5.巣立ちの時
次の瞬間、電撃に打たれたみたいに身体をのけぞらせた。
雲雀は夫を突き飛ばし、キッチンの方へ這って逃れる。
その拍子に相手は、カウチソファーに座る形で尻餅をついた。
雲雀は憎っくき敵を見た。
裳玲の様子が尋常ではない。
顔をしかめ、全身をわなわなと震わせている。
我が身を抱く手だけでなく、長い脚さえもが小刻みに揺れているのはどういうわけか。
ガツン!と来る頭痛。
身体を右に左によじらせ、髪の毛を掻きむしった。
たちまち脂汗が噴き出た。
鐘突き棒で、除夜の鐘を突かれるかのごとき苦痛ぶりを示す。
「なんだよ、これ。ぢぐしょう、いで――――っ! グゾ――――――っ!」
ソファーに寝転がったまま、電気ショックによる拷問でも受けているかのように身悶えた。
それにしたがい、夫の顔に変化が現れる。
顔半分が硬直していた。
右側の眉毛が極端に下がり、右眼はまばたきすらできない。同じく右の口角まで下がりきったせいで、よだれが流れていた。
雲雀は立ち上がり、夫のそばに近づいた。
勝ち誇ったように見下ろす。
「頭、痛む? 熱もあるんでしょ? それに顔面麻痺まで出ちゃった?」と、雲雀は抑揚に欠ける声で言った。その美貌も同じくまばたきをしていなかった。半身を折り、悶絶する夫の顔をのぞき込む。「薬あげよっか? こんなときこそ、私の特製スムージーを飲めばよくなるよ、きっと」
「ととと、と、とくせい、ス、スムージーだと?」
裳玲は、しゃがれ声を絞り出した。
「種明かししてあげる。ちょっと待ってて」
雲雀はサマードレスの裾を翻らせ、その場から離れた。
キッチンの皿を手にし、軽やかな足取りで、ベッドルームへ行く。
ベッドの枕元に載った水槽のふたに手をかけた。
小さなカタツムリを手に取った。
殻から軟体部を引っこ抜き、皿に並べていく。
その手つきは慣れていた。矢継ぎ早、オカモノアラガイは殻から剥かれる。F1レースのタイヤ交換みたいに素早くやってのけた。
中にはロイコクロリディウムに寄生された個体まであった。
ひとしきり軟体部を引き抜いたあと、部屋を出て、キッチンに戻る。
冷蔵庫から冷凍ストロベリーとカットされたブロッコリー、レモン、ヨーグルトを取り出す。
それらといっしょにカタツムリの剥き身をジューサーに投入した。
スイッチを入れると、たちまち撹拌される。
「お、おい、なんだよ、今入れたのは……。ま、ま、ままさか、毒でも盛ったな?」
裳玲の視線は、雲雀の手に注がれていた。
得体の知れない肉片がいくつも付着している。
ナメクジ然とした形状。
裳玲は、なぜ雲雀がベッドルームへ行ったのか、すぐに察した。
「だからとっておきの食材。あんたはこのスムージーを飲むようになってから、ちょうど1カ月になるの。そろそろ効いてくると思った」
「ひ、ひょっとして、カ、カタツムリを」
「そのまさか」と、雲雀は対面式キッチンで艶然と微笑んだ。この笑顔で何人もの男を夢中にさせた。きっとこの長雨がいけない。チェイテ城に幽閉されていれば、誰だって頭がおかしくなる。夫を殺したくなっても不思議ではない。「ねえ、知ってる? オーストラリアのシドニーで、ある男が友だちとお酒飲んでたとき、悪ふざけでナメクジを食べたそう」
「げええええええっ。おええええええええっ!」
「その人、どうなったと思う? 寄生虫に感染され、身体が麻痺しちゃったとか。しまいには1年以上も昏睡状態になったあと、結局死んだそうよ。幼虫が脳に入り込むと、髄膜炎を引き起こすんだとか」
雲雀はカタツムリやナメクジの類に、細菌がウヨウヨいることを知っていた。
興味本位でナメクジを食べたというシドニーの男は、広東住血線虫という寄生虫感染症にかかって命を落としたというのだ。
「よ、よ、よ、幼虫が脳に?」
「私はこのマンションから出ていく。飛び立つ。巣立ちの時がきたの。その前に借りは返すから。じゃないと、腹の虫、収まりがつかない」
裳玲は激しい頭痛と顔面麻痺、四肢の麻痺まで訴えながら、渾身の気力をふり絞って立ち上がった。
どこの世界にカタツムリ入りのスムージーを飲まされ続け、死んだホストがいるものか。そんな屈辱的な死に方、いい笑いものにされるに決まっている。
激しい痛みもなんのその、雲雀に襲いかかってきた。
首をつかまれた。
またもや雲雀は床に倒され、その上に裳玲がのしかかった。
ぐごごごごごご……と、自分ではないような声にならない声が雲雀から洩れた。まるで動物的な唸り声。
悲鳴をあげて、近隣住民に助けを呼びたいのに、それもできない。
雲雀に覆いかぶさる夫の鬼の形相があった。
両腕を伸ばし、鵜飼の鵜みたいに、親指で喉をしごかれた。
負けじと相手の腕に爪を立てるが、裳玲も死ぬまいと必死だ。
酸素の供給を絶たれ、たちまち視界が赤くなる。
息ができない。
急速に視野の四隅から暗くなって、闇のカーテンが引かれようとしている。そのころには苦しさは嘘のように感じない。
たちまち、意識がブラックアウトした。
◆◆◆◆◆
どれほど気を失っていたのだろうか。
雲雀は眼を醒ました。
どうやらキッチンのかたわらで、顔を横にして仰向けで伸びていたらしい。
死んではいない。
顔を上げようとすると、口から流れたであろう唾液か泡で、頬と床とがくっついており、ぱりっと剥がれる感触があった。
半身を起こし、敵はどこへ行ったのだろうと見回す。
何てことはない。
本革張りのカウチソファーにふんぞり返る形で裳玲が両腕をあずけ、あごをそらせたまま埋もれている。テレビがついていて、他愛もないバラエティー番組を垂れ流していた。
呼吸はしているようだ。かすかに肩が上下していた。
表情は見えない。
不意にその顔がこちらを向いた。
雲雀は、その異様な面相を見るなり、絶叫を迸らせた。
もとの美形の顔立ちはどこへやら、そのギロリとした眼は異様だった。
二つの眼球が突出しているのではない――緑色やら黄色やら、縞模様になったイモムシ状の触覚みたいなものが眼窩からはみ出し、ピコピコ脈動していた。
カタツムリ入りのスムージーが効果を発揮したにちがいあるまい。広東住血線虫どころかロイコクロリディウムが夫の体内で孵化したのかもしれない……。
裳玲が立ち上がった。
ゾンビのようにだらしなく腕を前に差しのべ、あんぐり口を開けている。
口の中にも忌まわしい奴らが巣くっていた。
おびただしい数のロイコクロリディウムが、押しくらまんじゅうでもするかのように蠢いていた。
雲雀は全身総毛立つ思いにかられ、リビングの窓辺へと後ずさった。
ロイコクロリディウム人間と化した化け物が、ゆっくりと追ってくる。
こんな馬鹿げた話があるだろうか?
広東住血線虫は、人を宿主にはできないはずなのだ。たとえ脳内へ虫体が達したとしても、最終的には死滅する。それはロイコクロリディウムとて同じだと思ったのに。
怪物は腕を広げ、通せんぼしたまま近づいてきた。
今さら洗面所の向こうの、玄関へは逃げきれない。迂回しようとしても、巧みにステップを踏み、行かせまいと妨害してくる。
こうなったら覚悟を決め、ガラスドアの向こうのバルコニーに避難するしかない。
いくら54階建てのタワーマンション、地上からの高さは優に180メートルに迫るとはいえ、窓ははめ殺しにされた飾りではない。錠をはずせば、外の出入りは自由だった。
雲雀は窓を開け、バルコニーに出た。
ただし問題があった。――外側から錠をかけることはできない。
ロイコクロリディウムに憑りつかれた化け物が近づいている今、他にどうしろというのか。
雨は相変わらず降っていた。
風は吹いてないように見えて、さすが高層階、いろんな方向から雨粒が乱れ落ちてくる。
雲雀はガラスドアを開けられまいと押さえたが、相手の方が力が強すぎた。
ガラスの向こうで、眼からカラフルな寄生虫を突出させた裳玲が、力づくで開けようと躍起になっている。
耐風圧仕様のフロートガラスの厚みは10ミリ近くある。
その向こうで、裳玲が口を開けているため、無数のロイコクロリディウムがにょきにょき脈動をくり返しているのが間近で見えた。さも次の宿主はおまえだ、おまえに寄生させろと言わんばかりに。
雲雀は後頭部の産毛が逆立つ思いにかられた。
粘ったにもかかわらず、ついに根負けした。
怪物がバルコニーに出てくる。
寄生虫による浸食は進み、眼と言わず、鼻の穴や耳からも極太のコクロリディウムが出たり入ったりをくり返していた。色とりどりのチューブ状の虫が意思を持ったように蠢いている。
雲雀はバルコニーに置いてあったガーデンチェアを両手で持った。
思いっきり怪物の頭めがけふり下ろした。
続けざま、椅子を叩き付ける。
何度も何度も殴った。
そのたびに顔じゅうぶら下がった寄生虫がちぎれ飛ぶ。水たまりでイモムシ状の虫が身をくねらせた。
椅子は砕け、しまいには支柱しか残らなくなった。
雲雀はささくれ立ったそれで、相手の首に刺した。
嫌な手応え。怪物は首に杭を打ち込まれても倒れない。
鼻から垂れたコクロリディウムが、まるで鼻水のように揺れている。
雲雀は場違いにもヒステリックに笑った。
怪物は手を差し出したまま、近づいてきた。
雲雀はその場に頽れた。
尻餅をつき、後ずさる。
雲雀は思った。――こんな展開になるはずじゃなかった。
夫に復讐し、あわよくば殺害してこのマンションから出ていくつもりだった。
日本の警察からは逃げきれないのはわかっている。警視庁管内の重要犯罪の検挙率は85パーセントを超えているのだ。夫を殺害し、安穏と逃げおおせると考えるのは、頭がお花畑すぎる。
だけど雲雀は、逃げられるだけ逃げてみるつもりだった。このままではエリザベート・バートリと同じ轍を踏むではないか。
どんな形であれ、飛び立つときがきたようだ。
いよいよ巣立ちだ。
バルコニーの手すりは雲雀の肩までの高さがあったが、雲雀は勢いをつけて懸垂し、身体を持ち上げた。
ためらいもなく、手すりの向こうに身を躍らせた。
翼があるから怖くはない。
怖くなんか、あるもんか。
了
よい子はマネしちやダメよ(*^-^*)