真解決編・13
「また梨壺に源氏物語のニワカって言われちゃったわ」
犬君は黙って削氷を差し出す。
「ま。文学オタクの梨壺には言われても仕方ないわね」
ため息交じりに言いながら弘徽殿の女御は氷をひと匙口にふくみ、口に広がる甘さに微笑んだ。
梨壺は最近、東宮の蹴鞠見学のついでに弘徽殿の中へ立ち寄るようになった。したがって梨壺を怒鳴りつける声が絶えないが、これはこれで、この人たちにとっては良好な関係なのかもしれない。最初は殊勝にしていた梨壺も辛辣な皮肉を言い返すようになった。
今なら言えるかもしれないと、犬君は冷たい塊を飲み下す。
「……恐れながら私も、実在する女御を源氏物語の悪役令嬢に喩えるなど被害妄想ではないかと思っております」
犬君の微笑みには珍しく、皮肉の色が浮かんでいない。
「そうね」
それを見て弘徽殿はにっこりと微笑い返した。
「認めるわ。わたくし、桐壺に釣り合いたくて、わたくしを弘徽殿の女御と中傷する声ばかり耳に入れていたのかも」
――桐壺にとってはわたくしなんて眼中にすら入っていないって、本当は知っていたの。だからせめて彼女に比肩する敵にくらいなりたかったのよ。そんな物語を語らせたかったの。「どうでもいい」は寂しいものね。
あの事件解決騒動の後で部屋に戻ると、弘徽殿は犬君を見てそうつぶやいた。
「悪役令嬢だっていいの。好きな人とニコイチなんて嬉しいじゃない?」
弘徽殿は茶目っ気を込めてそう言った。
それからひそっと声をひそめて口許を扇で隠し、弘徽殿は言い訳のように言う。
「でもね、案外わたくしの悪口を言う人がいるのは本当なのよ? こーんなできた女御のわたくしを!」
自分を元気づけるように「こーんなできた女御」なんて自分で言う弘徽殿に、犬君は笑った。
「……わたくしがどんなに他の女御やその女官に親切にして仲良くなって少しでもお互い快適に過ごそうとしても、必ずその裏を勘ぐる人間がいるの。初めから足を引っ張る気で言動を見張っていたり、それどころか――絶対言ってないけどわたくしが言いそうな嘘をほのめかす人もね。……それに、にわかにわかって言うけど、有名な物語ほど自分の目で読んだことのない聞き齧りって多いんだからね。本当よ」
正直上から見ているとみんな馬鹿に見える瞬間がある。でも人間関係ってそういう馬鹿を馬鹿にしちゃ足を取られるの――そう言って弘徽殿はため息をついた。
「わたくし、弘徽殿の女御としてまだまだだわ」
後宮はあなたたち男の妄想と違って、ずっと理性的で秩序だった組織なのよ――そう言い続けてきた弘徽殿の女御の、それはやっと聞けた本音だった。
女官の中には妃候補の少女たちが自分で選んだお気に入りだけではなく、一族から推挙された女官もいれば朝廷直属の女官もいる。女御たち本人は仲良くありたいと願っても、男の親族やそれに仕える女官たちはその気持ちを踏みつけるように噂をふりまいていく。妃候補たちは権力闘争の駒。そうであれば、駒を利用しようとする甘言や貶めようとする罠が、日常のあちらこちらに張り巡らされている。それは他人が想像する「愛欲と嫉妬と贅沢まみれ」の生活とは全然違う恐ろしさ、個人的な好悪を超えた人間の欲望と人間関係の複雑さに緊張が緩めない日々だろう。
「ええ。ええ。もちろん嘘だとは申しません。語る相手も喩える言葉も知らずして口性ない者はどこにでもいるものです。――しかし、弘徽殿様にお仕えしてみれば、あなたを慕う女房のほうが遥かに多かったのです。他の女御更衣とその側近でさえもあなたを憎んでいない」
弘徽殿はふふと笑った。
「ありがと、犬君」
そして冗談めかして笑う。
「だいたい、後宮にいて憎まれもしないなんてまだまだではなくて?」
ああ、あまり本気にしていないな。犬君は眉を寄せる。
何か言い足すべきかどうか迷っていると、その間に挟まるように鶯式部が滑り込んできた。
「女御さま! あたしも女御さまのことが大大大好きですからね!」
弘徽殿はきょとんとその顔を見つめ、それから「もーこの子は!」と笑いながら抱きしめる。
「ねー龍田ぁ。龍田はどう? わたくしのこと、好きって言って!」
龍田は急に話題を振られて驚いたように自分を指さし、それから、穏やかにはにかんだ。
「……妾の気持ちは、常に言うまでもなく」
それはこのノリの会話の中では空気が読めてないと言ってもいいほど誠実な声で。
「なにそれーーーーー!!」
弘徽殿が鶯式部を抱きしめたまま、駄々をこねるように叫ぶ。ちょっと腕でつぶされている鶯式部が大袈裟にきゃあきゃあ笑っている。
「言うまでもなくじゃなく、大好きって言って! わたくし最近いろいろと自信がなくなってきてたのよ。ねぇわたくしのこと、大好きよね!?」
◇◇◇
手許の削氷が甘い水だけになってきた頃、ふと思いついたように弘徽殿が言った。
「そんなことより、そろそろあなたをこんなところから帰してあげないとね。でもどうしたらいいのかしら――」
弘徽殿が真剣な顔で相談しかけたそのとき、男の声で朗々と和歌が響き渡った。
「玉櫛笥あけに乱るる黒髪を われならずして誰かとくべき」
突然の男の声に御簾を見遣れば、黒の束帯を着た男が廊下に跪いている。一礼した瞬間、光がこぼれるように金色の後れ毛が夕陽を乱反射した。
ついでもう一首詠み上げられる。
「交わす枝の契りかと見る朝寝髪 黄楊のくしこそ返し給はめ」
皆が呆然としている間に、男は深く一礼した。
「この度はお世話になりました、弘徽殿の女御様。そろそろ私の黄楊姫を引き取らせていただきたく存じます」
背中から光を帯びた髪はまるで朝の雪原。
その髪の色を見た瞬間、恋愛話の好きな女房達が一斉に色めき立って手を取り合う。
「彼氏のお迎えですわー--!」
犬君だけが、引きつった顔をしてその男を見詰めていた。




