第1章 光の下で
この章は、何も起きていないように見える一日の話です。
けれど、立ち止まったこと、迷ったこと、扉の前でためらったこと。
そのすべてが、人生を動かす最初の一歩だったのだと、
あとになって気づくための章です。
名前を呼ばれたわけではなかった。
それでも、美月は一歩、前に出た。
照明が落ち、次の瞬間、白い光が舞台を満たす。
目がくらむほどの眩しさ。足元の感覚が一瞬、消えた。
――逃げたい。
そう思ったのは、これが初めてじゃない。
でも、今度は足が止まらなかった。
客席は暗く、輪郭だけが波のように揺れている。誰が見ているのかも分からない。ただ、視線だけが確かにそこにあった。
美月は、無意識に胸元に触れた。
母のスカーフ。
少し色褪せたその布が、心臓の音を押さえてくれる。
ジャケットの袖が、照明を受けて光った。
――この服で、ここに立っている。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた瞬間。
不意に、ある光景が胸をよぎった。
ガラス越しのショーウィンドウ。
春の夕方。
一着のワンピース。
あの日、立ち止まらなければ。
あの日、寄り道をしなければ。
あの日、扉を開けなければ――
ここには、いなかった。
美月は、息を吸い、前を向いた。
歩き出す。
観客のざわめきが、遠くなる。
これは、勝つための舞台じゃない。
誰かになるための場所でもない。
自分で選んだ自分を、置いていく場所だ。
光の中で、美月は静かに歩いた。
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そして、時間は遡る。
東京、春。
駅前のショーウィンドウの前で、
一人の高校生が立ち止まっていた。
美月はまだ、何かを成し遂げたわけではありません。
ただ一着の服を選び、ほんの少し視線を上げただけです。
それでも、選ばなかった昨日とは違う場所に立っています。
物語は、ここから静かに動き出します。




