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川の流れは果て

作者: 藤代京


「夜の川には何かいる。見ちゃいけねえ。お前は特にだ。」


 爺さんの声が耳に残る。田辺誠は子供の頃、祖父のその言葉を笑いものだと思っていた。だが、爺さんの目は本気だった。薄暗い縁側で、タバコの煙を吐きながら、川の方を睨む目。誠は今、その警告を思い出す。


 なぜか胸がざわつく。夜、布団に入ると、川の夢を見るようになった。水面が揺れ、黒い影が彼を呼ぶ。


「*川/ズゥル…来*…ク’トゥン#…」


 意味不明な囁きが脳に響く。目覚めると、汗でシャツが濡れていた。


 昨夜も夢を見た。川底で何か蠢く。無数の目が誠を見つめ、触手が彼の名を呼ぶ。 


「*汝/ズゥル…#来*…ルルイエ…」


 水音が耳に絡みつく。


 目覚めた誠は、いてもたってもいられなかった。コンビニでタバコを買い、ふらりと百円ショップに立ち寄る。


 釣り竿とルアーが目に入った。


 なぜか手に取らずにはいられなかった。

 安っぽいプラスチックの感触が、夢の冷たさに似ていた。


 川に行かねばならない。

 理由はわからない。

 だが、行かねば。



 夜はあまりにも静かだった。川面は黒い深淵のようで、雲に隠れた月の光を呑み込んでいた。


 田辺誠は川の土手に腰を下ろし、百円ショップの釣り竿を握った。


 プラスチックの竿は軽く、握るたびにカチカチと頼りない音を立てる。ラインは細く、指にざらつく感触を残した。


 ルアーは色褪せた赤と白のプラスチック製で、錆びたフックがわずかに揺れる。


 誠はそんな安っぽい道具を手に、夜の川に一人いる自分をどこか滑稽だと感じていた。


「こんなんで何が釣れるんだよ」


 彼は呟き、ルアーを投げた。シュッとラインが空を切り、ルアーは小さな水音を立てて川に落ちた。


 波紋が広がり、闇に溶ける。


 リールを巻くと、プラスチックのハンドルがカタカタと鳴り、チープな感触が手に伝わる。


 川の流れは緩やかで、音はほとんどない。遠くでカエルの鳴き声が断続的に響くだけだ。


 誠はタバコに火をつけ、赤い火が一瞬だけ闇を照らした。煙が冷たい空気に溶け、川面に漂う。


 ルアーを投げ直す。ラインがピンと張り、竿が軽くしなる。だが、リールのハンドルが空回りし、カチッと引っかかる音がする。


 百均の道具なんてこんなもんだ。誠は舌打ちし、ラインを引っ張った。


 対岸の葦が揺れた。風はないのに。目を凝らすが、月明かりが乏しく、対岸は黒い塊だ。


 懐中電灯を取り出す。百均の安物で、黄色い光が頼りない。川面を照らすと、水が揺れ、まるで底のない深淵のようにうねった。


「気のせいか」


 誠は呟き、懐中電灯を消した。

 だが、違和感が胸を締め付ける。葦の揺れは、人間が動いたような形だった。こんな時間に人がいるはずがない。


 リールを巻く手を止め、耳を澄ます。カエルの声が消えている。静寂が深すぎる。耳鳴りのような音が響き、川面に映る星が不自然に揺れる。


 星座が、知っている形と違う。まるで、別の空が川に映っているようだ。


 突然、ルアーが引っかかった。竿がグンと重くなり、ラインがピンと張る。


 誠はリールを巻こうとしたが、ハンドルが空回りする。プラスチックの軋む音が夜に響く。


「根がかりか」


 彼はラインを引っ張った。だが、引っかかったものは動かない。それどころか、ラインがゆっくり引き込まれる。


 まるで、川の底から何かが引いている。


 誠の背中に冷たい汗が流れる。

 懐中電灯を点け、川面を照らす。光が揺れ、水面に黒い影が浮かぶ。

 いや、影ではない。人間の顔のような、だが目が異様に多く、星のように瞬くもの。


「何だ…それ」


 誠の声は震えた。


 心臓が早鐘のように鳴る。ラインがさらに強く引かれる。竿が軋み、折れそうな音を立てる。


 ラインを放そうとしたが、指に絡まる。いや、絡まるというより、ラインが意思を持って手首に巻きつく。


 百均のナイフを取り出し、切ろうとするが、錆びた刃は役に立たない。血が一滴、川に落ちる。川面が赤く光り、すぐに黒に戻る。


 だが、その黒はただの闇ではない。無数の星が川底で蠢き、まるで別の宇宙がそこにあるようだった。



 川面の異形が動く。

 いや、近づいてくる。


 水が波立ち、黒い触手のようなものが伸びる。触手は非ユークリッド的な角度で曲がり、空間そのものを歪ませる。


 懐中電灯が滑り落ち、川に飲み込まれる。光が水中で揺れ、異形の姿を照らす。


 それは人間の形を模しているが、顔は無数の目と口で埋め尽くされ、水と星の間で溶け合う。


 誠の喉から悲鳴が漏れる。ラインが手首に食い込む。放そうとするが、離れない。川の水音が大きくなり、意味不明な囁きに変わる。


「*ズゥル/深淵#我*…ク’トゥン/招#ルルイエ…」



 誠の叫びは川の闇に飲み込まれた。  


 百円ショップの釣り竿は手の中で脈打ち、プラスチックの表面に刻まれた紋様が蠢く。


 ラインは手首に食い込み、血と混ざって黒く光る。川面は沸騰するようにうねり、無数の触手が水から這い出す。


 非ユークリッド的な角度で空間を裂き、星の光を歪ませる。冷たい水が誠の足を這い、粘り気のある触手が骨を締め付ける。


「*ク’ズゥル…汝/血#星*…」


 囁きが脳を突き刺す。


 誠は土手に倒れ、触手に引きずられる。

 ラインが肉に食い込み、血が川に滴る。

 滴は水面で星のように瞬き、別の宇宙の光を映す。


 触手が腰に巻き付き、肋骨が軋む。痛みは鋭いが、なぜか心の奥で疼く。百均の竿が溶け、肉のように脈打つ。ラインは血と融合し、触手のように手首を締める。


「#汝…招/ク’トゥン*無限#…」


 囁きが記憶を掻き乱す。


 触手が誠の胸を貫く。

 皮膚が裂け、血と粘液が噴き出す。 


 苦痛が全身を焼き尽くす。だが、その痛みは奇妙に甘美だ。


 誠の喉から悲鳴が漏れるが、すぐに笑い声に変わる。


 百均の竿が溶け、肉のように脈打つ。ラインは血と融合し、触手のように手首を締める。


 川の水音が詠唱に変わる。


「*ルルイエ#星/我*…ズゥル/無限#…」


無数の声が重なり、宇宙の果てから響く。誠の意識が溶ける。


誠の肉体が崩れる。


 触手が腕を裂き、骨が露わになる。血が川に流れ、星の光を放つ。


 だが、苦痛は歓喜に変わる。


誠の心が叫ぶ。これは痛みではない。


解放だ。


 記憶が洪水のように押し寄せる。子供の頃、川で溺れた夜。


 爺さんの警告。


「お前はあれの血を引く!」


 誠は見た。


 川底の深淵。


 無数の触手が彼を抱き、星が彼を呼んだ。

彼は人間ではなかった。深淵の使者の眷属だった。


 誠の笑い声が夜を裂く。


 触手が彼の体を突き破る。胸から、腕から、目から、黒い触手がはじける。  


 非ユークリッド的な曲線で空間を歪め、星の光を飲み込む。誠の血が川面で輝き、別の銀河の模様を描く。歓喜が全身を満たす。


「*我/ズゥル#深淵*…ク’トゥン/使者#!」


 誠の声が詠唱と共鳴する。


 川がうねり、触手が一つになる。誠の肉体は崩れ、だが彼は消えない。


触手が彼を再構築し、星の間に浮かぶ。


 



川は穏やかに流れていた。


夏の陽光が水面に反射し、キラキラと輝く。子供たちの笑い声が岸辺に響き、色とりどりの浮き輪が水に揺れる。


少年が水をかき、少女がキャッと笑う。無垢な声が川に溶け、波紋となって広がる。


 だが、川の底、陽光の届かぬ深淵に、田辺誠はいた。いや、誠と呼べるものはもはや存在しない。彼は触手の塊、深淵の使者の眷属だった。無数の目が水中で瞬き、子供たちを見上げる。



 誠の体は川と融合していた。かつての肉体は崩れ、触手が水と混ざり合う。


 百均の釣り竿の破片が川底に沈み、プラスチックの表面に刻まれた紋様が脈打つ。 

 ラインは血と触手に変わり、水中で生き物のように漂う。


誠の意識は川そのものに広がり、星の光を飲み込む。


子供たちの足が水をかき、波紋が彼の触手を揺らす。彼の無数の目がそれを見つめ、奇妙な疼きが走る。


 少年が石を投げる。水面が割れ、波紋が広がる。誠の触手が反応し、水中で微かに蠢く。


子供たちは気づかない。少女が浮き輪に乗り、歌を口ずさむ。無垢な声が川に響き、誠の深淵に届く。


 彼の目が星のように光る。


 川面に映る空が揺れ、星座が不自然に歪む。知られざる銀河の模様が水に浮かぶ。


 誠の意識が囁く。


「*無垢/ズゥル…#ク’トゥン/深淵*…」


 川底で触手がうねる。

 非ユークリッド的な曲線で空間を歪め、水を裂く。

 誠の目が子供たちの影を追う。少年の足が川底の砂を蹴り、誠の触手に触れる。


 触手は一瞬、少年の足に絡みつくが、すぐに離れる。

 子供たちは気づかない笑顔。誠の意識が膨らむ。彼は人間だった頃を思い出す。


爺さんの警告。


「夜の川には何かいる。」


 だが、今、彼はそれだ。  


 深淵の使者と一つになり、川の底で永遠に生きる。


 川の流れは果て。





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