弘徽殿の悪役令嬢・1
鳥辺野で、乞巧奠の飾りのごとく木に吊るされた殿上童たちの遺体が発見されたーー奇怪な噂はたちまち宮中を駆け巡る。
「なんて恐ろしいこと」
「童たちは桐壺の更衣付きだそうで、更衣の悲しみと怯えは筆舌にも尽くし難いご様子……」
「なんとおいたわしい。先日も百鬼夜行で騒ぎになったばかりではありませんか。早くお祓いをしてもらわなくては」
「百鬼夜行?」
「そう、草木も眠る丑三つ時、ひそかに牛車を走らせていた殿方が内裏の北で怪しい牛車と行き合ったと言うのよ」
「怪しい牛車?」
「時間が時間でしょう? それでお互い女のことで訳ありの牛車だと思って、その殿方は黙ってそっと通ろうとしたのだそうよ。そうしてすれ違いざまに見れば、御簾の下からは到底牛車に乗る人の数ではない人の手がはみ出していて、牛車が揺れるたびに白く蠢いて、まるでおいでおいでと――その殿方は帰るなり熱を出して、十日が経つ今も起き上がれずに病に臥せっておられるとの噂」
「どちらの御方ですの?」
「それが――」
「……まあ。桐壺の更衣の義兄様……」
「なんだか最近、桐壺の更衣ばかりがおいたわしいこと」
雲の上の醜聞に、地にあふれる怪奇譚。宮仕えの日々はそういうものに耳を澄ましていなければ変わり映えがしない。だって宮中の噂を親元に届けるのも出仕した娘の役目だものね――そう自分に言い聞かせては楽しげな悪口を面白さ優先で右から左へ流す日々だ。
「そうそう、桐壺と言えば、件の童の遺体――その梶の葉に書きつけてあった言葉なんだけど、」
噂の膨らみきったある日、最近いつもこの話をしていた女官は思い出したように小声でささやいてきた。
「在天願作比翼鳥在地願為連理枝――とあったそうよ」
女官の震える吐息を声の中に感じながらも、もうひとりの女官は漢詩が解らないので首を傾げるばかりだ。
そういうみんなが知らない知識をひけらかすのはやめてほしい。女官はちょっと興ざめたように口をつぐみ、そして少し考えた後、「あ、でも」と手を叩く。
「よく解らないけど源氏物語でも似たようなセリフを聞いた気がするわ」
「……帝と桐壺を喩えた言葉でしょう? ……だってこれはもともと唐の楊貴妃が……」
――七月七日、玄宗皇帝と愛を誓う言葉なの。
漢文が解らなくとも、この後に楊貴妃が国を傾けた疑いで殺されるのは知っている。
そして源氏物語の桐壺巻は、楊貴妃を下敷きにした物語だということを知らされる。
かの有名な比翼連理は果たされない誓いだ。「例え天地が悠久であろうとも永遠はなく、しかし私は永遠に恨み続ける」と、詩は締めくくられる。
戯れに始めた口性ない連想が思いがけない方向に転がり始めるのを感じて、女官は身震いした。
漢詩に詳しいらしい女官が微笑みながらささやく。
「まるで本当に、弘徽殿の女御様に呪われているみたい」
晩夏の目映い日差しは欄干を越えて降り注ぎ、人の影を長く落とす。禁裏の寝殿と寝殿とを渡す白木の回廊を歩くひとりの女がいる。
衣擦れの音が近づいてくる。聞くだけで纏った着物の重厚さが違う、そんな音だ。しかし噂に夢中になっていた女官達は、近づく音にまるで気がついていない。
丁寧に艶を出した濃緋色の袿には繊細な唐草が織り込まれ、その織模様が庭からの木漏れ日を受けるたびに光が揺らめくように浮き上がる。その表にはさらに色彩々の糸を凝らした手毬のような牡丹紋が織り込まれている。
黒髪が甘い香とともに風にふわりと翻って、すれ違いざまようやくその美貌に気づいた女官のひとりが、たちまち膝から崩れ落ちるように礼をした。
その様子を見た少女は鈴を転がすような可憐な声を上から浴びせかける。
「あら、ごめんあそばせ。わたくし、お話の邪魔をするつもりはなかったのよ。本当よ」
その長い長い黒髪は紫檀のごとく、陽の光を受けると焔が立つような艶を帯びる。そのまま彼女が一瞥もくれずに立ち去ると、身丈よりも長いそれが瑞々しい黒蛇のように白木の床をうねり、震える女官の指先をかすめていった。
あばたひとつ無い白い肌と顔立ちが冷ややかなほど整っていたことや、力の強い漆黒の瞳が。今更ながら次々と瞼の裏に浮かんで、指の震える音は止まない。
しばらく見送った後でおそるおそる顔を上げると、黒髪はもう回廊の向こうへ行き過ぎていた。正装にあるべき裳と唐衣を省略した鮮やかな深紅の袿五衣を許された後ろ姿は、この場に彼女の上に身分の高い者はなく彼女こそがこの殿舎の女主人である証明に他ならない。
「弘徽殿の女御様だわ……」