解決編・4
「な……っ!! 誰がニワカですってぇ!?」
思わず立ち上がり叫ぶ弘徽殿に、梨壺はやれやれと肩をすくめる。
「君は局が弘徽殿なせいで悪役令嬢に見られると言うが、僕から見れば、君が悪女に見えるのは日頃の態度の当然の結果でしかない。態度がでかいし圧が強いし目つきも悪い。なぜか桐壺に執着していて気持ち悪い。僕は事情を知っているから君は好意で見つめているだけだと知っているが、知らない者が傍から見れば、高飛車な摂関家の姫が寵愛深くおとなしい桐壺ににらみを効かせているようにしか見えん。――ここまで理由がそろっていて逆に思い当たらないことがあるのか?」
梨壺はうんざりとした顔でひときわ大きなため息をついた。それから少しキレ気味に自分を指さして叫び返す。
「だいたい弘徽殿の女御だからなんだって言うんだ。僕なんて女三宮だぞ女三宮!」
キレ散らかしていた弘徽殿が、はたと今気づいて、スンと同情気味の目になった。
犬君は両者に挟まれて顔を見比べ、「女三宮で何が悪いのか」とぽかんとしている。それを見、梨壺は「本気か?」とドン引きした顔になった。
「なるほど、主人がニワカなら女房も女房か」
そこで女三宮という登場人物がいて、結構な重要人物であることを悟る。おそらくは、弘徽殿の女御と同じくらい……いや、あるいはそれ以上に困った描かれ方をされた不人気の人なのだろうということも。
「女御様にニワカとおっしゃるのは侮辱ですが、私に関してはその通りで申し開きもございません。この間まで市井に居た身には源氏の物語を目にすること自体困難なのでございます」
「漢籍には詳しいのにか?」
疑いの目を向ける女三宮・梨壺に、犬君は首を振った。
「私は寺育ちですので、手を伸ばせば届くところに幾らでも漢籍はございました。一方で、かな物語には酷く疎うございます。女子としては大変な教養不足、恥ずかしながら御容赦くださいませ」
犬君の弁解に「あーなんかそんなことを言ってたな」と梨壺は頭を掻いた。教養のある女が好みで殿上に仕える女の知識不足にはめっぽう厳しい梨壺だが、生まれ育った環境の文化の差を持ち出されると存外あっさりと引いた。
「しかも寺院では源氏物語は教義倫理的によろしくないものだとも聞くからな。じゃあしょうがないか」
梨壺はうなずき、話を「弘徽殿」への偏見に戻す。先程よりも説明を噛み砕いて。
「ともかくだな、弘徽殿に入れば悪女の印象がつきやすいかといえば別にそんなことはないのさ。だいたい源氏物語の中にすら、『弘徽殿の女御』はふたりいるのだぞ」
「そうなのですか」
実際、源氏物語を若紫までしか読んだことのない犬君は素直に驚いている。それを見た梨壺は「そこからかよ……」とため息をついた。
「まあかなり後半の話になりますから、知らなくても無理はないかと思いますよ。姫様の言う二人目の弘徽殿の女御とはすっかり世代交代して冷泉帝に入内した頭中将の娘のことですから」
ようやく桐壺付きの女房たちのざわめきを抑えた薄夜内侍が戻ってきてたしなめる。
「あまり有名ではない人物ということですね。ではやはり弘徽殿の女御と言えば、光源氏親子を虐げ政治に口を出す女傑の印象のほうが強いのでは。そして源氏物語ほどの作品でありましたら、印象を左右されることはありえないことではございませんでしょう?」
犬君が問うと、内侍は首を傾げて少し考えてから答えた。
「それが、私の実感のみならず、あらゆる文書を見てもそうはならないようなのですよね。清涼殿から近い弘徽殿の殿舎には常に有力なお妃様が入られるからかもしれません。我々にとって殿舎は職場。創作物ではなく日常の現実ですので」