きていたのだった。
元治は波を抱き上げ、島の小屋まで急いだ。体を温め、水を飲ませ、傷の手当てをしながら、二人は一晩中、波のそばを離れなかった。
夜が明ける頃、波はゆっくりと目を開けた。そして、弱々しくではあるが、尻尾を振った。
美咲はその場に泣き崩れた。
「よかった……本当に、よかった」
元治もまた、涙をこらえきれなかった。十五年前、この海で息子を失ったとき、彼はただ立ち尽くすことしかできなかった。だが今度は、大切なものを、この手で取り戻すことができた。
九
それから一週間、波は徐々に体力を取り戻していった。美咲は予定していた帰京を延ばし、波が完全に回復するまで島に残った。
「私、卒業したら、この島に戻ってこようと思う」
出発の日、美咲は波を撫でながら、元治に告げた。
「海洋生物の研究、ここで続けたい。それに」
美咲は少し照れくさそうに笑った。
「おじいちゃんと波と、もっと一緒にいたいから」
元治は深くうなずいた。かつて憎んでいた海が、息子の代わりに、こうして孫を、そして一匹の犬との絆を、彼のもとに運んできてくれたのだと、彼は思った。
船が島を離れていくのを、元治と波は並んで見送った。波の毛並みは潮風に揺れ、傷跡は少しずつ癒えていくだろう。それでもきっと、あの夜の記憶は、二人の間に消えない絆として残り続けるはずだった。
灯台の灯りは、今夜もまた、暗い海を照らし続ける。かつては悲しみだけを映していたその光が、今は確かに、次の季節への約束を灯していた。
(了)




