歌枕の浅き夢(ディヴィジョン・ラップバトル)・14
「……返歌するの? まさかアレで本当に好きになっちゃったんじゃないでしょうね」
硯を取って墨を擦り始めた犬君を不満そうに見つめ、弘徽殿の女御が言った。
「それはないですね。いかに色男のごとき御振る舞いでも、女性は女性ですから」
犬君は一笑に伏して、梨壺からの文を確認する。
「しかし宮様からの文とあらば、それなりのご返歌をしないわけにはいかない」
弘徽殿は不服そうにくちびるをとがらせてから、腕に抱えてきた色とりどりの紙の束で犬君を軽くはたいた。
「それからこれもね」
どさりと床に投げられた紙の束に、犬君は困惑した顔で弘徽殿を見上げる。
「まさか……」
「そのまさかよ」
弘徽殿はふふんと笑って紙束を指さした。
「案の定、あなたに恋文がたくさん届いて、女官達が困ってるのよ。自分でなんとか始末をつけなさい」
犬君は苦笑しながら紙束を受け取る。
すごい世界だ。そもそもまとまった量の紙自体があの手この手で貴族にねだってようやく手に入る高価なものだというのに、さらにその中の産地にこだわった和紙の中に花や金箔をいっしょに漉き込んだりあざやかな色で染め上げたりした特殊紙が、恋と遊興のために湯水のごとく使われる。
「世に逢坂の関は許さじとでもお返ししておきましょう」
口角を上げて皮肉るように言った直後、墨を擦る手がはたと止まった。
「待てよ、逢坂の関……?」
自分と話しているときとは違う声、その口調に、弘徽殿は驚いて犬君を見る。
「なぜ気づかなかったんだ……これでは桐壺からは出られない」
何かぶつぶつとつぶやきながら考え込んでいる犬君の顔を見つめ、弘徽殿が心配そうに尋ねた。
「……え、なに、なに? どうしたのよいきなり」
犬君ががばりと顔を上げる。
「弘徽殿の女御様。我々は重要なことを忘れておりまする。これまで幾度も源氏物語の話をしていたというのに、です」
何が……と当惑しながらつぶやく弘徽殿を、真剣な目で見つめながら犬君は言った。
「桐壺は内裏の最も奥にある殿舎。桐壺から人が出るには必ず弘徽殿の前を通らなければならない。桐壺から行き来する人があれば、桐壺に強い感情を抱いている弘徽殿の女御様は必ずその気配に気づくはず――いいですか、源氏物語の桐壺巻、その大前提は『桐壺の殿舎は、数多さぶらひける女御更衣及びその女官達の監視の目で構築された巨大な密室』だということです」
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「お姉さまかてもう立派な妃のひとりなんやからの。そないな恥もじいことする暇があったらこの鞠子と遊ぶべきやと思うわ」
桐の大樹の緑蔭涼しげな部屋の中、手づから高坏に唐菓子を盛って歩いてきた桐壺の更衣に、拗ねたように顔をしかめて中宮が言う。
食べ物を女官に頼まずに自分の手で用意するなんて、下女のふるまいであさましいと中宮・鞠子は思っている。
「……すみません。つい、身体が動いてしまって……」
困ったように首を傾げて、桐壺は中宮の前に座る。ではなんの遊びをいたしましょう?と桐壺が気弱に微笑むと、中宮は待ってましたとばかりににっこりと笑った。
「あのな、桐壺。桐壺に用意させんでも、菓子くらいこちらで用意しておるわ。お父さまにいただいためずらしいものでの。鞠子はこれをねるねるねるねと呼んでおる」
◆次章「桐壺のクローズドサークル」は2023年9月1日更新予定です◆