2.同病相憐れむ
熱帯魚が優雅に泳ぐ水槽かと思いきや、違う。
――カタツムリだった。
それも、本土で見かけるありふれた渦巻型のカタツムリではない。可愛いベージュ色の卵型の殻を背負ったミニサイズのそれである。
数え切れないほどいる。軟体部もベージュ色をしているので、一見すればナメクジではないかと思えてしまう。指の爪ほどの大きさしかない。
オカモノアラガイという品種だった。2カ月前、雲雀は沖縄の昆虫マニアのサイトで購入したのだった。
飼育ケージ内にはきれいな土を敷き詰め、ミズゴケをこびりつかせた大小さまざまな石を配置し、まるで箱庭のようだ。
雲雀のお気に入りの小世界。まるで日本庭園の造園技法である借景だ。
オカモノアラガイは、思い思いの場所をゆっくりと這っていた。餌のニンジン、キュウリを輪切りにしたものに集まっている個体もある。
雲雀は生活に疲れたときや、夫に叱られてストレスがたまったとき、いつもこうしてカタツムリを見つめては癒されていた。
むろん時折ケースのふたを外し、霧吹きで箱庭全体を湿らせてやることを忘れない。カタツムリにとって乾燥は大敵である。ただでさえ、除湿器をフルパワーで使っているからだ。
同病相憐れむ。
雲雀もまたケージの中の鳥にすぎない。カタツムリとは姉弟みたいな関係だった。
世界はあまりにも狭すぎた。
つぶさに観察せずともわかる。一部のカタツムリの見た目がおかしい……。
というのも、二つの触覚が異様な個体がちらほらいるのだ。派手な色をした太いそれが、ピコピコ脈動するかのように動いているのはどういうわけか。
雲雀はこの現象を知っていた。
ロイコクロリディウムという寄生虫に寄生されているのだ。寄生虫はカタツムリの消化器内で孵化したあと、触覚部分に移動し、イモムシのように擬態するのだという。
本来ならばこうして触覚を目立たせ、外敵である鳥に食べられやすくするための戦略だそうだが……。
このケージの中にいるかぎり、それも叶うまい。
◆◆◆◆◆
飼育ケージに見とれていた、そのときだった。
「おら、雲雀!」と、またもや裳玲の声がドアの向こうでこだました。やはり王さまはご機嫌斜めらしい。冷蔵庫の扉を勢いよく閉じる音が虚ろに響いた。「氷、切れてるぞ! 製氷機のタンク、空じゃねえか! おまえ、あれほど言っただろが! 料理作ってる合間に水、補充しとけと!」
「すみません、うっかりしてて……」
雲雀はあわてて立ち上がり、ベッドルームを飛び出した。
こっちにも言い分はあった。
夫はあまりにも呑兵衛だから、氷の消費が激しすぎるのだ。自分が飲むなら、製氷機の面倒くらい見てもらってもいいのに……。
しかしながら、リビングの向こうを眼にしたとき、その言葉を飲み込んだ。
裳玲はカウチソファーに腰かけたまま、前のめりになって額を押さえている。
髪はゆるめのパーマをかけたショートヘア。いつもグロスワックスをつけ、艶があった。頭痛でもするのか、しきりにこめかみを揉んでいる。
――結局はこの人も私といっしょ。檻の中に閉じ込めてしまった。自由を奪われると、誰だってこの狭い牢獄から飛び出したくなる。今じゃ立場は逆転し、私自身が飛び立とうと藻掻いてる。なんて皮肉なんだろう!
専門家の調べによると、ホストクラブの常連客の9割以上は、風俗嬢だという。
彼女たちは虐待や家族間のトラブル、メンタルに問題を抱えており、仕事を求めて夜の街にたどり着く。
性を売って得た金を、ホストクラブで散財する者が圧倒的に多いとされている。
まともな恋愛経験に乏しく、自己肯定感の低い女性がはまる傾向にある。
ホストたちはあくまで【色恋営業】をしているにすぎず、女性客を褒め、認めてくれるのは本心からではない。頼れる人が家庭にない分、ホストへの依存が高くなるというのだ。
そういった点で、キャバクラ譲はホスト狂いにはなりにくい。
キャバ嬢は自己肯定感がむしろ高く保たれているため、おだてられてものぼせ上がる女は少ないとされる所以である。
◆◆◆◆◆
雲雀も例外ではなく、そんな過去を背負っていた。今でこそ風俗嬢から卒業し、専業主婦だった。
両親は裕福だったが、夫婦関係は破綻していた。
機能不全の家庭で育ち、高校を中退したあと家出した。
手っ取り早く金銭を得るため、身体を売る職業を選んだ。自罰的な生き方とも言えた。
やがてそのルックスと性技で人気を博し、業界ではトップクラスの稼ぎ頭に成長したのだった。
金銭面で不自由はしなかったものの、心に寂しさを抱えていた。
そんなときだった。同い年の仕事仲間にホストクラブに連れられていった。
いろんなホストにちやほやされ、そのうち裳玲に魅了された。
給料のほとんどを貢ぐまで、そう時間はかからなかった。
当時裳玲は、年収1,000万超のプレイヤーとして名を馳せていた。
源氏名はモレイ。
クールな佇まいで細かい気配りができ、ふだんは寡黙ながらいったん口を開けば話題が豊富で、必ずオチをつけた。その話術はさながらマジシャンのよう。
容姿も眼を瞠るものがあった。
細面で、あごが鋭い。二重のアーモンドアイで、きりっとした風貌。笑えば八重歯がのぞき、このギャップがたまらないと思った。
身体は細いが脱げば筋肉質で、自慢の腹筋は六つに割れていた。いくら酒を流し込もうと、だらしなくたるむことはない。
手足は長く、とくにその手は女性的でしなやかだ。白い手の甲に浮いた血管でさえ官能的であった。
下々の【掃除組】から、持ち前の根性で一気に成り上がったという。他のホストを押しのけてでも、上の階層をめざす野心家でもあった。
狙うはクラブの幹部候補だと、雲雀にだけ囁いたことがある。
秘密を共有して以来、裳玲を【永久指名】した。
しょせん【太客】(太っ腹な客)にすぎないのはわかったうえでクラブに入り浸った。
ビジネスライクな付き合いから、一人の女として気に入られるにはどうしたらいいか。
熱病に浮かされたように、雲雀は仕事で金銭を得るたび、裳玲に注ぎ込んだ。
唆されるがまま、シャンパンコールで散財した。
雲雀はどんな【姫】にも負けないくらい貢ぎ、この推しをクラブのナンバー2にまで昇格させた。実際、裳玲は幹部にまでのぼりつめ、ホストをしつつ運営側に回った。
クラブに通うようになってから1年半。
最終的には他の【姫】に奪われる前に、【水揚げ】(客の希望でホストを引退させ、養うこと)したのだった。
養う、とは対等ではあるまい。
籍を入れ、文字どおり夫婦になったのだ。
――そのつもりだった。
男は甘やかせばつけ上がる生き物である。
もともとの裳玲の地金も秘めていたにちがいない。
半年もしないうちに、傲慢さをさらけ出した。
今ではまさか、主従関係になってしまうとは……。
夫婦は冷え切っていた。
裳玲さえも、籠の中で飼われる生活に嫌気がさしたのだろう。
結局、華やかな世界が忘れられなく、職場復帰してしまった。見栄でタワーマンションに住んだはいいが、日ごと蓄えは目減りしていたし、夜は会わない方がいい。願ったり叶ったりだった。どうせ裳玲の方が稼ぎがよかった。
かわりに雲雀は夜の商売を辞め、専業主婦という名の牢獄生活を強いられているというわけだ。
夫は潔癖症で、少しの乱れも許さなかった。どんな相手にも求めた。
そしてホストでいるかぎり、【姫】たちに支持されるには、それ相応の努力を実践していた。
とくにうるさかったのは美容と健康である。
そのナルシズムぶりは雲雀など足元にも及ばない。
ホワイトニングや脱毛は当たり前。
深夜、クラブから帰ってくるなり、雲雀の鏡台の前に座り、メイクの練習にも余念がない。化粧品や美容液の品数は雲雀のそれよりも高価で多いほどだった。