1.夫の歯ブラシで排水口を掃除する
高級分譲タワーマンション最上階の、なんと広々とした部屋か。
20帖のリビングに配置された調度品も贅を凝らした一級品ばかり。家具や家電、インテリアの趣味は、機能美だとか合理性とは真逆のタッチだった。まるでガウディのサグラダ・ファミリアのようにゴテゴテしていながら壮麗である。
タワマンで暮らすことは勝者の証でもあった。ただし、火災や地震が発生した場合、命に係わるのがデメリットだったが。夏場となると、日当たりが良すぎて暑く、エアコンをマックスにしないといけないのも玉に瑕だった。
しかしながら今は梅雨の季節。照明は落とされ、何もかも光を失い、空虚な影がそこかしこに染み付いていた。
本来ならば、窓辺からの見晴らしも素晴らしい。
この湾岸エリアには他にも高層ビルが佇んでいるが、雲雀が住んでいるこの物件はひときわ高く、ランドマークの役割として担っていた。
あいにく雨ばかり続いていた。
遣らずの雨という慣用句がある。まるで帰ろうとする者を引きとめるかのように降ってくる雨のことをさす。
雲雀の場合は違った。
出ていきたいのに、否応なしにこの狭い檻の中に閉じ込められているも同然だった。
この陰鬱な天気では散歩はおろか、買い物に出かけるのすら億劫すぎる。ここのところ、デリバリーサービスばかり利用していた。
「おい、雲雀!」
脱衣所の方から夫――裳玲の怒声が聞こえた。
びくり。
雲雀は身を硬くする。
また自分は何かやらかしたらしい。
今度はどんな言いがかりをつけられるのか。
「なんか、問題あった?」
「大ありさ。しらばれっくれやがって!」と、裳玲が洗面所から半身を出し、リビングの雲雀に向かって歯ぐきを剥いた。せっかくのイケメンも険がありすぎる。「おまえ昨日、シャンプーボトル、裏返して直したろ。おれこーいうの、許せねえんだったら!」
「……ごめんなさい」
雲雀は、理不尽なものを憶えながらも、謝罪の言葉をひねり出した。
いくらジメジメする梅雨の真っ只中とはいえ、コンプレッサー式除湿器をかけているおかげで、フロア全体は乾いている。乾きすぎて口蓋に舌が貼り付きつき、声がかすれるほどに。エアコンだと冷えすぎて体調を崩すので、微風しか流していなかった。夫にはそれが不満のようだったが。
シャンプーボトルの件は身に覚えがあった。
昨夜、シャワーを浴びる際のことである。
いつもなら棚に置いたボトルから直接液剤を手に取って髪に揉み込んでいたのに、その日にかぎって容器を鏡の前に置いたのだ。
使ってから眼をつぶったまま棚に戻したのだが、表裏逆にしてしまったらしい。なぜあとで気づかなかったのだろう。
――ただそれだけの理由で、ネチネチと説教された。
このゴージャスな物件に、使用上の注意やら原材料、ましてやバーコードが記された俗っぽい面を見せるのは似合わない、なぜもっと気をつかえないのかと。
夫はこうした些細なミスが許せない性質だった。
「……わかったら、さっさと元に戻してこいや!」
「はい。ごめんなさい……。今後、気を付けます……」
頭を下げたあと風呂場へ向かった。
雲雀はレースのついた黒いサマードレスを着ている。裸足でペンギンみたいによちよち歩いた。
シャンプーボトルを元に戻した。
洗面所に出ると、三面鏡で自身の顔を映す。
本来は黒髪が長く、いかにも繊細そうな顔立ちの美形が映るはずだった。28歳にしてはいささかやつれていた。
三面鏡の裏は収納キャビネットだ。
左が雲雀のコップと歯ブラシで、右側には裳玲のものと髭剃り、眉毛バサミなどが入っている。
雲雀は洗面台のヘアキャッチャーをつまみ、各パーツごとに分解した。
髪の毛やゴミがたまっていたのでティッシュで取り除く。
パーツは水垢でヌルヌルしていた。
雲雀は裳玲の歯ブラシを手にすると、ヘアキャッチャーのぬめりをこすった。
給水栓レバーを上げ、流水で汚れを落とす。
ついでに排水トラップの奥に歯ブラシを突っ込み、こすって掃除する。穴の奥は汚らしかった。
手早くヘアキャッチャーを組み立てると、排水口に戻す。
歯ブラシは軽く水ですすぎ、何食わぬ顔で裳玲のコップの中に入れる。
コトッと乾いた音がした。
リビングでふんぞり返る夫は気づくまい。
雲雀は広々としたリビングに戻ると、対面式キッチンの正面にある窓の外を見た。
2つ上の夫が怒りっぽいのも、きっとこの天候がいけないのだ。
重苦しい空模様で、ずっと小雨が降り続いている。こんな状態が連日続けば、どんな温厚な人間だって苛立つに決まっている。人の心をも荒廃させてしまう。
それにしても梅雨入りして1カ月になるというのに、一度たりとも降りやまないとは異常すぎる。東京の記録だと過去を遡ってみても、1977年の連続22日間が最長だからだ。
なんと1カ月!
これほど晴れ空を拝めないとは――。
テレビのニュースはろくな報道しか伝えない。
道路の冠水は各地の至るところで起き、土砂災害が頻発。作物は根腐れを起こし、品不足が予想され、いずれ価格高騰につながるだろう。病害虫の異常発生までもが懸念されていた。
前例がないほどの異常気象に、世間は驚くというよりうんざりしていた。
それに加え、抑鬱症状を訴える一般人が増えているという。梅雨前以上に、月曜の朝は自殺者であふれた。そこらじゅうで電車のダイヤが乱れた。
一般人だけではない。
テレビに緊急速報のテロップが入り、著名人のそれが流れることも少なくない。
◆◆◆◆◆
六本木のホストクラブで勤めている裳玲は、本日は定休日だった。
本革仕様のカウチソファーを貴族のように陣取り、昼前からハイボールを引っかけている。
昔どこかで聴いた歌の歌詞でもあるまいし、夫のドアの開け閉めで機嫌の良し悪しがわかった。
今日は――いつになく機嫌が悪かった。
酒が入るにつれ、ますます室内の雲行きまで怪しくなる。
裳玲はソファーでふんぞり返り、グラスを片手に、100インチの大型テレビで海外ドラマを観ている。苦い薬でも飲み下した直後みたいな横顔だ。
こんなときは不用意に話しかけるべきではない。うっかり地雷原に踏み込むようなものである。3年5カ月の結婚生活で嫌というほど学習していた。
雲雀は適当な酒の肴を夫の前のテーブルに並べたあと、そそくさと自身のベッドルームに避難することにした。
そう、避難だった。
8帖の雲雀だけの空間に逃げ込んだあと、そっとドアを閉める。
窓がないため、三面の壁にはそれぞれ風景の写真を貼ってある。
しょせん誤魔化しにすぎない。
部屋は、窒息しそうなほど息苦しい。
ふかふかのベッドに横になる。
キングサイズは広すぎて、まるで荒野に放り出されたかのよう。
枕元には小物を飾ることのできる棚がある。雲雀はあまり物を置かない主義だが、一つだけ不釣り合いなガラス製の直方体を置いてあった。四方からライトアップできるよう、ミニスポットライトまで備え付けられている。