からすのごちそう・4
「のう、犬君。おれは本当に触穢など恐ろしくはないのだ」
にたりと話しかけられて、ぼーさんが首を傾げる。
「おれが穢れに触れたことを誰も知らなければ、触れなかったのと同じなのだからな」
ぼーさんの目の前に無数の火が揺らめいている。しかし弓手は誰もぼーさんを見ていない。
「貴様のような犬に臓物を与えた屠児ごと死ね」
呪わしく宣告されてぼーさんはようやくこの事態に眉を顰めた。
「何を考えている。民家だぞ」
初めてぼーさんの狼狽した声を聞いた衛門佐はほがらかに笑い、高らかに叫んで両手を広げた。
「民家ではない」
そして、クッと唇をつり上げる。
「四方諸々《よもつもろもろ》のケガレを打ち払え!!」
その声と共に。
一斉に火矢が放たれた。
「ぼーさん!!」
あたしは叫びながら腰に巻いていたひらみを裂くと、取り急ぎ矢に巻きつけてつがえる。間髪を入れず次の矢を放てば、それはまっすぐに衣の真ん中を貫いて空に広がった。いきなり盾のように広がった布を、まっすぐに飛ぶ火矢の群れは避けることができない。空が燃え上がる。あたしの服だったものが一瞬で炎に変わる。
舞う火の粉の向こうで、犬君があたしを振り向いている。顔を覆う白絹の呪符が疾風に揺れて、垣間見えた唇に、犬君が指を当てる。
静かにしていろ? ふざけんな。丸腰のぼーさんを守らないわけにはいかない。そしてあれはあたしの家なんだ。
すかさずあたしを狙い撃ってくる一矢をあえて手の甲に貫かせる。熱が走り、引き抜いた穴から血がほとばしる。それを口で吸い、ぺっと地面に吐き捨てる。まったくいい矢を使っていやがる。だけど奪い取ったらあたしの矢だ。
寄っ引いたその瞬間、強く手首をつかまれた。犬君が険しい目で睨みながらあたしの弓を取り上げる。そのまま虚空に弓を引いた。あたしの代わりに奴らを射るのかと思いきや、綺麗に構えられたその手に矢は一本も握られていなかった。
澄んだ弦の音が空に響く。
重ねて犬君が遠吠えのような声を上げる。そのまま歌うように日本語とも異国語ともつかない祭文が朗々と宣り上げられ、衛門佐の顔が蒼白になった。
「ぐ……」
顔色の悪さは恐怖ばかりではなく、たちまちに蝋のような白さになり、土気色に澱み、青黒い染みが這い出すように皮膚に顕れる。
「何をしている、助けろ、助け……」
喉を押さえのたうち回る狩衣がまだ居丈高に命ずるも、従者達は助けるどころか口を押さえて退いていく。
鴉が羽ばたく様に髪が舞い躍った。
幾人かの僧兵だけが怯まず薙刀を構えるのを、犬君は祭文の奏上もやめずに懐に飛び込んで手刀で穂先近くを跳ね上げる。そうして薙刀を握る手が浮いた弾みに柄を奪い取って両手で軽く逆向きに押し遣った。長物で押されては猛者も吹き飛ぶ。次々と僧兵達を押し転がしては返す手で振り向きもせずに薙刀の柄で背後の者の鳩尾を容赦なく突く。
「む……う……くふ……ッ……」
僧兵達は這う這う狼狽していた。もはや地面をのたうち回る衛門佐のことなんて誰も見てはいない。
奪い取った薙刀を無造作に投げ捨て、犬君がささやく。
「さて、九相図は御存知ですね」
白く膨れ上がった男の口や鼻から黄ばんだ血が吹き出す。血の中に白い粒が蠢いていた。声にならない悲鳴をあげて衛門佐は手に吐いた虫を払うが、恐怖におののけばおののくほどますます足はまろび、淀んだ血だまりの中に崩れ落ちてしまう。
腐臭を聞きつけた狼の遠吠えが聞こえる。鴉が低く旋回している。
終わりだ。
息を吐いたそのとき、もう動けないと思っていた衛門佐が渾身で上体を起こした。
「あんな……女の……あんな……下臈の、せいで……、」
手にはあたしが鳥除けに突き立てた矢が握られている。射損じた手負いの獣が間近に迫り来たときにはそのまま振りかぶって手で刺し貫ける大振りの矢だ。
止めようにも、あ、も、う、も無い。
「去ねやァァァァ」
ただ身体が動くままに必死に落ちている弓をつかみよせた。
「犬君!」
目の前で鮮やかな赤色が翻った。
あっと息を呑む。
矢の先は、赤い色を深く貫いていた。
それは犬君の袂だ。燕脂の袖に衛門佐とあたしと両方から放たれる矢を受け止め、手を翻していなしたのだ。
衛門佐の顔はみるみる血の気を失い、その手はたちまち絶望に震えて地面に落ちた。すかさず犬君がその手を踏みつけ、地面を掻いて震える指から矢を奪い取った。
ふっと息を吹きかける。鏑からぼうっと火が上がる。それを犬君はためらいもせずに倒れ伏す男の胸に突き立てた。
「……憐れ、まことにただの妄念にございましたな」
見下ろした犬君は悲しげに合掌して、生きながら腐り果てた身体をずぶりと踏み込んだ。
「吾に当たる者は死し、吾に背く者は亡ぶ――急急如律令」
蒼い燐光が上がり、心臓に突き立てた火矢から引火する。それは死体の腹が爆ぜるがごとく、ぼかりと大きく弾け、たちまちに衛門佐を包み込んだ。