初恋
「初恋に選んであげる」
光差す踊り場。学生のざわめき。彼女はなびく髪を耳に掛けながら、傲慢に笑った。
***
マトモな人生を歩む為の道しるべがこの世に存在するとすれば、この出会いはそれを見失わせるものだった。気のせいなんかじゃない。ボタンを掛け違うような些細なミスではなく、もっと劇的に。レールの切替レバーを力の限り引くような、エレベーターの紐が切れるような。ゴールはこちらですという指示の目の前で、フリダシでもなんでもないマスに突き飛ばされたような。そんな勢いを持って、僕は全生物に誇れる素晴らしくも輝かしい人生をロストした訳だ。この女と出会ったせいで。
ぎちぎちと締め付けられるみたいな頭痛を堪えて、僕は錆びたブリキの口を開く。
「……すみません、何て? 正気ですか?」
「正気も正気、大正気! こんな才色兼備眉目秀麗文武両道を地で行く私の初恋に選んであげるのよ? 感謝しなさい愚民」
「はぁ……金持ちではないんですね」
その瞬間、ハイキックを食らった。僕は冗談みたいにずさささと廊下を滑る。周囲の視線が刺さるが、それだけだ。見事なまでに総スルーされている。痛々しいヤツに関わりたく無いのだろう。みんな賢いね。僕も今からそっち側に回ってもいい?
「一般家庭の生まれで何が悪いのかしら? それ以外の全てを兼ね備えているのだからお金なんて必要ないのよ!」
「本気でそう考えているのなら僕を蹴ったのは何でだ!」
「いやね、私を馬鹿にした人間は須らく死ぬべきだし死なないのなら殺すわよ。そんなの雀の首を締めるより簡単だわ」
「例えがグロテスクだし、行き過ぎた傲慢の化け物みてぇな発言だな」
「貴方は私の初恋の相手になる予定だからハイキックで許すわ」
「常識どこで落としたん? 話きこか?」
彼女はすたすたとこちらへ歩いてきて――いやちょっと今僕動けな――ダァンと僕の顔の真横に足を落とした。
「浅慮は身を滅ぼすと思わない、愚民?」
「はい思います女王様」
ほんと何なんだこの女!
何より腹立たしいのはさっきからバクバクとうるさい僕の心臓だ。いくらこの女が頭おかしいとはいえ緊張し過ぎだし、動揺し過ぎだ。落ち着けと心中で繰り返せど頬が熱い。あと蹴られたところがアホほど痛い。泣きそう。
「っていうか初恋にしてあげるってなんだよ、何様だよ――って自称女王様か」
仰向けになったままぼそりとそこまで呟いて、はたと気付く。
「この日本語、汎用性無さ過ぎるな」
「アハハ、面白いわね愚民! 初恋に相応しいわ!」
「そりゃ良かった」
口だけは滑らかに動く。脳死でそう返して立ち上がり、僕は制服の埃を払って、ふっと。天啓みたいに思考した。
――きっと、この女に人生めちゃくちゃにされるんだろうなと、思った。
沸騰した脳味噌とどこか冷めた心が乖離して狂った結論を弾き出す。身体ぜんぶが組み変わったみたいな衝撃と共に、僕は突き飛ばされたかのように理解した。
――あ、僕、この人のこと好きになる。
全身を支配する途方もない敗北感。負けた。僕は彼女に負けたのだ。こんな頭おかしい女を好きになってしまうなんて人生の汚点だ。
こんな感情になるのは初めてだった。
名前を付けるとしたらいっそ憎しみになってしまうような凶悪な感情だった。けれど彼女を害すことはきっと一生出来ないだろうなと思わせる何かがあった。
……何かって、まあ、惚れた弱みなんだろうけれど。
ぐるぐると空回りしている脳内を隠して、冷静な僕は自分の頬を引っ張った――うわ、引くほど熱い。なるほど、それならば風邪だ。きっとこの感情は発熱由来の勘違いと混乱だ、そうに違いない。
よしよし、と納得しかけていたのに、本能が急に『これが惚れたっていうヤツでしょ』とか言い出したので引っ張っていた頬を更に伸ばす。痛い。冷静さってどこに売ってるかな。ドンキ?
……いや、いやいやいや。これは惚れるだなんて、初恋だなんてかわいいモンでは無い。これを恋だと呼ぶのなら、僕の今までの恋愛経験は子供のするおままごとより幼稚で純粋でキラキラしている。この感情はもっと、熱くて冷たくて苦くて青臭くて酸いも甘いもあるようなめちゃくちゃなものだ。きっと暴力だ、こんなの。さっきのハイキックより心臓が痛いんだから。
だからこれは、初恋の話なんかではなく。僕の恋の話なんかではなく。ただ、我儘で傍若無人で性根が腐り落ちている癖に苛立つほどの美人である彼女に対し、人生全てを賭けてでも側にいたいと思ってしまった僕の一生の不覚の話である。
「……なんて、な」
「何一人でカッコつけてんのよ愚民」
「あっごめん」
ちょっと君への恋を自覚してて。
そんなことが言えたら僕は捻くれ者として名を馳せてはいまい。僕こそが一生高二病と言われた東雲レンゲである。
「それで、返事は?」
「……返事?」
僕は本気で彼女が何を言っているのか分からなかった。ハイキックの感想のことか?
――痛い。気が狂っているのか。女王様にしては暴力的過ぎないか――こんなところだろうか。
「三歩歩いていないのに忘れるなんて鶏以下のようね。九官鳥の方がまだマシなことを言うわよ。だから貴方は愚民なのよ。告白の返事に決まっているでしょう」
「ちょっとその前の罵倒が邪魔で何を言っているか分からな――告白?!」
素っ頓狂な声が出た。いや待ってくれ、告白? いつ彼女が告白したというのだ。名前すら聞いていないのだが?
「告白よ。仕方ないわね、ダチョウより低能なあなたにもう一度言ってあげるわ」
人の通らなくなった踊り場。ヤバいヤツを見る遠巻きな視線。彼女はハイキックで乱れた髪を掻き上げて傲慢に笑う。
「ねえ、初恋に選んであげる」
ドッと心臓が鳴った。不整脈で死にそう――ああ、ほんと、だめになりそうだ。
彼女の言葉全てが心臓に刺し入れられる。僕の無垢で純粋で柔らかい心をゆっくりと引っ掻く。蚊に刺された跡へ、バッテンに爪を立てるみたく、じわじわと。
「……ありがとう、光栄だよとでも言えばいいのかな」
「そうね……」
彼女が返事を考えている数瞬の間、全身の細胞がパチパチと泡立ち弾ける感覚に酔いしれる。彼女の一言ひとことに背筋が震えるような衝撃を覚える。それは強いて言うなら快楽に近い歓喜と不安。僕を見て言葉をくれた嬉しさを感じると同時、それが無くなった時の絶望を想像する。ジェットコースターじみた感情の揺れに吐き気を催しながら、降りようとは考えないジレンマ。
僕が彼女に向けるのは生ぬるい安堵に満ちたおままごとのような恋情ではなく、激情に支配され身を投げ出すような捻くれたものである。ともすれば死さえ絡むような。
「『光栄です孔雀より派手に身を投げてでも貴女からのお言葉を賜ることが出来た喜びを示したいと思います愛しています』くらいは最低限かしら」
「告白にそんな返事をする男は嫌だ」
……でも……きみが言うなら――考えてあげてもいいけど?
だめだよく分からない人格が出てきた。彼女に関わるとツンデレの僕と向き合うことになってしまう。
僕が僕じゃなくなる呪わしい出会いに、しかし時よ戻れとは叫ばない。腹立たしいほど彼女のことが憎いのに、しかし害そうとは思わない。
「……光栄ですよ、女王様」
泰然自若に自由気まま、捻くれ者でしれっとしている。そんな僕は今日死んだ。今ここに立って顔を熱くしているのは、ただ一人の女に過去と現在と未来の全てを呑まれた愚か者だけである。
「アッハハハハハ!」
……そして僕の不格好な告白に爆笑する女だけである。
――ああ、馬鹿馬鹿しい!
終




