3.製氷機のタンクに除湿器の排水を注ぐ
◆◆◆◆◆
ベッドルームから飛び出してきた雲雀は、リビングの向こうに釘付けになった。
裳玲は本革張りのカウチソファーに腰かけ、前のめりのまま、額を押さえている。
頭痛を訴えているようだ。こめかみを揉んでいる。
「裳玲? どしたの?」
雲雀は祈るように胸のところで両手を組み、裳玲の顔色をうかがうように言った。ひょっとして……と、彼女は内心期待してしまう。
「……どういうわけか、ここ最近、急に頭痛が来る。なんだ、このガツンと来る痛みは?」
「飲みすぎじゃない? もっと身体を大事にすべきよ。お仕事にも差し支えるでしょ」
「飲みすぎなもんか。まだゲームは中盤にもさしかかってねえ」と、裳玲はしきりにこめかみをマッサージしながら言った。「……おい、そんなとこにボケッと突っ立ってないで、ハイボールのおかわりを作ってくれよ。これが何よりの薬だっての」
「薬って」
「この際、氷はなくったっていい。そのかわり、とっとと製氷機のタンク、補充しとけよな!」
「……はい。わかりました」
ご主人さま、とは付け加えなかった。危うく喉から出かかったが、ぐっとこらえた。
「いつもそうだ。とろいんだよ、カタツムリみたいに! おまえの寝室の汚らしいペットは、おまえそのものじゃねえか!」
ひどい言い草に、対面式キッチンでグラスにウイスキーを注いでいた雲雀は、思わず身を竦めたほどだ。
いくらおっとりしている雲雀でも、反射的に言い返したくもなる。
が、これまで泥仕合をしてきて、気分が晴れたためしはない。
ましてや夫が酒の入っているときに反撃するのは賢いやり方ではない。
奥歯を噛みしめ、深呼吸しながらソーダ水を加える。
氷がない分、大目に注いだ。
悪酔いされると、さらに棘のある痛罵を浴びせられることだし、アルコール度数は少ないに越したことがない。
マドラーでかき混ぜる。
白州のスモーキーな香りは、酒に強くない雲雀でも馨しく感じられた。
グラスを手にし、キッチンを回り込み、夫に手渡す。
「製氷機のタンク、足しとけよ。わかったらあっち行け!」
酔うと取り付く島もない。
しけた妻の顔を見るのも疎ましいようだ。
「はい。ただちに」と、雲雀はうつむいて答えると、思い出したように、ふり返った。「……その前に、向こうの除湿器のタンク、一杯になったみたい。さっきから機械、動いてないと思ったの。先に捨てさせて」
「なら、どーぞ。どうりで部屋が湿っぽいと思った。それもおまえの仕事だ」
バルコニーが張り出した南側の壁際に、キャスター付きの除湿器を置いていた。エアコンの風は、もっぱらカウチソファーの方に行くように設定してある。雲雀は冷風に当たるとすぐ体調を崩すので、据え置きタイプの除湿器の方が重宝したのだ。
2リッター入るドレンタンクは満杯になったらしく、操作パネルのところで赤ランプが点滅している。
こうも鬱陶しい季節が続くと、日に何度も捨てなければならない。
機械からタンクをはずし、手にさげる。雲雀の細腕では、さすがに重い。
満杯になった水をこぼさぬよう、雲雀はそろそろと裸足で歩いた。
キッチンへ行く。
本来ならば洗面所の方が近いから、そちらで捨てるべきなのだ。
ソファーに埋まり、大型テレビで映画を観ている裳玲は気づかない。
病的にきれい好きのわりに、洞察力は抜けていた。人間、えてしてそんなものだ。完全無欠な者は稀である。
雲雀はキッチンに回り込むと、ドレンタンクの水を捨てず、シンクの底に置いた。
次に高級冷蔵庫を開け、製氷機の空タンクを抜き取る。
ふたを開け、こちらも夫に見られないようシンクに置く。
除湿器のタンクの水を、製氷機のそれに流し込む。
かれこれ1カ月以上、タンクの底についたぬめりを洗っていない。黄色い沈殿物が付着しているのが見えた。
指を突っ込み、汚らしい澱を掻いてやる。
そのヌルヌルしたエキスも足す。
雲雀は鼻歌まじりに製氷機のタンクを汚れ水で満たし、何食わぬ表情で冷蔵庫に突っ込んでおいた。
――除湿器の排水には、空気中のカビ菌のみならず、ほこり、細菌、ウイルスまでもが入っている恐れがある。
ほんの1週間前は、その排水で味噌汁を作ってやった。もっとも、煮沸してしまえば、せっかくの菌も効果は表れまいが。
これでささやかな仕返しはできた。
雲雀はひそかに微笑んだあと、ベッドルームですごすことにした。
カタツムリを愛でた方が精神衛生上、健全であろう。
レトルトカレーを温め、飲み物と、カタツムリの餌とともに運んでいく。
◆◆◆◆◆
裳玲は一流ホストとしての自尊心は強く、それに見合う努力をしていると述べた。
美容と健康は、一般人とは比べ物にならないほど気を遣っていた。そのくせ酒は浴びるほど飲むというアンビバレンス。人は単純なようで、相反する要素を併せ持っていたりと、理屈では割り切れない生き物である。
雲雀はとくに後者について、心を砕かなければならなかった。
さもないと、すぐに怒号が飛ぶのだ。
だからこそ、夫のために毎朝スムージーを作るのを日課としている。
コードレスのスムージーミキサーは、複雑な羽が交錯する6枚のラウンドエッジカッターを売り物にしている。これで指を切られたらさぞかし痛いだろう。
瞬時に撹拌される食材。毎分約2万回の触れ込み。
野菜や凍らせたフルーツは、切断されるというより細かく粉砕され、なめらかなスープ状へと変化する。驚くほど音は小さい構造だった。
ビタミンCをたっぷり含んだキウイと緑黄色野菜のスムージー。
あるいは、淡い紫色が食欲をそそる冷凍ブルーベリーとバナナのコンビネーション。
もしくは桃の果肉を贅沢に使い、セロリ、ベビーリーフ、パセリ、クコの実まで混ぜたそれ。
または無糖アーモンドミルクと小松菜、バナナで組み合わせたプロティンスムージー……と、至れり尽くせりだ。
夫が飽きないよう、毎日多彩なレシピを用意しておかなければならなかった。
いずれにせよ、以前まで夫婦仲のよかったころは雲雀もいっしょに飲んだものだが、今は裳玲にしか与えていない。この1カ月は口にしていなかった。
というのも、裳玲との付き合いにうんざりしたのもあるが、あやうくその罠に、寝ぼけて飲んでしまうといけない。自爆するのは何としても避けなくてはならなかったのだ。
――幸い、その夜は雷を落とされることなく、静かに更けていった。
◆◆◆◆◆
明くる朝もやはり雨だった。雨足は衰えを知らない。何もかも異常すぎた。
バルコニーの向こうは淡い灰色一色で、いつもは華やかな街も陰雨で煙り、まるで世界は終りを迎えたようだ。
雨ばかり続くと、人はみんな、生きる気力さえ失うのではないか。
眼下では、スモールライトやフォグライトを点けた車列がのろのろと行き交っている。
歩道の歩行者も傘が手放せず、その動きに躍動感はない。誰も彼もが強制収容所へ向かう足どりそのものである。