解決編・9
「桐壺は後宮の内で最も帝のおわします清涼殿から遠い殿舎であるーーゆえに、長い廊下を歩いて帝のお召しに従う桐壺の更衣は好奇の目にさらされ、いじめられて、死ぬほど心身が衰弱していったーーそれが、源氏物語の語り始めで間違いはありませんでしょうか?」
犬君が紙を取り出し、内裏の簡略地図をさらさらと描いていく。清涼殿から弘徽殿を通り、回廊を描き終えると、終着点をトンと筆で叩いた。
「帝のおわします所から最も遠いということは、内裏においては『最も外郭に近い』ということを意味します」
言って、犬君は後宮七殿五舎を囲う外壁を描く。
「大きな建物がありましたならば、その建物は高い築地塀で囲われてございます。餌をついばんだ烏は、柵や塀のあたりに獲物を落としていくことがよくあります」
犬君はそう言って桐壺近くの庭を指差した。
高いところや塀の側の人気が少ない場所には、烏の落とし物がよくある。それも決まって同じところだ。烏は賢いので物陰に餌を隠して後でゆっくり食べるとも言われているし、固すぎる餌を落として割って食べるのだとも言う。
「したがって、おそらく後宮七殿五舎のうち、烏の落とし物に遭遇する確率が最も高いのは桐壺ではございますまいか。そして烏のごちそうとは、傍の路地や野辺に打ち捨てられた人や獣の遺体――この宮中において死に触れることは穢れでございます。獣の死骸を見たならばその官は朝廷での仕事に制限が設けられます。行事を欠席することになれば理由が日記に書き記されまする。触穢による謹慎――と」
そこまで書いて、犬君は一冊の本を取り出す。弘徽殿に借りた日記の中から物忌に関する記述をいくつか書き出したものである。犬君はその表紙を忌々しげにぱんと叩く。
「さて、今、路地に打ち捨てられている遺体の多くは流行り病で亡くなった者にございます。路地に放り出された遺体は犬神人と申す者が京の四方の風葬地へと運びまするが、そうして打ち捨てられた者の多くは寺に葬儀の報酬が払えない者たちです。犬神人が遺体を清掃する最低限の報酬は遺体に持たせた副葬品を好きにする権利のみ。……だとはいえ、その仏様に着せる帷子さえ今際に着ていた襤褸ともなればどうでしょう。なるだけ丁寧に身なりを整えたものを優先してもおかしくはないのではありませんか。……われ……彼らも、生業でございますから。葬っても旨味のないもの、あるいは病や腐敗の状況が著しく酷いものは鳥辺野にすら運ばれませぬ。経は唱えてやるからそれで許せと」
梨壺と弘徽殿がうっと息を詰まらせた。意外と表情を変えなかったのは桐壺である。貴族の中でも下流出身の桐壺にはその光景が想像できるのだ。驚くべきこともない、大路の日常の光景として。
「今、大路にあふれているのはそういう遺体でございます。大内裏を一歩出ましたらば京は地獄絵図にございます、長きに渡る貧困と疫病で。悪戯にもそれを烏がついばみ、清浄に保たれるべきはずの塀の内側へと、病んだ貧者の腕や脚を落とす。落とされた『穢れ』は下女や女童が掃除いたしまするが、疫鬼は病を得た身体に触れるだけで伝染いたしまする。さらに発症した下女が彼らを統括する女官に接触し、触穢を規制することで"表"からは侵入を防いだはずの疫鬼は、思わぬ経路をたどって内裏の奥から表へ――」
しん、と皆が黙る。弘徽殿には同じ話を一度していたが、ぞっとしたように目をそらして腕をさすっていた。
「これが、『桐壺は死の気配がする殿舎』 『穢れの多い殿舎』と申し上げましたる意図にございます」
犬君はそう話を閉じて、深く頭を下げた。
「そもそも、穢れとは禍を引き起こす可能性のある一過性の状況にすぎませぬ。最近では特定の場所や人の属性を表す言葉のように使う者もおりますが、さようなものではないのです。
もしも人々が他人の棲家を指差して穢れているなどと申すような世になりましたらば、どうか今のようにお怒りくださいませ、宮様」




