4.特製スムージー
裳玲は午前さまかと思いきや、しっかり8時に起床した。
したがって、雲雀は朝食をこしらえなくてはならない。もっとも、スムージーと食パンを焼けばいいだけであったが。
アボカドと冷凍マンゴーとバナナのスムージーを作ることにした。
そして例のごとく、ひと手間加える。隠し味といってもよい。特製スムージーを与えるようになってから、かれこれ3週間になるだろう。いずれ効果が現れるだろうと信じて疑わなかった。
夫は寝ぼけたまま、一気に流し込んだ。
どうやら今日は頭痛はないらしい。
昨夜、ガツン!とくる痛みを訴えていたのは、単なる二日酔いにすぎなかったのか。
雲雀は無表情のままキッチンに立ちながら思う――取り越し苦労なら、さらに秘密の食材を付け加えてやるまでだ。
またしても除湿器のドレンタンクは、部屋の湿気を吸い取り、満杯になっていた。タワマンの空調設備が他より優秀でも、このありさまだった。
今度こそ洗面所で流し捨てる。
いったいこの1カ月のあいだ、どれほどこの単調な作業をくり返しただろう。
時折、ベッドルームのペットの世話をしたり、リビングや浴槽の掃除をする。
洗濯機を回した。
排水口の掃除には、例のごとく裳玲の歯ブラシを使う。
目的意識を持って身体を動かしていないと、心が落ち着かない。じっとしているばかりでは、裳玲の一挙手一投足にストレスを感じ、気分が汚泥に沈み込むようだ。
夕方、裳玲は六本木のクラブへと出勤していった。
出かける前、些細なことで例のごとく詰られはしたが、おまえはカタツムリそのものと決め付けられるよりかはましであった。あれは堪えた。
結局、今日も外出することなく、一日を無為にすごしてしまった。
必要な食材や雑貨は、すべてデリバリーか宅配業者ばかり利用していたので、出かける必要がないといえばない。
雲雀は無駄に年を取っているように思え、みじめな気持ちを抱えていた。
◆◆◆◆◆
それから1週間がすぎていった。
相変わらず雨ばかりとは、どういうことなのか。
雲雀は気が変になりそうだった。
それとも精神にカビがびっしりと広がっているのかもしれない。
気分転換をかねて外出すべきだろう。金には不自由していない。せめて昼か夕飯くらい、外で食べてもいいのに……。
しかしながらリビングから外の景色を眺めていると、憂鬱さが増してしまう。
とても出かける気力すら湧かない。
身につけているレースのついた黒いサマードレスを洗濯したのはいつだったろう……。お出かけ用に着替える気にもなれなかった。
まるで扉と窓を漆喰で塗り塞いだ、チェイテ城に幽閉された晩年のエリザベート・バートリみたいだと、雲雀は思う。
暗い部屋で、食事だけ死なない程度に与えられ、糞尿は垂れ流しの生き地獄を味わう。
死刑よりも無期懲役の終身刑の方が苦しみが長引く。終わりが見えないからこそ、人はゆっくりと狂っていくのだ。
エリザベート・バートリはそんな暗闇地獄の中で、なんと3年半も生き永らえたという。
雲雀はキングサイズのベッドで腹這いになり、水槽の中をのぞき込みながら、エリザベートのことを考えていた。
虚ろな眼は、怯えと狂気で小刻みに揺れていた。
――到底、この籠の中で生き続けるのは無理。
何が何でも飛び出さないと、私は壊れてしまう。
いや、すでに壊れているのではないの?
取り返しのつかないほど。
◆◆◆◆◆
「このハイボール、ちょっと生臭い味がするような」昼すぎ、裳玲がまたぞろ酒を引っかけているときだった。カウチソファーで前屈みになり、グラスの中をしげしげと見ている。「氷が悪いのか? 心なしか色が――」
「気のせいじゃない? 疲れて、味覚が鈍くなってるのよ、きっと」
と、雲雀は大型ガラス引き戸のそばで正座し、洗濯物を畳みながら言った。かたわらには除湿器が静かに稼働している。
最近夫の顔色が悪い。よく眠れていないようだ。眼の下にクマができていた。
裳玲はためしに氷をかじってみた。
ボリリ……と、20帖のリビングにやけに大きな音が響いた。神妙な顔つきで味わう。
「やっぱり生臭いような気がするぞ……。製氷機のタンク、まめに洗えよ。専用の洗剤、売ってるだろ!」
「売ってるね」
「売ってるね、じゃねーよ。だったら買ってこいや!」
「わかったわかった。そんなに大声出さないで。Amazonでポチっとくから」
「ったく、しらけるぜ。店にいりゃ、昨日は【締め日】(月の最終営業日。その月の売上によってナンバー入りのホストを決める営業日)だろ。最終オーダーが終わってから、ホスト同士でケンカはありーの、おれをお気ににしてくれてる【姫】が【飛んだ】りーのと、さんざんだった。今月は3人も【飛んだ】。家に帰りゃ、この仕打ちか。まったくこの長雨といい、冴えねえぜ!」
「どーいたしまして」雲雀はあきらめた口調で言った。ガラスドアの向こうに眼をやる。きっと天の水桶は破損したにちがいない。湾岸エリアのネオンも心なしか少ないような気がした。世界は絶望だらけだった。「【姫】が【飛んだ】って、売掛や未収なんかを支払わず、音信不通になったってことだったね」
「ああ。ホストが【飛ぶ】ことだってめずらしくない。そんときゃ、店に連絡も入れずバックレるってことだ」
「【飛んだ】あと、みんな、どーするつもりなのかな」
「知るか。他人のことなんざ」と、裳玲は八重歯を剥いたあと、急に顔をしかめた。「あ――っ、頭痛え。いてててて!」
「最近、ずっとそんな調子ね。いちど医者に診てもらったら?」
「これだよ、ガツンとくる。クラブで接客してても、こんなんじゃ、他の奴らに出し抜かれる」と、裳玲は額を揉みながら、しゃがれた声を出した。「これは飲みすぎから来る痛みじゃねえ。なんだか寒気がする」
「熱、測ってみる?」
「なら、さっさと体温計貸せよ!」
「はいはい」
「おまえ、最近また反抗的になってきたな。どうだ、おれのこと嫌気、さしてんだろ? いつでも別れてやるぞ」
「まあね。私、やることカタツムリみたいにとろいし」と、雲雀は嫌味を言った。洗濯物を畳むのも丁寧すぎて捗っていない。立ち上がり、北側の壁際に向かう。アンティークチェストがあった。上の抽斗を開け、救急箱の中から体温計をつまむ。気のない足どりで歩き、カウチソファーで頭を抱える夫に渡した。「あなたと暮らすの、そろそろ限界がきたのかもしんない」
裳玲はしかめっ面で体温計をひったくった。
スイッチを押し、シャツをまくり上げ、脇の下に挿す。
「言うようになったじゃねえか。やっと眼が醒めたってわけだな」
「あなたとの結婚は失敗だった。これ以上、一つ屋根ですごすの、時間の無駄」
雲雀が言い終えるのと、頬を引っ叩かれ、音が鳴るのはほぼ同時だった。
夫の力は強すぎた。
雲雀はうしろへ跳ね飛ぶ。
テーブルの天板で腰を打ち付け、痛みに身をよじらせる。
そこへ裳玲が馬乗りになった。
雲雀はあごをつかまれ、ぐいと引かれた。
「時間の無駄だと? ああ? だったら出ていくか、このタワマンから? こんな贅沢な暮らしさせてもらって、今さら淫売に逆戻りできんのか?」夫は前髪を乱してどすの利いた声を放った。頬は怒りに紅潮し、醜く歪んでいる。とても人気ホストの甘い顔立ちではない。地獄で亡者を苛む獄卒もかくやという形相だ。「どーした! ヒバリのように、きれいに鳴いてみろ!」
「あんたなんかのために、泣くもんか!」
これほど醜い争いもあるまい。
力勝負では雲雀に勝ち目はない。
かつては愛し合った二人が、もみ合いになっているときだった。
雲雀にのしかかり、圧迫していた裳玲が突如、顔をしかめ、身体を突っ張らせた。
「……ぐっ!」と、裳玲はとっさに頭に手をやった。歯を食いしばり、眼球がこぼれんばかりに見開く。白眼には毛細血管が稲妻のように交差していた。「なんだこれ? いででででででででででで……! いて――――――よ!」