真解決編・12
「わっざっとっ! らしいのよッッ!!」
梨壺はギリギリまで下座によった床の端に姿勢良く座っていた。ギリギリ廊下ではないものの、ほぼ廊下と言ってもいい端っこだ。そんな梨壺をにらみつけ、弘徽殿がギリギリと歯を噛んだ。
「なんなのその下座は! 宮様ともあろう方が!」
当てつけのような距離の取り方に、弘徽殿は「わざとらしい! わざとらしい!」と騒いでいる。
「君が二度と触れるなと言ったんだ」
梨壺はおかまいなく、涼しい顔で答えた。
「だっかっらっってっっ! わざとらしいその距離はなんなのかって聞いてるのよッッ!! 当てつけみたい! いやらしい!」
べつにそんなことはないさ、と梨壺は微笑う。
「普通、主が許可をしない限りは女の部屋に勝手に上がり込まないものなのだろう? 桐壺に叱られて初めて知った。これからは気をつけるよ」
普通は、と言われて弘徽殿がぐっと言葉に詰まる。
「だから僕も一度は普通のように恋を始めてみようと思って、端からゆっくり距離を温めることにした。騙し討ちにした詫びというわけではないが、やり直せることは初めからやり直したい」
弘徽殿は何か言いたげに眉をよせていたが、やがて「ふんっ!」と大声を上げて顔をそむけた。
「梨壺の宮様がわたくしごときにお気遣いくださるなんて、明日には野分でもやってくるんじゃないかしら!」
殊勝だ。殊勝すぎて気持ちが悪い。
過剰に下手に出ている梨壺に対して、こんなはずじゃなかったと感じている自分も気持ちが悪かった。
「……僕が僕の妃に気遣って何が悪い」
弘徽殿はちらと梨壺を見た。忌々しい。「僕の妃」と言いながら、それを明かした後、梨壺は「妃」の前で姿勢を崩さなくなったのだ。
あんなに女宮らしくもなく図々しくて強引で、女宮らしくもなくお行儀の悪かった人が!
弘徽殿はふと立ち上がると、部屋の端っこの梨壺につかつかと歩み寄り、襟元をつかみ上げる。
「……殴るか?」
怒りを込めた強い目を真正面から受け止め、梨壺が口角を上げた。
弘徽殿は梨壺の胸倉をつかむ手にぐっと力を込める。そのまま強く目をつぶって、ぶつけるようにくちびるを重ねた。
梨壺は驚いて目を見開いたまま、仕返しもできずに固まっている。
「あなたもわたくしの主上なら覚悟を決めなさいよ! わたくしはあなたが誰でも生涯を捧げるつもりで入内してきたのよ」
目を丸くする梨壺を「ふん!」と投げやり、弘徽殿は見下ろして腕を組む。
「だけど、わたくしが黙ってあげてると思って、許されたとは思わないでよね。藤原右大臣家の女、藤原蝶子はあなたを永劫に愛さない」
弘徽殿から向けられる厳しい声に、梨壺は「うん」といつもの軽薄な声でうなずいて、それからにじみ出すように寂しく笑う。
「当然だ」
夕暮れにさしかかり、秋の虫の鳴き声がしていた。「そろそろ帰ろう」と廊下の内侍に声を掛ける。袿の裾が、あざやかな夜色に翻った。
弘徽殿は真顔でそれを見つめてから、ことさら抑揚のない声でつぶやく。
「……でも、わたくし藤原蝶子はずっと、夫になる人をいつか好きになりたいと思っていましたわ。今すぐは無理でも。いつかは。――それが例え、恋ではないとしても」




